2018年05月04日

大自然から学ぶ智慧(3)

◇廻り舞台から飛び出せ◇


次々と生まれる苦しみとの果てしないイタチごっこから解放される為には、何としても六道輪廻の廻り舞台から飛び出し、苦しみの連鎖を断ち切らなければなりません。


六道の廻り舞台から飛び出した人を「仏(覚者)」と言い、六道の廻り舞台から飛び出せずにいる人を「凡夫」と言いますが、貴船の脇坂リヨ様が、「本当の幸せとは、凡夫から抜けなあかしませんのや。凡夫から抜けるという事は、悟るということどすさかい、悟らなあかしませんのや。悟ったら、体が光で守られますさかいなあ。乞食(こつじき)せなあかしません。乞食と言うのは、食べ物をもろうて歩くのと違いますのや。己を捨てる事が乞食どすえ。自分の事は考えんでもよろしいのどす。自分の事を考えると、間違いをおこしますのどすわ」とおっしゃっておられるように、己を捨てて、六道輪廻の廻り舞台から飛び出した所にしか本当の幸せ(救い)はありません。


では、どうすれば六道輪廻の廻り舞台から飛び出せるのでしょうか?


その為には、先ず欲望の充足と救われる事の違いを知らなければなりません。欲望の充足に幸せを求めている限り、いつまで経っても六道輪廻の廻り舞台から飛び出す事は出来ません。


「飽くなき欲望」「渇望」という言葉があるように、苦しみの連鎖の裏には、欲しいものを手に入れよう、手に入れたいという強い貪りの心(貪欲)があります。


あれも欲しい、これも欲しい、有っても欲しい、無くても欲しい、欲しい惜しいと、果てしのない貪欲の奴隷となっている限り、連鎖は止められません。


欲望の充足に救いを求めている限り、有っても無くても苦労し続けなければならないのです。


ですから、どうあっても欲望の充足と救われる事の違いを悟らなければなりません。


◇大自然が教えている真理◇


欲望の充足を求める心とすれば、救われる心は与える心と言ってもいいでしょうが、その心を教えてくれているのが、大自然です。


私たちは、太陽から、ありとあらゆる恵みをいただいています。太陽がなければ、人類は生きていけません。


いま地球上に届いている太陽の光は、約8分18秒前に太陽の表面から発せられた光ですが、表面の光は、太陽の中心で発せられた光が100万年かかって表面に到達したものです。


太陽の内部は非常に密度が高いため、太陽の中心から発せられた光であっても、太陽表面に到達するまでに100万年かかるのです。


ですから、いま地球に届いている太陽光線は、100万年前に太陽の中心で発せられ、8分18秒前に太陽表面から発せられた光という事になります。


100万年と8分18秒という気が遠くなるような時間をかけて地球上に届けられた光のお陰で、私たち人類は何不自由なく生かされているのです。


太陽から頂いている恩恵は計り知れず、どれほど感謝しても感謝し切れませんが、太陽は今までその見返りを求めた事があるでしょうか?


太陽は、ただ与えるだけです。太陽から見返りを求められた事など、一度もありません。


野に咲く草花たちはどうでしょう。太陽と同様、綺麗な晴れ姿を見せて心を癒してくれているだけで、人間にその代償を求めたりはしません。


毎年、春になると、法徳寺の境内にある四十数本のソメイヨシノが満開となり、可憐な薄紅色の花を咲かせてくれますが、桜たちも、ただ可憐な姿を見せ、心に喜びを与えてくれているだけです。


それに比べ、人間はどうでしょうか?「世話をしてあげたのに、あの人は一言の礼も言わない」と言って、必ずその代償を求めます。


尊い信仰のご縁を頂いても、「これだけお布施をしたから、ご利益を下さい。これだけお参りをしたのに、ご利益を頂けません」と言って、み仏に見返りを求めます。


もし太陽から、「これだけの光を届けてあげているのだから、その見返りが欲しい」と言われたら、人類はたちまち破産してしまいます。この地球上にある全財産をつぎ込んでも、太陽の求めに応じる事など出来ません。


勿論、太陽はそんな事を望んではいませんし、求めてもいません。ただ人間に対し、「幸せになる為には何が必要か」に気付いて欲しいだけなのです。


◇出せば入ってくる真理◇


何故人間は見返りを求めるのでしょうか?


