2018年06月12日

お慈悲の涙

聖歌『お慈悲の涙』は、身代り升地蔵菩薩の御姿となって人々の苦を背負い、灼熱の汗を流しながら、衆生を救わんが為、ご苦労をして下さっている法舟菩薩様のご威徳を偲び、その慈悲心の深さを歌ったものです。


1、慈悲の郷 甲斐の若神子(わかみこ)高野山(たかのやま)菩薩さま
  ご苦労かけます いつまでも
  尊きえにし 伏し拝み
  いつもこの胸に あふれる涙
  尊き菩薩さま ありがたや
2、いつの日も 尊き姿を心に 映しつつ
  歩む人生 けわしくも
  道なき人に 導きを
  尽きることなし お慈悲の涙
  尊き菩薩さま ありがたや
3、仰ぎ見る 法(のり)のふるさと 妙の郷 菩薩さま
  やむにやまれぬ 親心
  打たれる身より 打つ涙
  渇く間もなし お慈悲の涙
  尊き菩薩さま ありがたや
4、気高きは 慈悲のおやざと 高野山 菩薩さま
  ゆこうみんなで 手をとりて
  苦しみ多き 人の世を
  浄め救いし お慈悲の涙
  尊き菩薩さま ありがたや
  尊き菩薩さま ありがたや


高野山法徳寺Website『救いの扉』

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2018年05月27日

大自然から学ぶ智慧(5)

◇菩提心の実践◇


仏教では、与える事を布施といい、与える心を菩提心と言いますが、お大師様は、この菩提心を四つに分けて説いておられます。


一つ目は信心です。信心と言いましても、ただの信心ではなく、何があっても揺るぎない金剛石(ダイヤモンド)のような堅固不動の信心を意味します。


菩薩様が、「お大師様をただ信じるのではなく、信じ切らなければならない」とおっしゃったあの信心です。


二つ目が大慈悲心で、大悲行願心とも言いますが、自分よりも先に他の人々を彼岸に渡し、救いたいと願う心です。


言い換えれば、苦しむ人々の苦を抜き、楽を与えたいという心(抜苦与楽の心)で、仏教以外の教え(外道)を信じている人々や、自らの救いだけを考えている二乗(声聞、縁覚)の人々には絶対に起こせない心と言われています。


三つ目が勝義心で、深般若心とも言いますが、劣った教えを捨てて勝れた教えに帰依していこうという心です。


仏教を内道、仏教以外の教えを外道(げどう)といいますが、昔から「邪魔外道に帰依してはならない」と言われるのは、勝れた教えに帰依しなければ、抜苦与楽の大慈悲心を起こす事が難しいからです。


四つ目が大菩提心で、一日も早く悟りを得て、彼岸浄土に帰らせて頂きたいと願う心です。


六道輪廻の連鎖を断ち切って、凡夫から抜け出したいと願う心も同じですが、何故この菩提心が起こせるのかと言えば、元々、私たちの中に、み仏の悟りの心(菩提心)が具わっているからです。


最初にお話したノーベル生理学・医学賞を受賞された大村智北里大学栄誉教授がなさっておられる様々な研究や社会貢献も、まさに菩提心の実践と言っていいでしょうが、何故この菩提心が大切なのかといえば、菩提心を起こす事は決して人の為ではないからです。


菩提心の実践は、六道輪廻の人生に終止符を打つ為には必要不可欠なもので、菩提心さえ忘れなければ、もう「あれを叶えて下さい。これを叶えて下さい」と、神仏にお願いする必要もありません。


必要な事は、求める心ではなく、与える心、施す心、菩提心を起こす事です。心の中におられるみ仏に外へ出てきていただかなければ、プラスは寄って来ません。


どんな事でもいいから、持てるものを与える事です。その心さえ忘れなければ、福の神は向こうから幸せを運んで来て下さいます。


◇無財の七施◇


よく「人に施すお金も物もないから、施し出来ません」というお方がいますが、施すのに、お金も物もいりません。例えば、お金や物がなくても出来る、「無財の七施」と言われる施しがあります。


