2016年05月16日

「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(7)

◇安全保障は一か八かの賭けではない◇


この運動の発案者の鷹巣さんは、「戦争放棄、非武装中立」を掲げてこの運動を始められたようですが、わが国を取り巻く厳しい現状を考えれば、この政策が、「相互の信頼関係の確立と国の安全保障は切り離せない」という前文と9条の根本精神に抵触している事は明らかでしょう。


「戦争放棄、武力放棄」という理想は、何度もお話しているように、相手に命さえも委ねられる強固な相互の信頼関係の上に成り立つもので、周辺国から様々な軍事的圧力や挑発を受けている現状では、絵に描いた餅に過ぎないばかりか、違憲の疑いさえある政策と言わねばなりません。


百歩譲って、「戦争放棄、非武装中立」政策が正しいとの前提で、これを実行に移したと仮定した場合、我々国民はどういう状況に置かれるでしょうか?


成否の行方は、覇権主義的野望に燃え、領土拡大を目論み、南シナ海や東シナ海で度重なる挑発を繰り返す共産党一党独裁政権の意向と、国際世論の動向にかかっていますが、この政策は、 武力をもって威嚇し、挑発してくる独裁政権に我々の命を委ねるに等しい行為ですから、最後に頼りとなるのは、国際世論しかありません。


つまり、1億2000万人の国民は、憲法前文に謳われている「平和を愛する諸国民の公正と信義」だけが頼りという、まさに薄氷を踏むような状況に置かれる事になります。


覇権主義的野望に燃える共産党一党独裁政権がわが国を侵略しようとする場合、世界中の世論を敵に回すか否かの選択を迫られる訳ですが、同時にわが国も、国際世論(平和を愛する諸国民の公正と信義)が信頼するに足るか否かの判断を迫られる事になります。


これはまさに一か八かの賭けで、吉と出るか凶と出るかは、蓋を開けてみないと分りません。


問題は、国際世論(平和を愛する諸国民の公正と信義)を、どこまで信頼していいのかという事ですが、そうなるとやはり、中国に侵略されたチベット出身のペマ・ギャルポさんが、衆議院憲法調査会の公聴会で述べられた次の証言が、我々の肩に重くのしかかってきます。


◇重い体験者の証言◇



憲法9条の一方的な戦争放棄に対して何らかの国際社会においての保証もなければ、それを尊重するような環境もないのが現実です。

私が生まれた祖国チベットは、7世紀以来仏教を信仰し、生命の尊重を願って他に危害を加えない平和を一方的に信じてきたが、残念ながら、1950年代にはその平和な生活は、中国によって一方的に侵略され、固有の価値観を否定され、約600万人の5分の1の人たちが、尊い命が奪われた。

国連の機関である国際司法裁判所は、これを大量虐殺(ジェノサイド)と判定し、国連総会において3回にわたって非難決議がされたが、結局、チベットは侵略されたまま、何の救済にもならなかった。

敬虔な仏教国チベットでは、指導者である僧侶達が殺生を禁じ「仏を拝んでいれば平和は保たれる」と主張し抵抗を禁じたが、その結果チベットは地獄になってしまった。中共軍が本格的に進入してきた時、チベット軍はすでに解体させられていた。

「インドに頼もう」とか「国連に訴えよう」とチベットは行動をおこしたが、インドは動かなかった。

そして95%の僧院が破壊され、120万人のチベット人が虐殺された。

日本人に言いたい事は、自分でいくら平和宣言をしても他国を縛る事はできない。泥棒を中に入れてから鍵をかけても遅いという事だ。



残念ながら、これが、鷹巣さんや実行委員会の方々が頼りとする国際世論(平和を愛する諸国民の公正と信義)の正体と言っていいでしょう。


「私が生まれた祖国チベットは、7世紀以来仏教を信仰し、生命の尊重を願って他に危害を加えない平和を一方的に信じてきた」というペマ・ギャルポさんの証言を見ると、鷹巣さんや実行委員会の方々、そして集団的自衛権行使容認に反対し、平和安保法案を戦争法案と言い換えて批判している方々の言う「戦後70年間、わが国の平和が保たれてきたのは憲法9条があったからだ。他国に武器を向けなかったのも、9条があったからだ」という証言と余りにも似ている事に気付かれると思いますが、決定的に違う点があります。


それは、ペマ・ギャルポさんの証言が、侵略された体験者の言葉であるのに対し、実行委員会や安保法案を戦争法案と言い換えて批判している人々の言葉は、一党独裁政権に侵略された経験のない人々のただの思い込みに過ぎないという事です。


どちらの発言が説得力を持つかは言うまでもないでしょうが、鷹巣さんたちが最後の頼みとする国際世論(平和を愛する諸国民の公正と信義)が、ギャルポさんの証言通りだとすれば、「戦争放棄、非武装中立」政策が吉と出る可能性は、皆無とは言いませんが、限りなく低いと言わなければなりません。


つまり、戦争放棄と武力放棄を実行に移しても、戦争の無い世界の実現はおろか、独裁政権の暴走を食い止める事さえ不可能で、この案が伝家の宝刀となる事は、万が一にもありえないという事です。


鷹巣さんや実行委員会の方々が、この証言をどのように受け止めておられるのかは知る由もありませんが、それでもあえてこの運動を推し進めようとされるのであれば、国際世論(平和を愛する諸国民の公正と信義)によって独裁国家の暴走を食い止められると確信している根拠を国民の前に明らかにしなければなりません。


勿論、国際世論(平和を愛する諸国民の公正と信義)の力を過小評価するつもりはありませんし、国際世論にも侮れない力があるのかも知れません。


しかし、大切な事は、1億2000万人もの国民の生命財産を、一か八かの賭け事のような天秤にかける事は出来ないという事です。


◇国民に覚悟を問わねばならない責任◇


鷹巣さんや実行委員会の方々が、「憲法9条があったから日本は平和だったのだ」と言われるなら、どうしても避けて通れない道があります。


それは、戦争放棄と武力放棄を行動に移した結果、起こり得るであろう最悪の事態を甘んじて受け入れるだけの覚悟があるか否かを、全国民に問わなければならないという事です。


つまり、鷹巣さんや実行委員会には、1億2000万人の国民に対し、平和実現のために武力を放棄し、独裁政権に命を委ねた為に侵略を許し、すべてを失ったチベットやウイグルのようになってもよしとする覚悟があるのか否かを問う責任があるという事です。


もしその覚悟を全国民が共有している事が明らかになれば、もはや躊躇する必要はありません。


全てを失ってもよしとする覚悟が出来ているのですから、あとは「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信頼して、天命に委ねるだけです。


しかし、それを実行しようと思うのであれば、その覚悟があるか否かを、まず全国民に問わなければなりません。


そして、あらゆる疑問や不安と真摯に向き合い、全国民が納得出来るよう根拠を示して説得しなければなりません。


安保法案を戦争法案と言い換え、危機感を煽る野党議員がよく言う「説明責任」を果たす必要があるという事です。その責任を放棄しては、この運動に不安を抱く大多数の国民との溝は深まっても、賛同は得られないでしょう。


これは、ただ「私達はそう信じているから、何も言わず黙って後へついて来て下さい」と言って済まされる問題ではありません。


わが国を取り巻く厳しい安全保障の現状や、ISILによる無差別テロと、国を追われヨーロッパに押し寄せるシリア難民問題などをはじめ、今の世界情勢を見れば明らかなように、真の平和の実現は、わが国だけが戦争放棄、武力放棄を実行して実現できるほど、生易しいものではありません。


また一口に国際世論(平和を愛する諸国民の公正と信義)と言っても、それぞれの利害関係によって左右され、流動化するのが人の心の常であり、決して一枚岩ではありません。


そんな中で、わが国だけが高い理想論を掲げて先頭を突っ走っても、ペマ・ギャルポさんが証言しているように、国際世論はおろか、1億2千万人の国民の納得さえ得られないでしょう。


ましてや、わが国が一方的に、戦争放棄、武力放棄を実行し、独裁政権に国民の生命を委ねる道を選択するとなれば、国民の生命財産を危険に晒すだけでなく、祖国を失う恐れさえ出てきます。


そうなれば、子々孫々に顔向けができません。


前にもコメントしたように、真の平和とは、相手にわが命を委ねられるまでの相互の信頼関係の確立の上に立って初めて実現出来るものですが、その相互の信頼関係が崩壊している状況の中で、もし鷹巣さんや実行委員会の方々が、国際世論(平和を愛する諸国民の公正と信義)を信じてこの運動を続けようとしておられるのであれば、1億2000万人の国民は、かけがえのない命をその手に委ねる事になります。


その覚悟を問わねばならない全国民を受賞対象としながら、様々な疑問や不安に対し、真摯に向き合う姿勢が見られぬばかりか、世界中が共産党一党独裁政権の挑発と暴走に脅威を感じ、警鐘を鳴らしているにも拘らず、わが国政府の行動を一方的に批判するだけで、独裁政権の暴走と脅威には何も言わず黙認しておられる現状を見ると、平和を願う国民の一人として、この運動が目指している方向性に不安と疑問を抱かざるを得ないのが、偽らざる気持ちです。



「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(1)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(2)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(3)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(4)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(5)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(6)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(7)


高野山法徳寺Website

posted by カンロくん at 15:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題

2015年08月22日

呆れてものが言えません!

昨日は、今年八回目のお大師様のご縁日でした。


0821-1.jpg


ご縁の皆様にお帰り頂き、午前中は報恩法要と法話、午後から聖歌のご奉納をさせて頂き、無事にお帰り頂きました。


0821-2.jpg


さて、法要の後片付けを終え、ふとFacebookを覗くと、川口英俊師の投稿が目に飛び込んできました。


45年前に結成された呪殺祈祷僧団(JKS47)なるものが再結成され、今月27日(木)午後3時より経産省前テントひろばにおいて決行される予定の「呪殺祈祷会」を危惧するコメントでした。


川口師によれば、呪殺祈祷対象は、原発ムラ利権の主メンバーと安保法制を進めた安倍内閣・自民党主要メンバーとなるであろうとの事ですが、もしこのコメントの通りだとすれば、僧侶の一人として、憤慨せざるを得ません。


一体何を考えているのでしょうか。


勿論、み仏が、人の道に反した邪悪な想念や行動を受け取られる筈もなく、呪詛の一念は、すべて祈祷者本人の身に跳ね返ってくるでしょうが、危惧するのは、平和を願っている筈の人々が、平気でこのような事をしてしまう危うさです。


自己中心的で思慮のない短絡的行動ほど、平和にとって危うい行動はありません。


安保法制をすすめている安倍内閣を呪詛するという事は、一票を投じて安倍政権を誕生させた大多数の国民を呪詛するのと同じです。


無辜の国民を呪詛して、いかなる平和が実現出来るのでしょうか?