それは、先ほどお話したように、欲望の充足と救い(幸せ)を混同し、飽くなき欲望の充足に幸せを求めているからです。


限りなき欲望に縛られ、求めることしか知らず、欲望を叶える事が幸せになる条件だと錯覚している限り、出せばその分だけマイナスになるという発想しか生まれませんから、出す事も与える事も出来ません。


しかし、大自然が教えてくれているのは、その正反対の心で、マイナスにならなければプラスを呼び込む事は出来ないという普遍的な真理です。


これは、磁石の原理とも通じます。磁石にはプラス極とマイナス極があって、プラス極とマイナス極は引き合いますが、プラス極同士、マイナス極同士は反発し合います。


自分が一生懸命プラスにしようと求めてばかりいると、寄って来るのはマイナスばかりで、プラスは寄って来ないのです。


与えるマイナスの心を持っていると、寄ってくるのは、マイナスではなく、プラスの方です。


「阿吽の呼吸」という言葉があるように、息を吐かなければ吸う事が出来ません。


求めるという事は、息を吸い続けるのと同じ事で、息を吸う為には、先ず息を吐かなければならないのです。


息を吸い込む阿(あ)と、息を吐く吽(うん)が交互に繰り返される事によって、幸せの好循環が生まれ、そこに、福の神が幸せを運んで来てくれるのです。


合掌


大自然から学ぶ智慧(1)
大自然から学ぶ智慧(2)
大自然から学ぶ智慧(3)
大自然から学ぶ智慧(4)
大自然から学ぶ智慧(5)


高野山法徳寺Website「救いの扉」

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2018年05月02日

お目出たい紅白の牡丹!

紅と白のボタンが咲いていますが、同じ根から出ています。
珍しい現象ですが、お目出たい事が起きる前兆かも……?
う〜ん、よく分かりません(笑)


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石楠花も満開です。


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ツツジも負けじと、次々に花開いていますよ。


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2018年04月29日

百花繚乱!

庭先は、シャクナゲ、牡丹、水仙など、様々な花が咲き誇り、まさに百花繚乱と言ったところです。


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ミツバチも、シャクナゲの蜜を求めて忙しく飛び回っています。
頑張れ〜


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2018年04月27日

大自然から学ぶ智慧(2)

◇何の為のお参りか◇


世の中には、「何のために神社やお寺にお参りするのですか?」とお尋ねすると、「願いを叶えたいからです」と答えるお方が大勢おられますが、これを見ると、多くの方が、願いが叶う事と幸せになる事を混同しておられるのがよく分かります。


この方々にとっては、様々な願いを叶える事がお参りの目的ですから、願いが叶った時は「ご利益をいただき、有り難いです」と言って喜んでいられますが、いつも願いが叶うとは限りませんから、願いが叶わなくなると、神仏を仇に思うお方も出てくるのではないでしょうか?


願いが叶うか否かによって、有り難くなったり、そうでなくなったりするのは、まだ根底から救われていないからですが、願いが叶う事と救われる事は根本的に違います。


願いが叶ったからと言って、救われた訳でも幸せになれた訳でもなく、あくまで一つの願い、一つの欲望が一時的に充たされたに過ぎません。


願いが叶っても、その場限りの自己満足ですから、また新たな欲望や願いが生まれ、その願いが叶わないと更に新たな苦しみが生まれ、その苦しみから逃れたいという新たな願いが次々に生まれるという、果てしない悪循環の泥沼に陥ってしまうのです。


例えば、子供のいない人に子供が生まれても、それは「子供が欲しい」という欲望の一つが叶えられただけで、幸せが約束された訳ではありません。


子供が生まれた事によって、そこからまた新たな苦しみが始まる事は、世の中で起きる様々な事件や事故を見れば一目瞭然です。


結局、私たちの人生は、子供がなくても苦労、子供があっても苦労、商売がうまくいっても苦労、うまくいかなくても苦労、結婚しても苦労、結婚しなくても苦労、病気しても苦労、病気しなくても苦労で、どちらに転んでもそこに待っているのは苦労だけで、欲望の充足に幸せを求めている限り、いつまで経っても本当の幸せにはつながらないのです。


本当の幸せが得られるかどうかは、欲望の充足に幸せを求めていた今までの生き方を、根底から変えられるか否かにかかっていると言っても過言ではないでしょう。


◇六道輪廻の廻り舞台◇


御法歌「頼め彼岸へ法のふね」の中に、
  六つの道がめぐるから
    幸せばかりと 思うなよ
    人生廻り舞台なり
と詠われているように、今の私たちは、場面が次々と変わる廻り舞台の上で、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六つの芝居(六道)を演じ分けている役者のようなものです。


現在は、苦もあれば楽もある人間界という舞台で芝居を演じていますが、舞台が回転すれば、他の世界の芝居を演じなければなりません。


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地獄界は、願いが悉く叶わず、自分の思い通りにいかない為に怒り狂い、悪業の報いを受けて、ありとあらゆる苦しみに苛まれ続ける極苦の世界です。