一つ目は眼施(げんせ)で、やさしい眼差しで人に接する事です。


二つ目は和顔施(わがんせ)で、にこやかな笑顔で相手に接する事です。


三つ目は愛語施(あいごせ)で、やさしい言葉で人に接する事です。


四つ目は身施(しんせ)で、荷物を持ってあげるなど、自分の身体でできる奉仕をする事です。


五つ目は心施(しんせ)で、人の気持ちを思いやり、心を配ってあげる事です。


六つ目は床座施(しょうざせ)で、席や場所を譲ってあげる事です。


七つ目は房舎施(ぼうしゃせ)で、自分の家や場所を提供する事です。


例えば、お四国霊場へ行きますと、お遍路さんに休憩場所を提供したり、お遍路さんを泊めてあげるお接待や善根宿の風習がありますが、これがまさに房舎施です。


◇新陳代謝の大切さ◇


私たちの毎日の生活を考えても、出す事の大切さがよく分かります。


食べた物を、いつまでも出したくないと言ってお腹に貯めていたらどうでしょうか?
間違いなく体を壊して病気になります。食べたら出すのが、この世の決まりです。美味しく食べたいと思ったら、まず体内から出さない事には美味しく頂けません。


人間の肉体も社会も、新陳代謝によって成り立っているのです。


例えば、お金が循環しなくなると不景気になるのは、新陳代謝がなされていないからです。


地球も月も太陽も、みんな回っているからいいのです。回転が止まったら、たちまち太陽系の秩序が崩れて大変な事になるでしょう。


降った雨水を容器の中に溜め、そのままにしておいたら必ず腐ります。容器の中に滞って循環しないからです。いつも新鮮な状態を保とうと思えば、循環させなければなりません。


今冬、北陸各地で記録的な積雪があり、国道を走っていた車が身動きできなくなり、何日間も閉じ込められ、生活にも大きな影響が出ましたが、大量の雪によって循環が止まった結果です。


人間も社会も、新陳代謝を忘れてはいけません。


お腹がふくれたままでは美味しくないのと同様、自分の持てるものを出さなければ、そこで進歩も止まってしまいます。


生きる上で最も大切な事は循環であり、新陳代謝なのです。


新陳代謝と言えば、ただ循環する事(無常)だけのように思われるかも知れませんが、そうではありません。


地上に降った雨は、川となって海へ流れ、蒸発して雲となり、また雨となって地上に落ちてきます。一か所だけを見れば、増えたり減ったりしているように見えますが、全体を見れば、水はただ循環しているだけで、増えも減りもしていません。


新鮮なものを入れる為には、一方で減らさなければ、もう一方で増えていきませんが、それでいて、全体を見れば不増不減なのです。


その事を教えているのが、先ほどお話した無財の七施です。笑顔一つ、優しい言葉一つ、気配りの心一つが、幸せを呼ぶ施しとなり、しかも、幾ら施しても尽きる事がありません。


施せば施すほど、心の新陳代謝が活発となり、功徳の器も大きくなり、幸せや喜びが次々と入ってくるようになるのです。


◇み仏のために為すべきこと◇


世間では、信仰を、願いを叶える為の手段と捉えている為、神仏が信仰の見返りに何をしてくれ、どんなご利益を与えてくれるかが、人々の最大の関心事と言っていいでしょう。


その為、折角の布施行も、それに見合ったご利益を期待するただの取引になってしまっています。


布施行は、見返りを求めない無条件のものでなければなりません。見返りを求めるひも付きの布施行は、布施行のように見えて、ただの取引に過ぎません。


これは、執着以外の何ものでもありませんから、真の救いにはつながりません。


み仏にお布施をすれば、それはすでにみ仏の御手に移ったものであり、布施行は、そこで終わっているのです。


にも拘らず、そのお布施をどのように使い、どのような見返りがあるのかにまで拘り続けるのは、執着そのものであり、これでは折角積んだ功徳が台無しになってしまいます。


一口に布施行と言っても、無財の七施を含め、様々な布施行がありますが、最も功徳が高い布施行と言えば、み仏に対する布施行です。


衆生救済の為に御苦労して下さっているみ仏のお手伝いをする布施行に勝る功徳行はありません。


この事が分かれば、み仏が私たちの為に何をしてくれるかではなく、私たちがみ仏の衆生救済の為に何が出来るかを考えるのが、真の信仰(布施行)である事も分かってきます。


お釈迦様、お大師様、菩薩様の衆生済度の為に、何をさせて頂けるのかを考えるのが、真の信心であり、布施行であり、菩提心の実践です。


アメリカのケネディ大統領が大統領就任演説で、 「国が何をしてくれるかを考えるのではなく、国の為に自分が何を成しうるかを考えて欲しい」と国民に呼びかけ、拍手喝采を浴びたのは有名な話ですが、流石はアメリカ合衆国の大統領となるに相応しい人物です。


普通の政治家は、国の為に何が出来るかを考えて欲しいなどと言ったら票が集まりませんから、国民受けを狙って耳障りのいい事しか言いませんが、ケネディ大統領は、「国の為に何が出来るかを考えて欲しい」と、国民に直接訴えたのです。