政策が気に入らなければ、堂々と選挙で自らの意に添う政党や議員を選ぶなり、全国民から支持される政策を掲げて立候補するなりすればいいだけの話で、それが自由に出来るのが、国民の意志を反映させる仕組みも、政権交代もない一党独裁政権と根本的に異なるわが国の政治制度であり、民主主義の鉄則でもあります。


安保法制に反対する人々がよく口にするのが「立憲主義に反する」という言葉ですが、「呪殺祈祷会」なるものが決行されるとすれば、これほど立憲主義に反する行為はないでしょう。


呪殺祈祷僧団が、いかなる仏教宗派に属する人々によって構成されるのか知りませんが、人々の救済を祈るのが使命の僧侶が、自分の立場と相反する相手の不幸を願い、その死を祈るなど言語道断です。


悟りも智慧もなく、ただ自分たちにとって好都合か不都合かによって善悪を判断し、自らを善と見なし、不都合な相手、意見の違う相手を悪と決めつけて、その不幸を願って、どんな平和な世界が実現出来るのでしょうか。


これでは、多くの信者や無辜の市民を殺害したオウム真理教や、無差別テロを行っているISILと何も変わりません。


オウム真理教では、「救う為には殺さなければならない」という理屈が堂々とまかり通っていたようですが、仏教ではそんな理屈は通りません。


口では平和を願うといいながら、自分の意に反する人々の死を願う平和運動など、聞いた事がありません。


しかも、それを行おうとしているのが僧籍にある者だというのですから、呆れてものが言えません。まさに愚の骨頂です。


僧としてだけではなく、人間としても失格と言わざるを得ないでしょう。


もし安保法案に反対する人々の中に、このような行動を容認する空気が流れているとすれば、末恐ろしい気がします。

posted by カンロくん at 12:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題

2015年07月09日

「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(6)

◇私達が背負った重い使命◇


憲法9条の改正の是非は別として、ここでは、平和憲法と言われる今の憲法9条が果たすべき役割について、考えてみたいと思います。


その役割を知る為には、先ず憲法9条が目指している平和は、真実の平和なのか、偽りの平和なのかを確認しておかなければなりませんが、これについては改めて確認するまでもないでしょう。


戦争放棄と武力放棄を謳った憲法9条が、相手に命さえも委ねられる強い信頼関係で結ばれた真に平和な世界を目指して制定された条文である事は疑いの余地がなく、恐らくそれに異論を唱えるお方は一人もいないと思います。


そうだとすれば、1項で戦争放棄、2項で武力放棄を謳った憲法9条を制定した我々は、国家としても、国民としても、究極の選択をしたと考えなければなりません。


何故なら、憲法9条を守る為には、相互の信頼関係を100パーセントに限りなく近くなるまで高めなければならないからです。


つまり、憲法9条は、私達に「自分の命さえも相手に委ねられる状況になるまで、相互の信頼関係を強固にする努力をしなさい」という、不可能とも思える要求を突きつけているのです。


憲法9条を制定したわが国は、各国に率先して、相互の信頼関係を100パーセントに限りなく近づける努力をする重い使命を背負った事になります。


その事は、憲法前文にも、ハッキリ謳われています。


「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」


これによって、前文と9条は、限りなく100パーセントに近い相互の信頼関係が確保されている真に平和な世界の在りようを明言し、私達が目指すべき方向性を示したものである事が分ります。


言い換えれば、武力の均衡(抑止力)によって保たれているに過ぎない今の平和は、偽りの平和に過ぎず、前文と9条が目指している平和ではない事、そして、私達自身にも、全世界の人々にも、戦争放棄と武力放棄が実現した真に平和な世界を目指す努力を惜しんではならない事をハッキリ要求しているのが、まさに前文と9条であり、平和憲法と言われる所以も、そこにあると思います。


ですから、国の安全保障を確保しつつ、他方で、相互の信頼関係を崩壊させようとする対外的圧力を阻止しながら、強固な信頼関係の確保に向け努力をしてゆく事が、前文と9条の理念を守る上で欠かせない事になります。


しかし、ここで注意しなければならないのは、憲法9条に、真に平和な世界の在りようと努力目標が示されているからと言って、憲法9条によって平和が実現出来ると誤解し、過信してはならないという事です。


「戦後70年間、わが国の平和が保たれてきたのは憲法9条があったからだ」という認識は、まさにその誤解と過信から来るものであり、憲法9条が果たすべき役割と国の安全保障を考える上で、国民の判断を大きく誤らせる恐れさえある認識と言わねばならないでしょう。


勿論、武力の均衡(抑止力)によって保たれている偽りの平和(平和もどき)のままでよい筈がなく、武力の均衡(抑止力)など必要のない、相互に命さえも委ねられる強固な信頼関係で結ばれた真の平和社会の実現に向けて人類が叡智を結集し、前文と9条が掲げる理念を守っていかなければなりません。


問題は、その理念と現実との間に横たわる巨大な溝をどのようにして埋めてゆけばよいのか、また、その溝を埋める為に前文と9条をどのように活用してゆけばよいのかという事です。


◇正当防衛権さえも否定している憲法9条◇


かつて共産党の野坂参三衆院議員が、憲法9条の戦争放棄について、「これは侵略戦争を放棄したのであって、自衛戦争まで放棄したものではない」と詰問したのに対し、吉田茂首相は、「近年の戦争の多くは国家防衛権の名において行われた事は顕著なる事実です。故に、正当防衛権を認めること自身が有害であると思うのです」と答弁し、自衛権さえ否定しています。


この正当防衛権(自衛権)さえも認めていないとする吉田発言は、いまわが国が、中国や北朝鮮など、共産党一党支配国家から歯止めの効かない軍事的挑発を受け、抑止力を高めざるを得ない状況に置かれている点から言っても、正当防衛権(自衛権)が国際法(国連憲章)でも認められている自然権である点から言っても、到底受け入れられるものではありません。


しかし、もし憲法9条が、正当防衛権さえ持つ必要のない、相手に命さえも委ねられる真に平和な世界の実現を目指して設けられた条文だとすれば、吉田首相の答弁には、憲法9条の立ち位置がハッキリ示されていると解釈しなければなりません。


つまり、憲法9条の立ち位置を、「相手に命さえも委ねられる世界こそが真に平和な世界であり、その世界が実現した時、初めて正当防衛権(自衛権)の放棄が可能となる旨を宣言した条文である」という点に置くならば、正当防衛権さえも否定したとする吉田発言は、決して間違っていないという事です。


この吉田発言から分る事は、正当防衛権(自衛権)を放棄する時と、戦争放棄(武力放棄)をする時と、真に平和な世界が実現する時は、同時であるという事です。


言い換えれば、正当防衛権の放棄と武力の放棄を実行する為には、真に平和な世界が実現する事が大前提であり、それ以外にはありえないという事です。


正当防衛権(自衛権)の放棄と、戦争放棄(武力放棄)と、平和な世界の実現の為に欠かせないのは、言うまでもなく「相互の強固な信頼関係の確立」です。


憲法前文に、「平和を愛する諸国民の公正と信義への信頼」がハッキリ謳われているのはその為であり、前文の基礎の上に立つ憲法9条が、1項で戦争放棄を、2項で武力放棄を宣言しているのも、まさに「平和を愛する諸国民の公正と信義への信頼」を前提としているからに他なりません。


そうだとすれば、「正当防衛権(自衛権)を放棄した以上、自衛戦争を放棄していると考えるのは当然だ」という吉田発言から導き出される結論は一つしかありません。


先ほども言ったように、憲法9条は、正当防衛権も自衛戦争もまったく必要のない、強固な信頼関係が確立された真に平和な世界の在りようを想定し、その平和な世界の実現を希求して設けられた条文であり、戦争放棄と武力放棄を世界に宣言している意味もそこにあるという事です。


◇憲法前文と9条の立ち位置◇


何が言いたいのかと言いますと、憲法前文と憲法9条は、正当防衛権さえ持つ必要のない、相手に命さえも委ねられる強固な信頼関係に支えられた真に平和な世界の在りようを示し、その世界の実現を希求しているところに大きな意義があるという事です。


言い換えれば、前文と9条は、「真の平和が実現している世界とは、戦争放棄と武力放棄が実現し、正当防衛権さえも持つ必要のない世界である」という人類の到達点を示したものだという事です。


それはつまり、「強固な相互の信頼関係の確立と、国の安全保障は切り離せない」という事であり、もし相互の信頼関係が崩れれば、「正当防衛権を放棄した以上、自衛戦争を放棄していると考えるのは当然だ」という吉田発言はその基礎を失う事になり、自衛権も自衛戦争も肯定せざるを得なくなります。


その事を念頭において設けられたのが、まさに「芦田修正」(注1)であり、鳩山一郎内閣が後に、「自衛権も自衛戦争も否定している」という吉田証言を変更して、「自衛権も自衛戦争も放棄していない」と主張した根拠も、そこにあります(注2)。


(注1)昭和21年、日本国憲法改正小委員会において、芦田均委員長が、9条1項冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の文言を加え、2項の最初に「前項の目的を達するため」の文言を追加した事を指す。
当初の政府案では、9条2項は「陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない」と定められていたが、これでは、「陸海空軍その他の戦力」は、いかなる場合でも保持してはならない事になるため、「前項の目的を達するため」の文言を追加する事により、1項で放棄しているのは、「国際紛争を解決する手段」としての戦争や武力行使であって、自衛の目的であれば、戦力を保持することは可能という事になる。この修正が、自衛権も自衛戦争も放棄していないという論拠になっている。



(注2)1954年(昭和29年)12月、自衛隊が発足するに当り、鳩山一郎内閣は、「自衛権さえも否定している」というそれまでの吉田証言を変え、芦田修正を根拠に、「9条1項の戦争放棄は、侵略戦争の放棄であって、独立国が当然有する自衛権の発動としての自衛戦争まで放棄したものではない。2項の戦力不保持は、侵略戦争をするための武力を放棄しただけであって、自衛の為の戦力まで放棄したものではない」とする統一見解を発表した。
その背景には、東西冷戦や朝鮮戦争の勃発など、相互の信頼関係の崩壊という日本を取り巻く状況の大きな変化があった事は言うまでもない。
国民の生命財産を守るため、めまぐるしく変化する世界情勢に臨機応変に対処しなければならない政府として、現実を直視した適切な対応といえよう。



この「自衛権も自衛戦争も否定している」という吉田証言と、「自衛権も自衛戦争も放棄していない」とする芦田修正は、一見矛盾しているように見えますが、そうではありません。


何故なら、「相互の強固な信頼関係の確立と、国の安全保障は切り離せない」という大前提がある以上、前文と9条は、「自衛権も自衛戦争も否定している」という吉田証言も、「自衛権も自衛戦争も放棄していない」とする芦田修正も、どちらも容認していると解釈しなければならないからです。


「自衛権も自衛戦争も否定している」という理想実現への姿勢と、「自衛権も自衛戦争も放棄していない」とする現実対応への姿勢のどちらに重きを置くかは、その時々の世界情勢、つまり、前文に謳われている「平和を愛する諸国民の公正と信義への信頼」がどうなっているかに依存している事は言うまでもありません。