餓鬼界は、有っても欲しい、無くても欲しいと、飽くなき欲望の奴隷となり、苦しみ続ける貪りの世界です。


畜生界は、人を押し退けてでも自己の願いを叶えようとする自我我執の世界です。


以上の三つは、苦しみばかりの世界で、三悪道(三悪趣)と呼ばれています。


修羅界は、人を妬ましく思う愚痴嫉妬の世界で、三悪道に修羅界を加えて、四悪道(四悪趣)と言われています。


人間界は、苦もあれば楽もある世界です。


最後の天上界は、願いがすべて叶い自分の思い通りになっている世界で、楽ばかりの世界です。


この六つの世界の内で、苦しみのない天上界が最も幸せな世界のように見えますが、天上界といえども、迷いの廻り舞台で演じられる六つのお芝居の一つに過ぎません。


ですから、必ず自分の思い通りにいかない時が訪れます。そうすると、再び舞台が回転して、地獄や他の世界を演じなければなりません。


しかも、六道輪廻の廻り舞台には終演がなく、未来永劫、六つの世界を演じ分けながら、終わりのないお芝居を演じ続けなければなりませんから、心の安らぐ暇がありません。


もし心安らかに生きたいと思えば、六道の廻り舞台から飛び出す以外に道はないのです。


◇有っても苦労、無くても苦労◇


そもそも何故人は欲望の充足に幸せを求めるのかと言えば、自分が置かれている今の境遇に満足出来ず、不幸と感じているからです。


何か充たされないものがあり、それが充たされれば幸せになれると錯覚しているのですが、欲望が充足されても、本当の救いは得られません。


例えば、子供のいない夫婦が、子供を欲しいと願うのは、子供のいない事を不幸と考え、子供が出来れば幸せになれると錯覚しているからですが、子供のいる事が幸せとは限りませんし、子供のいない事が不幸とも決まっていません。


平成24年4月23日、京都府亀岡市で、通学途中の小学生と付き添いの保護者の列に、一晩中遊びまわっていた無免許の18歳の少年が運転する軽乗用車が突っ込み、小2年と小3年の児童、そして妊娠中の保護者の3名が死亡、7名が重軽傷を負うと言う悲惨な交通事故がありましたが、この少年の両親も、子供が出来た時は幸福に包まれていた筈です。


しかし、幸せをもたらしてくれる筈の子供が、大事故を起こし、人を死なせてしまったのですから、その幸福は偽りの幸福だった事が分かります。


貴船の脇坂リヨさまが、
 「子供がないのが不幸なのか、有るのが幸せなのか、みんな神様がなさることどすさかい。私は子供がないと思って、不幸やと思っとりゃしません。子供があったら二十二歳から済度する修行も出来しませんどしたわ。
 子供を十人も産んでも、苦労してはる方もありますし、一人きりの子供にでも見離されて苦しんでいる親もいやはるさかいなあ。子供がいても、養老院へ入らんならん人もいやはりますやろ。
 私は今は本当に幸せやと思っとります。毎日神や仏に守られてありがたいどす。
  神や仏に守られて
    行くぞうれしき道はなし
 と神様がいやはりますものね

と、子供を授からない事にも必ず意味があるとおっしゃっておられるように、子供がいない事が救いである事例も、世の中には沢山あります。


例えば、以前、酒鬼薔薇聖斗と名乗る14歳の中学生が、児童を次々と殺傷する連続殺人事件がありましたが、この少年の親も、子供が生まれた時は幸せに包まれた筈であり、まさかわが子が、将来このような大事件を引き起こすとは夢にも思っていなかったでしょう。


この事例を見ても、子供が授かれば幸せになれるという保証などどこにもない事が分かりです。


日蓮上人は、
 父母は常に子を念えども、子は父母を思わず
 親は十人の子を養えども、子は一人の母を養うことなし

と嘆いておられますが、日蓮上人の時代も、紙切れ一枚ほどの薄情な時代だったのでしょう。


昔から、「親孝行したい時には親はなし」と言われますが、今は、「親孝行したくないのに親がいて」と言われる時代だそうですから、世の中も変わったものです。


病気をする事、子供のいない事、思い通りにいかない事だけが苦労なのではありません。健康になったらなったで、子供が出来たら出来たで、またそこから新たな苦労が始まるのです。


人間の欲には限りがなく、病気をしていた時は、健康になる事だけを願い、子供のいない時は、子供が授かる事だけを願い、願いが叶えば幸せになれると錯覚していますが、願いが叶ったら叶ったで、またそこから新たな欲望が芽生え始め、次から次へと生まれる苦労との果てしないイタチごっこが始まるのです。


合掌


大自然から学ぶ智慧(1)
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2018年04月21日

お狸様見参!

境内に、ひょっこりお狸様がやってきました。
少し痩せているように見えますが、どうなんでしょうか?
狐と違って、狸はもう少しふっくらしているイメージがありますが、よく分かりません(笑)
いずれにしても、昨年の狐に続いての見参です。
狐の家族は、捨てられたスリッパや靴を毎日運んできて、それが、お稲荷様を勧請するきっかけになりましたが、はてさて今年の狸は、何を運んできてくれるのでしょうか?


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