銃弾に倒れはしましたが、党利党略の為の批判しかしない日本の一部政治家とは雲泥の差で、一歩間違えば国民を敵に回すかも知れない事を避けることなく、勇気を持って訴えたケネディ大統領こそ、国を思い、国民の事を思う真の政治家と言っていいでしょう。


ケネディ大統領の言葉を借りるなら、お大師様、菩薩様が私たちに何をして下さるかを問うのではなく、お大師様、菩薩様の衆生済度の為に何が出来るかを、自らに問わなければなりません。


衆生済度のお手伝いと言えば、とても難しいように聞こえますが、例えば、先ほどお話した無財の七施の実践も、立派な衆生済度のお手伝いです。


自分の周りの人々に、親切な心を施し、優しい言葉をかけてあげる事も、まさに菩提心の実践であり、布施行の実践であり、お大師様、菩薩様の衆生済度のお手伝いとなるのです。


大切な事は、「どのような形でもいいから、自分に出来る事を、出来る範囲でさせて頂く」という事です。


合掌


大自然から学ぶ智慧(1)
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2018年05月21日

五月の御縁日!

五月晴れの中、無事に21日の御縁日法要を厳修させていただきました。
法要の後、恒例の法話と聖歌の御奉納をさせていただきましたが、今日は、新たに二曲の聖歌が加わりましたので、その二曲をご紹介した後、みんなでご奉納させていただきました。
来月は、もう一曲、新たに聖歌が加わる予定ですので、楽しみにお待ち下さい。
今月は、ようこそお揃いでお帰り下さいました。
来月も、皆様のお帰りをお待ちしております。
合掌


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2018年05月17日

大自然から学ぶ智慧(4)

◇死を覚悟した苦行◇


天台宗に伝わる千日回峰行という修行があります。


以前、テレビでも千日回峰行の特集を放送していましたので、ご覧になったお方もおられると思いますが、比叡山の峰々を歩き続ける非常に厳しい修行です。


千日回峰行とは、十年間比叡山に籠もって毎日修行に明け暮れる籠山行の中にある苦行の一つで、七年の内の千日間、ひたすら比叡山の峰々に祀られている260箇所ものお堂を廻って、仏様を拝み続ける修行です。


30キロの道のりを、平均6時間かけて廻るそうですが、一年目から三年目までは、一年に100日間、四年目、五年目が、一年に200日間、つまり、五年で700日間の回峰行があり、それが終わると、「堂入り」と言って、九日間にわたる断食・断水・断眠・断臥の行に入ります。


食べる事も、水を飲む事も、眠る事も、横になる事も出来ない大変な苦行です。


「堂入り」が終わって六年目からは、京都までの道のりが新たに加わり、60キロの道のりを、100日間歩き続けなければなりません。


七年目は更に倍の200日となり、最初の100日間は、「京都大回り」と呼ばれる83キロの行程を、残りの100日間は、再び比叡山中の30キロの道のりを歩く行に戻ります。


こうして、七年かけて千日間の回峰行が行われるのですが、厳しい回峰行の中でも最大の苦行が、九日間に及ぶ「堂入り」です。


九日間、食べず飲まず眠らず休まず、ただひたすら八万枚の護摩木を焚いて拝み続ける訳ですから、まさに死を覚悟しなければ出来ない行と言ってもいいでしょうが、行の中で、口を漱ぐだけの水を口に含ませていただけるそうです。


勿論、飲めませんし、飲んではいけません。ただ口を漱ぐだけです。


いままで四十七人の方が、千日回峰行を成し遂げられ、酒井雄哉というお方が、二度成満しておられますが、戦前の昭和の初め、この千日回峰行を三度成満なさったお方がおられます。


奥野順玄というお方で、今や伝説上のお方と言っていいでしょうが、この奥野師にこんなエピソードが伝えられています。


◇或る千日回峰行者の講演◇


奥野師の講演会が催され、大勢の聴衆が固唾を飲んで見守っている中、講演会場にしずしずと入ってこられたそうです。


体の小さなお方なのに、その時はとても大きく見えたそうですが、正面の演壇に立たれ、暫く合掌したまま数分間祈っておられたそうです。


どんなお話をされるのだろうと、固唾を呑んで見守っている聴衆に向かい、おもむろにこうおっしゃったと言います。


「私は今、お不動様にご懺悔の気持ちで一杯です」


九日間、食べず飲まず眠らず休まず、ただひたすら八万枚の護摩木を焚いてお不動様を拝み続けたお方が、開口一番、「お不動様にご懺悔の気持ちで一杯です」と告白されたのです。