鳩山一郎内閣が、吉田証言を変更して芦田修正に重きを置く姿勢に転じたのは、世界情勢が相互の信頼関係の崩壊に向かって大きく動いていたからに他なりません。


自衛隊の設立を違憲と主張する政治家や憲法学者もいますが、世界情勢の変化に対応すべく自衛隊を設ける事は、すでに芦田修正によって織り込み済みであり、相互の信頼関係と国の安全保障が切り離せない以上、9条だけを取り上げて違憲合憲を判断する事は全く無意味と言わねばなりません。


大切な事は、吉田証言や芦田修正が前提としている前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義への信頼」が現実にどこまで担保されているかを見極め、その時々の世界情勢を分析しながら国の安全保障について議論する事です。


信頼関係が担保されているか否かを無視し、ただ9条だけを取り上げて違憲合憲を議論するのは、現実を見ない机上の空理空論と言わざるを得ないでしょう。


◇現実を無視した空念仏◇


私達が危惧するのは、前文と9条の立ち位置への認識の大きなズレが、9条が果たすべき役割への誤解、過信、妄信へとつながり、やがては国の安全保障をも脅かされかねない危険性を孕んでいるという事です。


何故なら、「戦争放棄と武力放棄を謳っている憲法9条のお陰で平和が実現している」という願望的捉え方でしか、9条を見られなくなってしまうからです。


その典型が、まさに「戦後70年間、わが国の平和が保たれてきたのは憲法9条があったからだ」という思い込みであり、これでは、先ほどお話した「相互の信頼関係の確立と国の安全保障は切り離せない」という前文と9条の立ち位置から大きく外れてしまう事になります。


前文と9条の価値は、相手に命を委ねられるまでの強固な信頼関係を世界各国が共有し、真に平和な世界を実現した時、初めて戦争放棄と武力放棄が可能になる事をハッキリ示すと同時に、国の安全保障の観点から、相互の信頼関係が確立されるまでは自衛権も自衛の為の武力も放棄できない事を明言しているところにあります。


前文と9条が、相互の信頼関係の確立を前提に、戦争放棄と武力放棄を謳っている事は間違いありませんが、その事を謳っているからと言って、その事によって平和が保たれている訳では決してないのです。


集団的安保体制による抑止力の効果、様々な外交努力、そしてあらゆるルートを通しての交流促進など、多重的な安全保障の成果として平和が保たれている事は、もはや周知の事実です。


勿論、その中に9条も含まれている事は否定しませんが、9条だけによって安全保障が保たれている訳では決してありません。


その現実を直視しなければ、9条はいつまで経っても、9条を信仰する人々の空念仏に終わるだけで、現実を変える力とはなり得ないでしょう。


◇相互の信頼関係を無視してはならない◇


先ほど「相互の信頼関係の実現」と「戦争放棄」「武力放棄」は三位一体であり、同時でなければならないと言いましたが、この三者には当然、優先順位があります。


平和の実現にとって最も大切なのが、「相互の強固な信頼関係の確立」です。


何故かと言いますと、相互の信頼関係さえ確立されれば、「戦争放棄」「武力放棄」も自ずと後からついてきますが、「戦争放棄」と「武力放棄」だけを実行しても、「相互の信頼関係の確立」がついて来るとは限らないからです。


以前から何度も述べているように、一国だけが率先して「戦争放棄」と「武力放棄」に走っても、他国が同時にそれを実行しなければ、「相互の信頼関係の確立」は、ただの絵に描いた餅にしかなりません。


しかも、国民の総意を反映させる仕組みも政権交代もない共産党一党支配の周辺国が、核開発を匂わせながら挑発を繰り返し、また東シナ海ではわが国の領土領海を侵犯して歯止めの効かない暴走を続け、南シナ海でも、紛争中の岩礁を一方的に埋め立て、軍事施設を作り、相互の信頼関係を崩壊させている状況の中で、わが国だけに足かせをはめても、何の解決にもならないばかりか、自殺行為に等しいと言っても過言ではないでしょう。


それは、相互の信頼関係が全くない他国に、1億2000万人の命運を委ねる事になるからです。


そればかりか、もし領土を一方的に奪われるような不測の事態にでもなれば、黙って見過ごす事が出来なくなり、望まざる戦争に巻き込まれざるを得なくなります。


だからこそ、そうならないよう抑止力を高め、万全の体制を整え、「転ばぬ先の杖」を持っておかねばならないのですが、残念ながら、周辺国と歩調を合わせ、その努力に足かせをはめようと躍起になっている人々が国内に居るのも事実で、私達国民にもたらす不幸な結末を考えると、嘆息せざるを得ないのが正直な気持ちです。


◇まだ実現していない憲法9条が目指す平和◇


勿論、抑止力を高めるだけで国の安全保障が担保される筈はなく、外交努力も含め、あらゆるルートを通じて、相互の信頼関係の確立に向けた努力を重ね、多重的な安全保障を考えていかなければなりません。


しかし、憲法9条が、憲法前文に謳われた「平和を愛する諸国民の公正と信義への信頼」の基礎の上に立っている以上、相互の信頼関係が確保されていない今の状況では、好むと好まざるとに拘らず、国の安全保障の依りどころとして頼れるものは、力の均衡(抑止力)しかありません。


よく「憲法9条が改正されれば、戦争に巻き込まれ、平和な日本が崩壊する」と言われますが、崩壊する真に平和な世界がどこにあるのでしょうか?


先ほど言ったように、憲法9条が謳っている真に平和な世界は、まだ一度も実現していないのです。


もしその平和が、偽りの平和を指しているのであれば、その平和は、憲法9条によって実現している平和ではなく、武力の均衡(抑止力)によって保たれている偽りの平和に過ぎませんから、どのように考えても、「憲法9条が変われば平和が崩壊する」という現実はどこにもありえないのです。


勿論、その事と、憲法9条が目指している真に平和な世界の実現のため、今後とも努力を続けていかなければならない事とは別問題であり、私達は、前文と憲法9条を制定し、平和の実現に向けた努力を誓った責任において、今後とも真の平和実現の為に、弛まぬ努力を傾けていかなければなりません。


その意味で、真に平和な世界の在りようを示した前文と9条の在るべき立ち位置は、変えるべきではありません。


しかし、いまの平和が、決して憲法9条によって保たれている平和でもなければ、9条が希求している真の平和でもない事への正しい現状認識がなければ、憲法9条が目指す平和な世界の実現はおろか、わが国の安全と国民の生命財産を守る事さえ出来ません。


もし、今の平和が、武力の均衡(抑止力)によって保たれているに過ぎない偽りの平和であり、その平和さえもが、強大な軍事力を背景にした他国からの挑発によって脅かされている事への危機感を持っているなら、憲法9条の正しい活用方法も自ずと見えてくる筈です。


以前から何度もお話しているように、憲法9条は、平和の理念を守る責任をわが国一国が負うのではなく、平和を願う世界各国の人々と共有分担し、相互に協力して覇権主義的野望に燃える一党独裁国家からの軍事的挑発を封じ込め、戦争の危険性を減少させるためにこそ活用すべきなのです。


これこそが、現憲法の前文と9条に与えられた役割ではないでしょうか?


もしその事を理解し、真の平和を願って始められた運動なら、挑発を繰り返す彼の国への批判や対応があって然るべきであり、当然その脅威を封じ込める為、前文と9条の正しい活用方法が採られるべきだと思いますが、そのような動きが全く見られない現状では、本当に平和を願って始められた運動なのかどうか、首を傾げざるを得ません。


「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(1)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(2)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(3)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(4)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(5)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(6)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(7)


高野山法徳寺Website

posted by カンロくん at 10:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題

2015年07月06日

「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(5)

◇真の平和とは◇


「世界平和」「平和憲法」「平和運動」「平和理念」「ノーベル平和賞」等々、「平和」を冠した言葉が巷に溢れていますが、そもそも「平和」とは何でしょうか?


「平和」の定義は本来一つしかない筈ですが、どうも「平和」の定義が曖昧なまま、「平和」という言葉だけが独り歩きしているような気がしてなりません。


そこで先ず、「平和」の定義をしておきたいと思います。


この運動の発案者である鷹巣直美さんや「憲法9条にノーベル賞を」実行委員会の方々がいわれる「平和」が何を意味するのか分りませんが、私は、「強固な信頼関係で結ばれている相互依存状態」と考えています。


その強固な信頼関係が100パーセント確保されていれば言う事はありませんが、それは現実問題として不可能でしょうから、実現可能性から言えば、「限りなく100パーセントに近い強固な信頼関係が確保されている相互依存状態」という事になります。


「限りなく100パーセントに近い強固な信頼関係で結ばれている相互依存状態」とは、言い換えれば、「自分の命さえも相手に委ねる事が出来るほど強固な信頼関係で結ばれている相互依存状態」という事です。


相手に命までも委ねられる訳ですから、そこではもはやわが身を守る事を考える必要すらありません。


特定秘密保護法に対する批判が一部にありますが、平和な世界とは、まさにその対極にある世界で、お互いに隠し事をする必要が全くない「裸のお付き合い」が出来る世界と言っていいでしょう。


◇三位一体の関係◇


前回「地獄と極楽の食事風景のたとえ話」をしたのを覚えておられるでしょうか?


1メートルもある長い箸を使って、地獄では、自分の口に入れようとしても入らない為、みんなお腹をすかせて罵り合っていたのに対し、極楽では、ニコニコ笑いながら、和気藹々と食べさせ合っていたというあの話です。


このたとえ話は、強固な信頼関係で結ばれていれば、相手に命(命を支える食)さえも委ねられるようになるという、平和な世界の在りようを教えています。


強固な信頼関係の下では、人も国も相手に隠し事をする必要がありませんから、戦争放棄、武力放棄(非武装)が当たり前となり、身を守る為の武器は過去の遺物となります。


平和の実現に欠かせない「強固な信頼関係」と「戦争放棄」「武力放棄」は三位一体の関係にあり、もしその一角が崩れれば、他の二者も、なし崩し的に崩壊していく事は言うまでもないでしょう。


相互不信が増大してゆけばゆくほど、自分の身を守る為に無防備ではいられなくなる度合いも増し、相手に手の内を知られない為、機密事項を設けなければならない必要性も大きくなっていきます。


平和はどんどん遠ざかり、戦禍に巻き込まれる危険性が日増しに大きくなっていきますから、国であれば、安全保障を考えざるを得なくなり、人であれば、様々な護身術を身につけ、身を守る対策を講じなければならなくなります。


これは、我々の日常生活を考えればすぐ分かる事で、強盗の常習犯が付近を徘徊している時に、自宅に鍵をかけない人はいません。


それでもあえて鍵をかけない人がいるとすれば、誰もその人にわが身の安全を委ねようとは思わないでしょう。


こうして相互の信頼関係が加速度的に崩壊していった先にある最も悪しき状態が、まさに地獄(戦争)で、相互の信頼関係が皆無に等しい状況に置かれた人々は、自分の身を守る為に、他人を殺め、傷つけることさえ厭わなくなります。


そこでは、相手の身になって考えるとか、相手の気持ちを推し量るというような発想は全くありません。


そうせざるを得ない状況が、そこに居る人々を苦しめ、さいなみ続けるのが、極楽(平和)とは対極にある地獄(戦争)です。


ですから、我々が生きている世界が真に平和な世界か、そうでないかを見極めるのは、そう難しい事ではありません。


相手に命を委ねられるほど強固な信頼関係で結ばれているか否かを考えてみればいいのです。


たとえ表面的にはどんなに平和そうに見えても、相手に自分の命を委ねられない状況にある限り、そこに真の平和はありません。


あるのは、偽りの平和であり、「平和もどき」の世界です。


「平和もどき」の世界は、相互の信頼関係によってではなく、相互不信からくる武装化と武力の均衡(抑止力)によって保たれている世界に過ぎません。


ですから、抑止力が崩れれば、強い者が弱者を征服し支配する弱肉強食の地獄図が、現実のものとなる恐れがあります。


否、抑止力がなくなった結果、強い者が弱者を征服し支配するこの世の地獄図は、すでにチベットやウイグル、イラク、シリア、ウクライナをはじめ、世界各地で起きている目の前の現実と言っていいでしょう。


◇憲法9条によって平和が守られてきたのか?◇


鷹巣直美さんや、「憲法9条にノーベル賞を」実行委員会の皆さんが考えておられる平和は、どちらの平和なのでしょうか?


命さえも相手に委ねられる「真実の平和」なのか、それとも武力の均衡によって保たれているに過ぎない「平和もどきの平和」なのか?


この実行委員会をはじめ、「戦争をさせない1000人委員会」「9条の会」「日弁連」など様々なグループから、「戦後70年間、わが国の平和が保たれてきたのは憲法9条があったからだ」という言葉を聞く度に思うのは、「この方たちの言われる、戦後70年間保たれてきた平和とはどちらの平和なのだろうか?」という事です。


多分、命さえも相手に委ねられる「真の平和」ではなく、「平和もどきの平和」に過ぎないのではないでしょうか?


何故なら、有史以来、相手に命さえも委ねられる真実の平和な世界がこの地上に実現した事は、まだ一度もないからです。


戦後70年間のわが国の平和が、武力の均衡(抑止力)によって保たれてきた偽りの平和に過ぎないとすれば、「憲法9条によって平和が保たれてきた」という主張は何を根拠にしているのでしょうか?


この方々が主張する「憲法9条によって保たれてきた平和」とは、実はそう信じたい人々の心の中だけに存在する平和に過ぎないのではないでしょうか?


何故なら、もしその主張が万人の認めるところなら、世界各国は、先を争って憲法9条を自国の憲法に加えている筈だからです。


膨大な軍事費も軍拡競争も不要となり、その財源を国民生活の充実にまわせる訳ですから、これほど素晴らしい事はなく、まさに一石二鳥と言えましょう。


当然そのような動きが世界中に広がってもおかしくありませんが、残念ながら、そのような動きが広がっているようには見えません。


何故広がらないのかと言えば、世界各国はみな、憲法9条によって平和が保たれてきた訳ではない事を知っているからではないでしょうか?


ご承知のように、戦後の日本は、米ソ対立と東西冷戦、朝鮮戦争の勃発など、世界情勢がめまぐるしく変動する中で、国の安全保障という観点から、自衛隊を発足させ、世界最強の軍事力を誇るアメリカと同盟関係を結び、抑止力を高めてきました。


もし自衛隊も日米安保条約もなく、ただ憲法9条だけを頼りに、戦後70年間を何事もなく無事に過ごして来られたのであれば、世界各国は、「戦後70年間、わが国の平和が保たれてきたのは憲法9条があったからだ」という主張に頷き、自国の憲法に憲法9条を加えるでしょう。


しかし、中国によるチベットやウイグルでの民族浄化、ウクライナ情勢、無差別テロ組織ISILによる虐殺など、いまも世界各地で起きている惨状を目の当たりにしている世界の人々は、誰もそんな事を信じていませんし、それが余りにも現実を無視した見方である事をよく知っています。


日本人二人が、ISILの人質となって殺害されたのはまだほんの数ヶ月前の今年1月ですが、この現実を直視しようとしないのは、「憲法9条によって平和が保たれてきた」と信じたいわが国の一部マスコミや政治家と、それを支持する人々だけではないでしょうか?


◇一国平和主義の危険性◇


勿論、憲法9条が、わが国に足かせをはめる事によって、何らかの貢献をしてきた事を否定するつもりはありません。だからこそ、「憲法9条によって平和が保たれてきた」と信じたいのでしょう。


そう信じたい気持ちも分らないではありませんし、私も是非そうあって欲しいと願わずにはいられませんが、それはあくまで「平和を保ってきたのは、武力の均衡(抑止力)ではなく憲法9条であって欲しい」というただの願望であり、憲法9条を尊崇する一種の宗教(信仰)に過ぎません。


勿論、そう信じるのも個人の自由ですが、その信仰は必ず裏切られます。何故なら、憲法9条は、人間が作った一条文に過ぎず、9条を守るか否かを決めるのは、神ではなく、我々人間だからです。


幾ら私達が、「憲法9条を守ります。戦争放棄を宣言し、武器も放棄します」と訴え、一国平和主義を貫こうとしても、覇権主義的野望に燃える相手に守る気がなければ、何の効果もありません。


今年6月6日、北海道の砂川市で、飲酒運転の暴走車が軽ワゴン車に追突して、家族5人が死傷するという痛ましい事故がありましたが、いくら交通法規を守って走っていても、相手にその気がなければ、事故は防ぎようがありません。


それと同様、自分がいくら憲法9条を守るつもりでも、相手にその気がなければ、何の意味もなく、相手に自分の命を預けるのと同じですから、これほど危険極まりない事はないでしょう。


しかも、その相手が、現在進行形で他国を侵略し、民族浄化を推し進めている一党独裁国家となれば、わが国の安全をその国の一存に委ねるなど、言語道断と言わねばなりません。


我々が相手を信頼して9条を守ってさえいれば、絶対に不測の事態は起きないという保証があれば、9条を錦の御旗にして、信じる道を進めばいいでしょう。


しかし、信頼を裏切る事件や事故は日常茶飯事であり、独裁国家の暴走が現実のものである以上、我々に出来うる事は、一方で相互の信頼関係の実現に向け努力を傾けつつ、他方で万が一の時に備えて、万全の体制を整えておく以外にはありません。


転ばないで済めばそれに越した事はありませんが、絶対転ばないという保証がない以上、その事を想定して「転ばぬ先の杖」を準備しておく事が、1億2000万人の生命財産を託された者の責任ではないでしょうか?


勿論、その杖は、わが身を守る為の杖であって、相手に危害を加えたり、戦争を始める為の杖でない事は言うまでもありません。


一部に、平和安保法案を巡って「戦争法案」「戦争が出来る国」などと批判している人々がいますが、それは、「転ばぬ先の杖」を「戦争をする為の杖」と言っているのと同じで、いかに的外れな批判であるかが分かります。


政治家の中にも、それに同調して、批判の為の批判に終始している人物がいますが、もし「憲法9条によって平和が保たれてきた」という願望的信仰を国民に押し付けようとする無責任な政治家がいるとすれば、国民は、絶対にそのような人物を国の指導者には選ばないでしょう。


鷹巣さんは、「今まで憲法9条の素晴らしさを世界中に訴えた事がないのだから、やってみなければ分りません。私達はいまそれをやろうとしているのです。その為にノーベル賞に申請しているのです。これこそ真の平和運動です。だから、反対しないで下さい」と言いたいのかも知れませんが、残念ながら、それはすでにチベットやウイグルで実験され、結果も出ています。


だからこそ、この運動に反対する人々は、「皆さんと同じように、憲法9条の理念を信じて平和を願い、武器を持たなかった為に国を奪われた人々が、目の前で血を流し苦しんでいます。多くの同胞が虐殺されたチベットやウイグルの現実を直視して下さい。すでに答えは出ているのです」と、繰り返し警鐘を鳴らしているのです。


覇権主義的野望に燃え、暴走する独裁国家を除いては、どの国からも「憲法9条によって平和が保たれてきた」という主張に賛同し、同じ条文を自国の憲法に加えようとする動きが出て来ないのは、そのような現実があるからですが、鷹巣さんや実行委員会の方々は、この現実に何の疑問も違和感も抱かれないのでしょうか?


勿論、暴走する一部の国が「憲法9条によって平和が保たれてきた」という主張に賛同するのは、平和を願っているからでも、9条の力を信じているからでもありません。


憲法9条は、わが国を貶め、弱体化させる為に欠かせない条文であり、「憲法9条によって平和が保たれてきた」という主張が、彼の国にとって利用価値のある主張だからこそ、賛同している振りをしているに過ぎません。


当然、彼の国が自国の憲法に憲法9条を加える可能性は皆無と言っていいでしょう。憲法9条で平和が保たれてきた訳ではない事を誰よりも知っているのが、彼の国自身だからです。


「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(1)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(2)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(3)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(4)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(5)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(6)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(7)


高野山法徳寺Website

posted by カンロくん at 11:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題

2015年04月27日

「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(4)

宗教者の政治活動について


先般、「憲法9条にノーベル賞を」実行委員会のFacebookサイトに、キリスト教の一部の牧師さんによって結成された「特定秘密保護法に反対する牧師の会」の活動が紹介されていましたが、改めて宗教者の政治活動について考えさせられました。


先ず僧侶の立場から、宗教者の政治活動について一言すれば、宗教者であろうと政治活動をするのは基本的に自由であり、全く問題ないと思います。


但し、一つだけ条件があります。それは、「宗教の目的を逸脱しない限り」という条件です。


宗教の目的は、言うまでもなく、すべての人々の魂の救済にあります。


心の平和の実現と言ってもいいでしょうが、魂が救われ、心の平和が実現すれば、人々が生きる世界も自ずと平和になります。


仏教ではこのような心の状態を「極楽」と言います。「彼岸」「成仏」「解脱」「救済」等々と表現される場合もありますが、みな同じ意味です。


これに対し、魂が救われていない人々が住む世界を「六道(ろくどう)」と言い、地獄も餓鬼も修羅の世界もみな「六道」の一つですが、この「六道」から、さまよう人々を救い出し、極楽へ導くのが仏教の目的です。


魂の救済、心の平和の実現にとって欠かせないのが、相互の信頼関係ですが、仏教徒にとっては、先ずみ仏との信頼関係が絶対に欠かせません。


つまり、私がみ仏を信じ、み仏が私を信じて下さるという相互の信頼関係がなければ、魂の救済はあり得ません。


しかし、これだけでは私の魂は救済されても、全ての人の魂を救済する事は出来ません。全ての人の魂の救済を実現する為には、私達相互の信頼関係もまた欠かせないからです。


自分が他の人々を信じ、自分も他の人々から信じられるような相互の信頼関係が確立されて、ようやく魂の救済、心の平和と世界の平和が実現します。


残念ながら、ISIL(アイシル)等が行っている無差別テロや、いま世界中で起きている宗教がらみの殺戮や虐殺は、相互不信と憎悪の産物以外の何ものでもなく、この惨状を見れば、いかに相互の信頼関係が平和の実現にとって不可欠であるか、そして、相互の信頼関係の実現がいかに困難であるかがお分かり頂けると思います。


地獄と極楽を分けるもの


相互の信頼関係の重要性について、こんなたとえ話があります。


ある人が、地獄と極楽の食事風景を見に行ったところ、極楽では、みんな和気藹々と笑いながら楽しそうに食事をしているのに、地獄では、みんな腹を空かせてやせ細り、目を吊り上げて罵り合っていました。


どちらの食卓にも、美味しそうな食事と、1メートルもある大きな箸が用意されていましたが、同じ物を使っているのに、何故こんなに違うのだろうと不思議に思い、よく見ると、地獄では、その箸を使って自分の目の前に置かれた食物を食べようとしていたのに対し、極楽では、その箸で、自分の前に座っている人の前に置かれた食物を挟み、その人の口に入れてあげていたのです。


地獄と極楽を分けていたのは、1メートルの箸を自分の為に使うか、相手の為に使うか、その使い方の違いだったのですが、何故箸の使い方が、地獄と極楽でこれほど違っていたのでしょうか?