「口を漱ぐためにいただいた水の一滴が、喉を通ってしまいました」


勿論、飲もうと思って飲んだ水ではありません。口を漱ぐために含んだ水ですが、その一滴が、たまたま喉を通ってしまったと、おっしゃったのです。


「その事を私は今でも悔やんでおります。悔いております。お不動様にご懺悔しております。これから一生、お不動様にご懺悔し続けていくでしょう」


こう告白された後、続けてこうおっしゃったそうです。


「しかし、喉を通った一滴の水の味わいは、今でも忘れません。一生忘れる事はないでしょう。それではこれで私の講演を終わります。」


そう言って、講演会場を出ていかれたそうです。


この話は、平成10年に御遷化された信貴山玉蔵院の野澤密厳管長猊下の御法話の中で伺った話ですので、奥野師の講演の詳細は分かりませんが、話を聞いた時の衝撃は、今でも忘れられません。


わずか数分という講演の短さも然ることながら、極限状態を体験された奥野師の赤裸々な告白が、魂の奥底まで響き渡り、衝撃が全身を貫いていきました。


この講演を聞かれた会場の聴衆も、私と同様、強烈な衝撃を受けたのではないでしょうか。


◇奥野阿闍梨の問いかけ◇


「九日間の不眠不休で八万枚の護摩を焚いた時、たまたま口を漱ぐ為に頂いた水の一滴が喉を通ってしまいました。飲もうと思って口に入れた水ではありませんが、たまたま入ってしまいました。その事を私は、今でも悔やんでいます。お不動様にご懺悔しております。これからも一生お不動様にご懺悔し続けていくでしょう。しかし、その一滴の水の味わいは今でも忘れません。その水の味わいも一生忘れる事がないでしょう」


そう言って会場を後にされた奥野大阿闍梨がこの講演で伝えたかった事は何だったのでしょうか?


一滴の水が喉を通ってしまった事に対するお不動様への懺悔の気持ちや、喉を通った水の味わいを一生忘れる事はないという事実だけを告白する為ではないと思います。


むしろ奥野師は、「私の体験から、皆さんそれぞれに何かを悟っていただければ結構です」と、会場にいる人々に問いを投げかけられたのではないでしょうか?


百人いれば百様の受け止め方があるのは当然ですが、数分という僅かな時間で講演を閉じられたのは、講演を聞いた人々が自ら何かを悟り、人生を生きる糧としなければ意味がない事を、誰よりも分かっておられたからかも知れません。


◇水一滴の味わい◇


「飲まず食わず眠らず休まない行の真っ直中で口に含んだ水の一滴であっても、喉を通ってしまった事は悔いても悔やみきれない。お不動様に申し訳ない。しかし、その一滴の水の味わいは、今でも忘れられない」と、ありのままの心情を告白されたその言葉には、悲壮感さえ漂っていますが、「水の味わいは一生忘れられない」という言葉からは、喉を通った一滴の水が、全身に活力をみなぎらせるほどの味わいだった事が、ひしひしと伝わってきます。


以前、私も断食をした経験がありますので、「一滴の水の味わいは一生忘れられない」とおっしゃった奥野師のお気持ちが、少し分るような気がいたします。


勿論、千日回峰行を三度も成満なさったお方の行とは比べるべくもありませんが、断食を終えて最初に口にした重湯の味わいは、とても言葉では言い表せません。


今まで眠っていた細胞が、一瞬にして目覚めるとでも言いましょうか、体中にみるみる活力がみなぎってくるのが手に取るように分るのです。


この時に悟ったのは、入れる事より出す事の大切さです。


断食は、体からすべての老廃物を出し切る行ですが、断食の真の目的は、出し切る事ではなく、新鮮なものと入れ替えて、体を作りかえる事にあります。その為には、まず体内に滞っている老廃物を出し切らなければなりません。


昔から「体調が悪くなったり、食欲がなくなったりした時は、断食をするとよい」と言われるのはその為で、断食は、体内に滞っている様々な老廃物を出し切って、体を根本から作りかえてくれます。


断食をしてみれば分りますが、出し切った後は、まるで乾ききったスポンジが水を吸収していくように、たった一滴の水でさえも、口に含めば細胞内にどんどん活力がみなぎってくるのが実感出来ます。