それを分けていたのは、相互の信頼関係の違いでした。


極楽の人々がその箸を使って相手の口に入れてあげていたのは、お互いを信頼し合っていたからであり、地獄の人々が自分の口に入れる事しか考えなかったのは、自分以外の人を誰も信頼していなかったからです。


まさに地獄とは、信頼関係を失くした人々が住む世界と言ってもいいでしょうが、今の世界情勢を見れば、地獄はあの世の事ではなく、この世に実在する世界である事がよく分かります。


このたとえ話は、相互の信頼関係が心の平和、世界の平和の実現にとっていかに大切であり、かけがえのないものであるかを教えてくれていますが、相互の信頼関係を築く上で、どうしても避けて通れない難題が一つあります。


それは、我々が生きている社会では、100パーセントの信頼関係を確立する事は不可能だという事です。


すでに「憲法9条にノーベル賞を運動に思う(2)」でも述べたように、相互に信頼し合わなければ平和を実現出来ないという現実と、相互の信頼関係が100パーセント保証されていないという現実の狭間で生きていかなければならない私達が取り得る道は、一つしかありません。


つまり、一方で相互の信頼関係を限りなく100パーセントに近づける努力を傾けながら平和の実現を目指すと同時に、他方で信頼関係が失われた時のリスクを最小限に抑える努力も忘れてはならないという事です。


牧師会の活動に対する疑問


この事を前提として、宗教者の政治活動を考えてみますと、相互の信頼関係の実現の為に、宗教者として為すべき事は沢山あると思います。


その活動が、魂の救済と心の平和の実現という宗教の目的を逸脱しない限り、宗教者と雖も、否、宗教者だからこそ、宗教者にしか出来ない相互の信頼関係の実現に向けた活動がある筈です。


ですから、もし牧師会の方々の活動が、相互の信頼関係の実現を目指すものであるなら大賛成であり、宗教者だから政治に一切関与してはならないという意見には賛成出来ません。


勿論、政教分離という憲法上の制約はありますが、この規定は、かつて宗教(国家神道)が戦争と深く結びついた過去の苦い経験を下に設けられたものですから、相互の信頼関係を実現し、戦争の危機を回避する為にする活動まで制約するものではなく、宗教者という理由だけでその活動を制約する事は、本末転倒だと思います。


但し、今回の牧師会の活動に限って言えば、その活動内容が、最初に申し上げた「宗教の目的を逸脱しない限り」という条件に当てはまっているか否かを見極める必要があります。


政府に対する牧師会の要請項目を見ると、次の三点が掲げられています。


1、「特定秘密の保護に関する法律」撤廃のためにご尽力お願いします。
2、日本が戦争へ進む道を開く「集団的自衛権行使」容認の法整備を行わないでください。
3、憲法前文・第9条の平和理念を守り、生かしてください。


この要請項目を拝見した上で、今回の活動が、人々の魂の救済と心の平和、世界平和の実現に資するものであるか否かについて私の考えを申し上げれば、残念ながら、首を傾げざる得ない疑念が残ります。


何故なら、私の眼には、どうしてもその活動が一方に偏っているようにしか見えないからです。


要請項目で平和理念が守れるのか?


要請項目の内、1の特定秘密保護法と、2の集団的自衛権行使容認は、何の根拠も無く、自然発生的に出てきた動きではありません。


いずれも、東シナ海や南シナ海において、強大な軍事力を背景に、強引とも言える手法で、現状変更を推し進めようとする一党独裁国家である中国のなりふり構わぬ行動を目の当たりにし、もしこれを黙認すれば、益々挑発をエスカレートさせ、軍事的衝突をも招きかねない恐れが出てきたため、早急に日米同盟を強化し抑止力を高めざるを得ない状況に追い込まれている結果です。


もし牧師会の皆さんが、このような現状に対する認識を共有しておられれば、このような要請項目が出てくる筈はないと思うのですが、現状をどのように認識されているのでしょうか?


私が危惧するのは、反対の声を上げる事が、覇権主義的野望による強引な海洋進出を推し進める一党独裁国家をかえって喜ばせ、益々挑発をエスカレートさせ、軍事的衝突を招きかねない恐れが出てくる事への危機感が全く感じられない事で、こちらの方が、平和理念を守る上で問題なのではないかとさえ思います。


「日本が戦争へ進む道を開く」というコメントがありますが、中国の軍事的挑発や、わが国の安全保障を考えた上での発言とは、とても思えません。


また、要請項目3に「憲法前文と憲法9条の理念を守り、生かす」とありますが、これには大賛成であり、是非ともその為の活動を続けて頂きたいと思います。


しかし、同時に、憲法前文と憲法9条の理念を守り、生かす為には、わが国を取り巻く状況と照らし合わせながら、慎重に取り組む必要がある事も肝に銘じておいて頂きたいと願わずにはいられません。


何故なら、憲法前文に掲げられた「平和を愛する諸国民の公正と信義への信頼」と、憲法9条の「戦争放棄」は、謂わば、家の基礎とその上に立つ家で、一体不可分の関係にあるからです。


その信頼が確保されているか否かを見極めた上でなければ、安易に憲法9条が掲げる戦争放棄・武力放棄の道へは進めないのです。


その事への認識さえあれば、自ずと、憲法前文と憲法9条の正しい活用方法も見えてくる筈です。


つまり、憲法前文と憲法9条は、平和理念の実現に欠かせない相互の信頼関係の構築の為に活用すべき条文であると同時に、もし相互の信頼関係を崩壊させようとする動きがある時には、その動きを封じ込める為に活用すべき条文でもあるという事です。


その観点から、いま日本を取り巻く状況を考えた時、憲法前文と憲法9条の平和理念を守り、生かすのは、どちらの活用方法なのでしょうか?


後者の方法である事は、言うまでもないでしょう。


つまり、中国の強引な軍事的挑発によって、相互の信頼関係が崩壊の危機に瀕している事を平和を愛する世界中の人々に訴え、平和の理念と危機感を共有しながら、中国の挑発を封じ込める為にこそ活用すべきなのです。


その意味で、牧師会の活動には、疑念を抱かざるを得ません。これでは、封じ込めるどころか、益々挑発をエスカレートさせ、平和の理念に逆行する危険性を孕んでいると言わざるを得ないでしょう。


見えてこない根拠


以前から、この運動の発案者の鷹巣さんや実行委員会の皆さん、そして「戦争をさせない1000人委員会」や「立憲デモクラシーの会」の皆さんへの疑問として、度々提起してきた事ですが、牧師会の皆さんが、特定秘密保護法や集団自衛権行使容認に反対し、日本に足かせをはめれば、各国との相互信頼関係が確立でき、憲法前文と憲法9条の平和理念が守れると考えておられる根拠は何なのでしょうか?


その根拠が全く示されていないので、何とも申し上げられませんが、少なくとも実行委員会のFacebookサイトで、この活動が紹介されているところをみると、牧師会の活動は、実行委員会の考え方と一致するところがあるのだろうと推察します。


特定秘密保護法や集団自衛権行使容認に反対する事が、何故憲法前文と憲法9条の平和理念を守る事につながるのか、その根拠が、鷹巣さんや実行委員会からも示されていないのでよく分りませんが、強いて根拠らしきものを挙げるとすれば、同じ実行委員会のFacebookサイトに紹介されている「日本弁護士連合会」のウエブサイトに掲げられたコメントがそれに当るのかも知れません。


そこには、「国に対し、国民の表現活動を侵してはならないと縛りをかけている」「国民が制定した憲法によって国家権力を制限し、人権保障をはかることを「立憲主義」といい、憲法について最も基本的で大切な考え方です」「憲法は、国民のために、国民の権利・自由を国家権力から守るためにあるのです」等の文言が並んでいますが、恐らく、憲法の役割に対するこのような認識、つまり国家権力に足かせをはめる事が憲法の役割だという思い込みは、この運動の発案者の鷹巣さんや実行委員会の皆さん、「戦争をさせない1000人委員会」や「立憲デモクラシーの会」や牧師会の方々に共通する認識ではないかと思います。


もしそうだとすれば、残念ながら、この認識についても異を唱えざるを得ません。何故なら、国家権力だけから国民を守るのが憲法の目的だとは思えないからです。


わが国が戦争放棄を宣言したのは、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、 われらの安全と生存を保持しようと決意した」からであり、わが国の安全保障と国民の生命財産を守る為には、世界各国への信頼関係が担保されなければならない事が、憲法前文に謳われているように、わが国の安全と国民の生命財産を脅かすあらゆる脅威から守るのも、平和憲法に課せられた大切な役目なのです。


牧師会の要請項目にある「憲法前文・第9条の平和理念を守り、生かして」、国民の生命財産を守る為には、国家権力だけではなく、わが国との信頼関係を崩壊させようとしている対外的脅威からも守られなければならないのです。


勿論、国民を守る為に、憲法によって国家権力に足かせをはめ、戦争を未然に防がなければならない時もあるでしょう。


その事を否定するつもりはありませんが、場合によっては、国民を守る為、戦争を未然に防ぐ為、足かせをはめてはいけない時もあります。


その判断は、日本を取り巻く世界情勢如何にかかっていますが、いずれにしても、相互の信頼関係を無視した一国平和主義が実現不可能である以上、日本だけが戦争放棄を掲げて突っ走る事への根強い疑念や不安に対し、どの会の皆さんからも、明快な説明も根拠も示されていない現状では、反対意見が沸騰するのもやむを得ないでしょう。


戦争ができる国づくり?


牧師会の声明の中に、「多くの国民の不安や反対の声、国外の懸念の声に耳を傾けることなく、政府は「特定秘密の保護に関する法律」法施行を強行し「積極的平和主義」の名の下に推し進める「戦争ができる国づくり」の流れを加速させています」という一文がありますが、これはむしろ逆ではないでしょうか?


「軍事的挑発を繰り返す独裁国家があり、その脅威から、国民の生命財産を守れる当たり前の防御体制がとれる国づくり」を、大多数の国民が望んでいるからこそ、国民は、現政権を支持しているのです。


この「憲法9条にノーベル賞を」運動が、非武装中立を掲げ、平和の実現を目指している運動であるにも拘らず、様々な疑問や不安を抱く人々がこれほど多いのは、軍事的挑発を繰り返す独裁国家の脅威が、非武装によってかえって増大し、国民をチベットやウイグルと同じ悲惨な状況に陥れる恐れがある事への懸念を共有しているからです。


勿論、非武装中立によって、その脅威が取り除けるという確固たる根拠や明快な説明がなされ、国民が納得出来るのであれば、平和の実現を望んでいる人々が反対の声を上げる筈がありません。


残念ながら、その根拠も説明もない状況の中で、今にも戦争が起きるかのような「戦争ができる国づくり」という、危機感を煽るキャッチフレーズだけを幾ら連呼されても、国民の耳には虚しく聞えるばかりです。


日弁連のウエブサイトには、「憲法は、国民のために、国民の権利・自由を国家権力から守るためにあるのです」と書かれていますが、確かにこれも一理ある意見だと思います。


しかし、憲法によって足かせをはめる事が国民の生命財産を守る事になるのか否かを判断するのは、我々国民です。


しかも、わが国は、軍事的挑発を繰り返す一党独裁国家とは違い、選挙と言うフィルター装置が用意され、国民が望めば政権交代も実現できる民主主義国家である事を忘れてはなりません。


足かせをはめる事が妥当だと思えば、選挙という濾過装置を使って正々堂々と主張し、政権交代を実現すればいいのであって、足かせをはめる事のみが、さも国民の願いであり、憲法の原則であるかのように主張してはばからない姿勢は、むしろ民主主義への逆行ではないかと、危惧せざるを得ません。


勿論、その逆もまた然りで、足かせをはめない方が妥当だと思えば、その選択もまた許されており、そうした選択肢を通じて国民の意志を反映させていくのが、民主主義体制を採る我々が進むべき道であろうと思います。


激しく変化する世界情勢を無視して、憲法だけを不磨の大典の如く扱う事は、非常に危険であるばかりか、軍事的挑発を繰り返す一党独裁国家からの脅威を世界各国が目の当たりにしている状況の中で、憲法によって国に足かせをはめる事のみを正しい選択肢とする考え方に人々が不安を抱き、異を唱えるのは、むしろ当然と言えましょう。


一方に偏ってはならない


集団自衛権行使容認に関して、憲法9条の解釈変更が取り沙汰されていますが、解釈の変更によって変遷を余儀なくされてきた背景には、無防備のままでは、国民の生命と財産は守れないと判断せざるを得なくなっている世界情勢の変化があります。


牧師会の声明には、「多くの国民の不安や反対の声、国外の懸念の声に耳を傾けることなく」と書かれていますが、この状況認識はどこから出てきたのでしょうか?


前にも述べたように、集団自衛権行使容認に異議を唱えているのは、反日政策を採っている中国、韓国、北朝鮮の僅か三ヶ国と、それに歩調を合わせる国内の一部勢力に過ぎません。


その証拠に、この三ヶ国以外の東南アジア諸国や世界の国々はみな、日本の集団的自衛権行使容認に歓迎の態度を明らかにしています。


何故なら、民主主義国家では当たり前に認められている、政治に国民の意思を反映させる選挙(政権交代)というフィルター装置を持たない一党独裁国家が、覇権主義的野望に燃え、軍事力を背景に強引に突き進む有様を目の当たりにしているからです。


そのような状況の中で、各国が暴走への危機感を抱くのは当然と言えましょうが、わが国も、抑止力を高めながら、早急に戦争の危機を未然に防ぐ万全の体制を整えておく必要があります。


但し、解釈の変更による集団自衛権行使容認にも限度があり、もし憲法の条文に縛られて、国民の安全を確保出来ない恐れが出てくれば、条文の改正という選択肢も、当然あり得るでしょう。


勿論、国の根幹に関わることを決めている憲法が、時の政権によって簡単に変えられるようでは困りますが、他方で、それが足かせとなり、周辺国からの軍事的挑発によって日本が危機的状況に陥るかも知れないという状況の中で、身動きが取れなくなって何もできないというのでは、国民を守る為に作った筈の憲法によって国が滅びるという、笑うに笑えない事態に陥る事だって大いにありえます。


今も言ったように、我々の社会は、相互の信頼関係が100パーセント保証されている社会ではありません。


ましてや、政権交代の無い一党独裁国家の覇権主義的野望によって、相互の信頼関係など無きに等しい状況の中で、いま日本だけに足かせをはめる事が何を意味するかは、チベットやウイグルの惨状を見れば明らかでしょう。


そんな中で、特定秘密保護法や集団的自衛権行使容認に反対する牧師会の活動が、果たして「相互の信頼関係の確立」にどれほどの意味を持つのか、日本だけに足かせをはめる事によって、どこまで平和の実現に寄与できるのかと考えた時、懐疑的にならざるを得ないのは、私だけではないと思います。


私は以前から、鷹巣さんや実行委員会の方々に、「本当に平和を願っているのなら、何故、軍事力を背景に挑発を繰り返し、信頼関係を崩壊させようとしている周辺国に対しても、平和の実現に向けた信頼関係の大切さを訴えないのですか?何故危険な暴走を目の当たりにしながら、見て見ぬ振りをしておられるのですか?」と問いかけ、「憲法9条は、その暴走を食い止め、戦争の危機を防ぐ為にこそ活用すべきではありませんか?」と主張してきましたが、今までの活動状況を見ると、憲法9条を国の足かせとして使う以外の選択肢は考えておられないように思います。


牧師会の皆さんが、実行委員会の方々と同じ立ち位置にあるとは思いたくありませんが、もし同じであるなら、鷹巣さんたちに抱いた疑問を、牧師会の方々にも投げかけざるを得ません。


もし真の平和を望んでおられるなら、何故、特定秘密保護法や集団的自衛権行使容認に反対するだけでなく、そうせざるを得ない状況を作り出し、信頼関係を崩壊させている周辺国の軍事的挑発に対しても、反対の声を上げられないのですか?


平和を望む宗教者としての活動であるなら、そして、その活動が宗教の目的を逸脱していないのなら、一方にだけ偏ってはならないと思います。


「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(1)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(2)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(3)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(4)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(5)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(6)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(7)


高野山法徳寺Website

posted by カンロくん at 09:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題

2015年04月25日

「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(3)

拭い切れない違和感


この運動に対し、どうしても拭い切れない違和感があります。


それは、憲法9条を、近隣国の軍事的挑発や圧力を封じる為ではなく、日本の足かせとして活用しようとしている点です。


日本に手かせ足かせをはめ、結果として戦争が起こらないようにしようという主催者の気持ちは、分らないではありません。


しかし、問題なのは、強大な軍事力を盾に、わが国に挑発を繰り返す近隣国の脅威を目の当たりにしながら、何の意思表示もせずに黙認している事で、その脅威からどのように国民の生命財産を守ろうと考えておられるのかが全く分らないのでは、賛成のしようがありません。


その方策も示されず、ただ日本に足かせをはめて事足れりという考え方には、日本人の一人として、どうしても違和感を拭えません。


この会の他にも、例えば『戦争をさせない1000人委員会』という名のグループのアピールを見ると、やはりそこには、挑発を繰り返す近隣国の脅威に対する言及も、それを防ぐ方策も全く示されていません。


最初、この委員会の名前を見た時は『どの国にも戦争をさせない1000人委員会』の略称かと思いましたが、そのアピールを読んで、期待は見事に裏切られました。


残念ながら、この委員会もまた、日本に手かせ足かせをはめる事だけを目的とするグループでした。


アピールには、「この憲法のもと、私たちは、他国に直接に銃を向け、傷つけ合う不幸だけは味わうことなく、戦後69年を過ごしてきました」と書かれていますが、誰もがこの文章に違和感を覚えたのではないでしょうか?


何故なら、好むと好まざるとに拘らず、わが国は、日米安保条約という世界最強の軍事力を誇るアメリカとの同盟関係(アメリカの核の傘)によって守られてきたのであって、決して憲法9条に守られてきた訳ではないからです。


憲法9条を守りたいとの立場から、このような文言になったのだろうと推察しますが、憲法9条があったから日本が戦禍に巻き込まれなかったという認識は、余りにも実態とかけ離れています。


日本の安全保障にとって、日米同盟は基軸であり、無くてはならない生命線と言っても過言ではありません。


その事は、アメリカとの同盟関係を解消したと仮定した時、今の日本がどのような状況に置かれるかを考えれば、すぐに分ります。


例えば、1995年、フィリピンに駐留していたアメリカ軍がフィリピンから完全撤退した途端、中国がフィリピン沖の島々を乗っ取り、着々と自国の領土化を計っている現実がありますが、これを見れば、領土拡大をもくろむ中国にとって、憲法9条の存在など痛くも痒くもない事が分ります。


china-iland.jpg


中国がこのような強引とも言える行動に出られたのは、アメリカのフィリピンからの完全撤退によって、この地域の軍事的バランス(抑止力)が崩れたからであり、中国は、アメリカがいない隙に、まんまと欲しいものを手に入れたのです。


慌てたフィリピンは、米軍の再駐留を決めましたが、もはや手遅れで、中国は実効支配を続け、軍事施設や滑走路を整備するなど、着々と既成事実化を推し進めています。


「転ばぬ先の杖」ではありませんが、領土を奪われてから杖を探しても、もはや手の施しようがなく、この事実を見れば、憲法9条は日本の守りを妨げる手かせ足かせにはなっても、中国の野望を食い止める防波堤になりえない事は明らかです。


対案のない批判ほど無責任なものはない


ご承知のように、世界190数ヶ国の中で、反日政策を採っているのは、中国、韓国、北朝鮮の3ヶ国しかありません。


この3ヶ国の内、中国は、東シナ海や南シナ海で領海侵犯を繰り返したり、奪った島に軍事施設を作ったり、一方的に防空識別圏を設定するなど、軍事力を背景に危険な挑発をエスカレートさせています。


北朝鮮も、多くの日本人を拉致し、ミサイルを日本海に発射したり、核武装を匂わせたりしながら、危機感を煽っています。


また韓国は、竹島を一方的に占領し、アメリカ国内に慰安婦像を建て、最近では、朝鮮日報の記事を引用する形でコラムを掲載した産経新聞の韓国支局長を起訴するなど、政官民挙げて、日本を敵視する反日政策(ジャパン・ディスカウント運動)に狂騒しています。


このような状況の中で、日本はどうすればよいかを早急に考え、対処していかなければなりません。


憲法違反だと言って批判するのは簡単ですが、日本一国だけで解決出来ない以上、近隣国が挑発を繰り返す状況を踏まえた上で日本はどうすればよいのか、その対案を示し、知恵を出し合って対処方法を提案していかなければ、問題の根本的解決にはなりません。


『立憲デモクラシーの会』というグループが、集団的自衛権行使容認をめぐり、「安倍政権は、中国と北朝鮮を『仮想敵国』と決めつけるというとんでもない手法を採用している」と批判していますが、このような現状認識はどこから出てくるのでしょうか?