断食をする前は、一滴の水を飲んでも何も感じませんし、一滴の水の持つ力が如何に凄いかなど想像も出来ません。


しかし、断食をした後では、僅か一滴の水でさえ、命を蘇らせる力を持っているのがよく分ります。


キリスト教に「求めよ。さらば与えられん」という言葉がありますが、断食に教えられるのは、「出し切れ。与えよ。さらば与えられん」と言う真理です。


恐らく奥野師も同じ真理を悟られたのではないかと思いますが、信仰も同じです。


よく「信仰とは何の為にするのですか?」と尋ねられる事がありますが、世間には、信仰を、自分の願いを叶えてもらう為の手段と考えているお方が大勢おられます。


何か満たされないものがあり、それを神仏の力によって叶えてもらう為にするのが、世間の人々が考える信仰なのです。


◇信仰は取引ではない◇


しかし、本当の信仰は、願いを叶える為でも、欲望を充たす為でもありません。


勿論、願いを叶えてもらう為に神仏を拝むのも自由ですが、神仏は、私たちがこれだけお願いしたから、叶えてくれたり、お願いしないから叶えてくれないというような依存的存在ではありません。


神仏は、仏の子である私たちから見れば親様であり、私たちが願おうが願うまいが、何とか幸せにしたいと、私たち一人一人に応じて、一番良い手立てを以て導いて下さっているのです。


願ったから願いを叶えてくれ、願わないから叶えてくれないというのは、謂うならば取引であって、信仰ではありません。


「これだけお布施をしますから、これだけ信仰をしますから、これだけのご利益を与えて下さい」と言って何らかの見返りを求めるのは、信仰ではなく、近所の商店へ行って野菜や果物を買うのと同じです。


信仰を取引にしては、心を汚すだけでなく、六道輪廻の廻り舞台から飛び出す事も出来ません。


よく「何年信仰しても少しもよくならない」と言われるお方がいますが、このようなお方は、神仏を信仰しているのではなく、神仏と取引をしておられるのではないでしょうか?


大切な事は、最善最良の手立てを以て私たちを導き、必要なものを必要なだけ与えて下さっている神仏に対しどう応えていくか、という事です。


求める心しかないと、神仏のみ心は分からないでしょうが、神仏は、私たちが願おうが願うまいが、先々まで見通して、ありとあらゆる手立てを以て、私たちに一番良い方法を以って導いて下さっているのです。


ですから、願いが叶おうが叶うまいが、すでにありとあらゆる手立てを以て私たちを導き、守って下さっている神仏にお返しするものは、懺悔と感謝の心しかありません。


願いを叶えてもらったから、感謝の心をお返しするのではありません。願いが叶っても叶わなくても、常にお守り下さっているからこそ、感謝の心をお供えしなくてはいられないのです。


この感謝の心は、プラスを引き寄せる力を持っていますから、此方からお願いしなくても、ありとあらゆるプラスのお計らいが寄って来ます。断食は、その道理を悟るための行でもあるのです。


プラスとは、ただお金や物だけではありません。健康も、家族の平安も、様々な災難から逃れさせていただく事も、みなプラスです。


しかし、求めるばかりで、出す事を知らなければ、いつまで経ってもプラスは寄ってきません。


人間にはみなそれぞれ、目に見えない幸せを入れる徳の器というものがあり、器の大きさ以上のものは災いの原因になる為、余分なものが入っても、みな出ていくようになっています。


私たちの目には、マイナスとしか映らない為、真相を知らない人は損をしたように思うのですが、余分なものを出して、病気や事故や怪我など、様々な災いから救ってくれているのです。

(法舟菩薩)
 施しすると いうことと
   神にとられる いうことの
   道理わかれば 悟りなり
 天は二物を 与えない
   これの道理が わかるなら
   施しせずには おれませぬ

合掌


大自然から学ぶ智慧(1)
大自然から学ぶ智慧(2)
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大自然から学ぶ智慧(5)


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2018年05月05日

諏訪、三輪両神社の春の例大祭!

毎年5月5日の子供の日は、地元の若神子諏訪神社と三輪神社で、春の例大祭が執り行われます。
親子連れが、新生児の初宮参り、就学児童の学業成就と無事生育を願ってお参りしますが、私も区長として、昨年に引き続き、地区を代表してお参りさせていただきました。


こちらは諏訪神社の模様です。


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諏訪神社に続いて、三輪神社でも、氏子の初宮参りと児童の無事生育、学業成就が御祈願されました。
若神子の中でも、私が区長をしている中町地区は、諏訪神社と三輪神社に、氏子が分かれている為、区長は、どちらの神社へもお参りしなければなりません。
宮司様も、両神社を掛け持ちしておられるので大変ですが、区長も大変です(笑)。
氏子総代と役員の皆さんも、準備や後片付けで大忙しです。
いずれの皆様も、本当にご苦労様でした。


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