日本が中国や北朝鮮、韓国を敵視しているのではなく、これらの国々が、日本に対する敵視政策(反日政策)を採って挑発を繰り返しているからこそ、日本は、それに対処せざるを得ない状況に追い込まれているのです。


このグループの論理を、先般の交通事故に当てはめれば、飲酒運転や無免許運転をして暴走を繰り返すドライバーには何の注意もせず、歩行者を守るガードレールを設置しようとしている者に、「ガードレールを設置する事は、飲酒運転や無免許運転をして暴走を繰り返すドライバーに対する敵対行為だからけしからん。危ないから取り除け」と言っているようなもので、これでは全く道理が通りません。


暴走を繰り返している車があり、黙認すれば「暴走しても許される」という誤ったメッセージを送り、ますます歩行者が危険にさらされる恐れがあるからこそ、わが国は、ガードレールを設置せざるを得ない状況に置かれているのです。


もし『立憲デモクラシーの会』の方々が言われるように、歩行者を守るガードレールの設置がドライバーに対する敵対行為なら、歩行者の命を危うくするドライバーの暴走行為は、何と表現されるおつもりなのでしょうか?


暴走するドライバーには沈黙し、ガードレールを設置する者を非難して、それを是とする論理には、首を傾げざるを得ません。


残念ながら、日本一国だけに足かせをはめ、身動きの取れないようにすれば戦争は起きないと楽観出来るほど、日本を取り巻く状況は甘くありませんし、覇権主義的野望に燃える隣国との信頼関係も強固ではありません。


平和の実現が、日本一国に足かせをはめて実現出来るなら、喜んで賛成したいと思いますが、それが絵に描いた餅に過ぎない事は、先にご紹介したチベット出身のペマ・ギャルポさんの国会証言を見れば明らかです。


鷹巣さんや『憲法9条にノーベル賞を』実行委員会、『戦争をさせない1000人委員会』『立憲デモクラシーの会』の方々が、このような状況の中で、日本に足かせをはめれば戦争を回避でき、国民の生命と財産を守れると信じておられる根拠は何なのでしょうか?


日本人なら誰もが知りたい疑問ですが、残念ながら、納得出来る答えは全く示されていません。対案のない批判、批判の為の批判ほど、無責任なものはないでしょう。


米中の軍事的バランスの変化と日本の立場


世界は刻一刻と動いており、軍事的バランスも微妙に変化しています。


最近の南シナ海や東シナ海での中国の強引な海洋進出の背景には、アメリカとの軍事的バランスの微妙な変化がある事は、周知の事実です。


シリア内戦やウクライナ問題でのオバマ政権の弱腰外交や、軍事費の削減など、アメリカの微妙な変化を、中国が見逃す筈がありません。


「この時を待っていました」と言わんばかりに、一気に軍事的バランスを崩そうと動き出したのです。


「ここまでやってもアメリカは手を出してこない」と見越した上で、着々と食指を周辺諸国へ伸ばしてきている事は、誰の目にも明らかですが、この動きが更に加速すれば、いままで保たれてきた軍事的バランスが崩れ、東南アジアや近隣諸国が今以上に、中国からの軍事的脅威にさらされる事は明らかでしょう。


今までの軍事的バランスを崩して、自国に有利な新たな均衡を作ろうと狙っている中国と対極にいるのが、日本です。


いままで保たれてきた軍事的バランスが崩れれば、中国の覇権主義的野望が更に膨らみ、戦争の危機が現実のものとなる恐れがあるからこそ、日本は今まで平和を保ってきた軍事的バランス(抑止力)を保とうと、様々な施策を講じているのです。


集団的自衛権行使容認も、特定秘密保護法の制定をはじめとする一連の行動も、みなその流れに添うものである事は言うまでもありませんが、その動きが、中国にとって好ましい筈がありません。


軍事的バランスを崩し、覇権主義による強引な領土拡大をもくろむ中国にとって、最も目障りなのが、その均衡を保とうとする日本の行動であり、何としても邪魔をさせまいと、あの手この手で日本を攻撃してくるのは当然です。


靖国問題や慰安婦問題を通じての日本叩きも、秘密保護法案や集団的自衛権行使容認への批判も、すべて中国の野望を阻止しようとする日本の力を削ぐ為のプロパガンダ(政治宣伝)である事は、一連の行動を見ればすぐに分かります。


しかし、より深刻な問題は、国内にあります。


それは、わが国の政治家やマスコミの一部に、中国の覇権主義的野望を食い止めるどころか、中国と同調して、野望を食い止めようとしている政府に足かせをはめ、「集団的自衛権行使を認めれば、他国の戦争に巻き込まれる」と危機感を煽り、耳障りのよい言葉を並べて国民を誤った方向に誘導しようとする動きがある事です。


残念ながら、『憲法9条にノーベル賞を』運動も、その流れと軌を一にする運動と言っていいでしょう。


憲法9条は抑止力となりうるのか?


もし中国が本気で日本に戦争を仕掛けようとする時、憲法9条は、彼らの野望を食い止める抑止力となるのでしょうか?


残念ながら、中国は、憲法9条など一顧だにしません。彼らが考えるのはただ一つ、戦って勝てるかどうかだけです。


勝てるという確信がなければ、誰が愚かな戦争を始めるでしょうか? 勝つと確信して、はじめて領土を奪おうとするのです。


中国に対抗するだけの力を持っていなかったチベットやウイグル(東トルキスタン)が侵略された事実を見れば、よく分ります。


勿論、目的は、そこに眠っている豊富な資源です。


中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは、尖閣諸島周辺の海底に石油資源の可能性が明らかになった1971年以降で、それ以前は、領土の「り」の字もありませんでした。この事実を見れば、中国の野望がどこにあるかは一目瞭然です。


安倍総理が、アメリカとの同盟関係の強化を盛んに強調するのは、日米同盟の強固な我々と戦っても、中国に勝ち目はない事を悟らせ、その野望を止めさせたいからです。


日米同盟が不安定になればどうなるかを、我々は、民主党政権時代に思い知らされました。


尖閣諸島沖で、巡回中の海上保安庁の巡視船に、中国漁船が体当たりしてきた事件が起きたのは、民主党とアメリカとの関係がギクシャクしていたからであり、アメリカが乗り出してこないと見極めたからこそ、中国はあれほど強行に出てこれたのです。


china-ship.jpg


あの事件は、アメリカとの同盟関係が少しでも不安定になれば、中国はすぐに行動を起すというシグナルです。


アメリカ軍が撤退した後にフィリピン沖の島々を奪いにきた事実からも、軍事的バランスが少しでも崩れれば、その隙を狙って行動してくる事は間違いないでしょう。


「日本には憲法9条があるから、中国は日本に対し、絶対に戦争を仕掛けられない」と本気で信じているお方がいるとすれば、余りにも現状を知らず、能天気と言わなければなりません。


目の前に繰り広げられている中国の行動を見れば、憲法9条など何の抑止力も発揮していない事は、火を見るよりも明らかです。


◇外交カードとしての憲法9条◇


先ほど「中国は憲法9条など一顧だにしない」と言いましたが、正確に言えばそうではありません。


彼らにとっても、憲法9条は価値のある条文なのです。


勿論、彼らが憲法9条に価値を認めるのは、世界平和を望むからではありません。日本の力を削いでくれるからです。


日本の力を削ぐ格好の手段として利用価値のある条文であり続ける限りは、憲法9条もまた、靖国問題や慰安婦問題と同じ政治カードの一つとして、価値を持ち続けるのです。


恐らく世界で、憲法9条が日本を戦争から守ってくれていると信じているのは、中国と歩調を合わせる日本の一部政治家やマスコミと、それを支持する一部の人々だけでしょう。


勿論、一党独裁体制の中国は、憲法で国が守れるとは、夢にも思っていません。国民の批判や不満を押さえ込み、自由な意思表示を封じ込める為に、彼らが頼りとするものは、武力しかありません。


これは北朝鮮も同じですが、軍事力を背景に、強引な海洋進出を進める中国の野望を阻止するには、いままで平和を維持してきた軍事的バランス(抑止力)を保つ以外に道はないのです。


勿論、これが最善最良の方法だとは思いません。


武器を使って身を守らなくてもよい平和な時代が一日も早く訪れる事を願ってやみませんし、その為の努力を続けようとする運動に反対するつもりは毛頭ありません。


しかし、中国が、いまも領土拡大の野望を抱いて強引に突き進んでいる以上、日本が国を守り、国民の生命財産を守る為に取るべき道は、残念ながら他にはありません。


もし他に進むべき道があるなら、是非鷹巣さんや『実行委員会』の方々には、対案を提示して頂きたいと思います。


形を変えた「人の支配」の落とし穴


先ほどの『立憲デモクラシーの会』の中には、安倍政権を、ドイツやイタリアのファシズムになぞらえるお方もおられ、唖然としましたが、軍事的挑発を繰り返す中国や北朝鮮こそが、立憲デモクラシーなど全くない、国民を恐怖政治で抑圧している独裁国家である事を忘れておられるのでしょうか?


もし安倍政権をファシズムだと思われるなら、いつでも選挙によって変えればいいだけの話で、それが出来るのが日本であり、独裁国家と根本的に違うところです。


国民の自由な意思表示さえ許さず、政権交代もない独裁国家が、日本に対し敵視政策を採り続け、挑発や圧力を繰り返しているばかりか、現在進行形でチベットやウイグル(東トルキスタン)を侵略し、平和を愛する人々を弾圧し続けている現実がありながら、目隠しをして見ようともせず、憲法9条の解釈に矛盾していると言って批判するだけでは、状況は何も変わりません。


会のコメントの中に、「非論理性」とか「矛盾」という言葉が何度も出てきますが、学問を生業とする方々は、矛盾の無いよう論理を構築できればそれでよいのかも知れません。


しかし、一国の指導者ともなれば、そうはいきません。現実を見据えながら最善最良の方法を採っていかなければならない政治の現場では、時と場合に応じ、矛盾している事をあえて承知の上で、政策を推し進めなければならないケースも出てきます。


何故なら、人間が作った憲法や法律に完全なものなどないからです。


めまぐるしく変わる世界情勢や、それに対応していかねばならない現実と、全知全能の神ならぬ人間が作った不完全な憲法や法律との間に、矛盾が起きているという事は、憲法や法律が、目まぐるしく変化している世界情勢に対応できなくなっている証拠であり、だからこそ、憲法改正という動きも出てくるのです。


コメントの中に、「法の支配から恣意的な人の支配への逆行」との指摘が見られますが、不完全な憲法や法律が、現実とそぐわなくなってきているのを無視し、不完全なものを守る事が常に正しく、国を守る道であると妄信する事もまた形を変えた「人の支配」であり、その結果、祖国が失くなってしまっては、元も子もありません。


勿論、憲法は、国の根幹に関わることを決めていますから、時の政権によって簡単に変えられるようでは困ります。


だからこそ、改正条項を厳しくして簡単に変えられないようになっているのですが、他方で、それが足かせとなり、周辺国からの軍事的挑発によって日本が危機的状況に陥るかも知れないという状況の中で、身動きが取れなくなって何もできないというのでは、国民の幸福の為に作ったはずの憲法によって国が滅びるという、笑うに笑えない事態に陥る事だってありえます。


挑発してくる相手が、覇権主義的野望に燃えている独裁国家であれば尚更でしょう。


何故多くの国々が歓迎しているのか?


民主主義国家であれば、選挙と言うフィルターを通して、国民の意向を反映させ、政権交代を実現させる事も出来ますが、一部の特権階級が支配する独裁国家では、政権交代がありませんから、国民の意思で暴走を食い止めるのは、まず不可能と言っていいでしょう。


だからこそ、挑発を受ける国々の指導者は、予期せぬ事態が起こらぬよう、仮に起こっても国民の生命財産を守れるよう、常にぎりぎりの政治的決断を迫られる訳ですが、ご承知のように、この3ヶ国以外の東南アジア諸国や世界の国々はみな、日本の集団的自衛権行使容認に歓迎の態度を明らかにしています。


何故かと言えば、政権交代のない独裁国家の覇権主義的野望による軍事的脅威を、各国が敏感に感じ取り、同じ思いを共有しているからです。


残念ながら、中国や北朝鮮と世界各国との間では、憲法前文に謳われている「相互の信頼関係」が失われ、各国が、挑発を続ける中国や北朝鮮の軍事的脅威を危惧し、不安を抱いているのが現実です。


しかし、だからこそ、世界平和の実現には「相互の信頼関係」が不可欠である事を世界中に訴え、憲法9条の理念を共有する又とない千載一遇の好機ではないかと思うのですが、この運動の主催者には、全くその意志がありません。


何故いま日本が集団的自衛権行使容認へと向かわざるを得ないのかという背景への考察も、挑発を繰り返す独裁国の脅威への言及もまったくなされず、その対案も示されていない状況では、千語万語を費やして安倍総理を批判しても、主催者が望む政権交代はおろか、政府の方針を変える事さえ不可能でしょう。


国の安全保障というものは、ただ世界平和を叫び、戦争放棄、非武装中立を宣言し、政府を批判するだけで実現できるほど、単純なものでない事を、我々国民はよく知っています。


ただ耳障りのよい政策を唱えるだけの政党が、全く国民の支持を得られないのも、至極当然と言えましょう。


勿論、武力だけで安全保障が実現できるとは思いません。


外交努力も含め、様々な手立てを駆使しながら、多重的な安全保障を構築していかなければならないでしょう。


大切な事は、武力を持たない国がない世界の現状を直視した上で、いかにして戦争のない平和な世界を実現していくかですが、日本だけが率先して武力を放棄すれば国の安全保障も世界平和も実現出来るという理想論には、与したくてもできません。


何故なら、理想論を振りかざし武力を放棄した為に領土を奪われ、多くの同胞が虐殺や辱めを受け、いまも弾圧や迫害を受け続けているチベットやウイグル(東トルキスタン)の人々が雄弁に語ってくれているからです。


理想論を述べるのは個人の自由ですし、それも許されているのが日本ですが、安全保障が、国家間の信頼関係の上に成り立つものである以上、どうすれば相互の信頼関係を構築出来るかを考えながら、万が一の時に備えて万全の体制を整えていかなければ、戦争放棄も世界平和もただの絵に描いた餅に過ぎません。


この運動について言えば、憲法9条にノーベル賞を受賞できれば、平和への動きが加速すると考えて始められたのかも知れませんが、私は、周辺国の外交カードとして使われ、今以上に挑発や圧力が繰り返されて、日本は益々抑止力を強化せざるを得ない状況に追い込まれて行くのではないかと危惧しています。


憲法9条を守る責任の共有


繰り返しますが、私がこの運動に違和感を覚えるのは、憲法9条を、周辺国の軍事的挑発や圧力を封じる為ではなく、日本の足かせとして活用しようとしているからです。


日本一国だけの努力で憲法9条の理念を守るのが難しい以上、敵視政策を採っていない世界中の国々との絆を深め、挑発を繰り返す隣国へ自制を促していかなければなりませんが、その為には、憲法9条がいま隣国からの様々な挑発によって危機的状況にある事を世界に訴え、平和を愛する国々や、平和を愛する人々と9条の理念を共有し、協力し合っていく以外に道はないと思います。


要するに、憲法9条の理念を守る責任を、日本一国が負うのではなく、世界中の国々にも分担していただこうという事です。


その働きかけの契機として、ノーベル賞を活用しようというのであれば、それはそれで意義のある運動だと思います。


しかし、日本だけに足かせをはめようとする運動なら、今でさえ慰安婦問題や靖国問題を、日本の力を削ぐ外交カードとして使っている国々が、ノーベル賞を受賞した憲法9条を外交カードとして使ってこない筈がありません。


そうなれば、挑発は更にエスカレートし、対立は益々深まるばかりで、いい事など何もありません。わが国が背負うリスクが、更に大きくなる事だけは覚悟しておいた方がいいでしょう。


しかし、もし相互の信頼関係が不可欠である事を謳った憲法前文という基礎と、その上に立っている憲法9条という家が、いま隣国からの軍事的挑発によって崩壊の危機に瀕している事を、世界中に訴える事が出来れば、憲法9条を守る応分の責任を各国と共有でき、挑発を繰り返す国々に自制を促す道すじが出来るかも知れません。


この運動に賛同している方々は、集団的自衛権行使容認のみを捉えて憲法9条の危機と捉えておられるようですが、私は、集団的自衛権行使容認の背景にある隣国からの軍事的挑発こそが、憲法9条の理念を危機に陥れている元凶だと思います。


だからこそ、隣国の挑発によっていま憲法9条が崩壊の危機に瀕している事を世界中に訴え、平和を愛する人々と理念を共有し、一致団結して自制を促していく事に、大きな意味がある筈です。


さもなければ、日本は益々抑止力強化に向けて進まざるを得なくなり、憲法9条の理念とは真逆の結果を招くだけでしょう。


いま我々が取るべき道は、二つに一つしかありません。「憲法を現実に合うように変えていくか、それとも現実を憲法に合うように変えていくか」です。


いずれも困難な道ではありますが、鷹巣さんや実行委員会の方々は、現実を憲法に合うように変えていく後者の道を選んでおられるようです。


だとすれば、やはり世界各国に憲法9条を守る応分の責任を求め、理念を共有しながら近隣国の挑発を封じ、わが国を取り巻く危機的状況を取り除くような運動の進め方をしていかないと、状況は何も変らないと思います。


「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(1)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(2)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(3)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(4)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(5)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(6)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(7)


高野山法徳寺Website

posted by カンロくん at 16:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題

2015年04月23日

「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(2)

現実を無視し理想だけを説く者は無責任である


私達の社会は、お互いへの信頼がなければ成り立ちません。毎日、どこの誰が作ったのか分らないお米やお野菜やお肉や果物やお菓子を食べて生活してゆけるのは、誰も農薬を入れたり、異物を混入したりしないと信頼しているからです。


しかし、この信頼が100パーセント守られるという保証はありません。残念ながら、テレビをつければ、毎日のように信頼を裏切る事件や事故が、相次いで報道されている事は、皆さんもご承知の通りです。


つい先日も、スーパーの商品に異物を混入している映像を、動画サイトに投稿したとして、19歳の少年が逮捕されたばかりですが、いまや食物への異物混入や悪戯は珍しくないと言っても過言ではないでしょう。


私が「現実を無視し理想だけを説く者は無責任であり、理想を持たず現実だけを語る者は無知である」と言ったのは、このような現実があるからです。


私達が生きている社会は、相互の信頼がなければ成り立たない社会であると同時に、その信頼が100パーセント保証されていない社会でもあります。


この相反するジレンマ(二律背反)の中で生きていかなければいけない私達が取りうる道は、一つしかありません。


それは、信頼を裏切られた時のリスクを最小限に抑えながら、お互いが信頼し合える社会を築いていく努力を忘れてはならないという事です。


取り戻せない尊い命


昨年7月13日、北海道小樽市の海水浴場近くの道路で、女性4人が車にはねられ、3人が死亡、1人が重傷という痛ましい事故が起きました。


見通しの良い直線道路であるにも拘らず、飲酒運転をして、おまけに携帯電話に気を取られて前方をよく見ていなかった事が事故の原因ですが、ご家族のお気持ちを思うと、居たたまれない気持ちになります。


もしこの道路にガードレールが設置されていれば、事故は防げなくとも、女性達の命はガードレールに守られて助かったかも知れないと思うと、命を落とされた三人の女性やご家族がお気の毒でなりませんが、失われた命はもう二度と戻りません。


otaru.jpg


平成24年、京都府亀岡市で登校中の児童や引率の保護者の列に、無免許の少年が運転する軽乗用車が突っ込み、3人が死亡、7人が重軽傷を負うという痛ましい事故があったばかりだけに、一層憤りを覚えますが、残念ながら、どちらの事故現場にも、命を守ってくれるガードレールは設置されていませんでした。


ガードレールがあれば助かったかも知れない事を考えると、「事故に遭った人たちは運が悪かったのだ」では済まされません。


勿論、ドライバーへの信頼が100パーセント保証されている車社会であれば、ガードレールなど必要ありません。


景観は悪くなり、お金もかかり、道幅も狭くなり、歩いている人がぶつかって怪我をする危険性のあるガードレールなど、設置しない方がいいに決まっています。


しかし、ぶつかってこないという保証がない限り、命を守るガードレールは欠かせません。


私達が考えなければいけないのは、「ガードレールがあれば助かったかも知れない命が、無かったがために失われたという現実をどう受け止め、今後にどう活かしてゆけばよいのか」という事です。


皆さんは、飲酒、居眠り、挑発などを繰り返して暴走してくる車の前を、ガードレールも何もないと分っていて、安心して歩けるでしょうか?


恐らくそんなお方は一人もいないと思いますが、このような事が国レベルで起こったらどうでしょう。


強大な軍事力を背景に周辺国を挑発し、わがもの顔に暴走を繰り返している国があり、その国への信頼がどんどん崩壊している中で、何の防御もせず、口先でただ「戦争を放棄しているから攻めて来ません。安心して下さい」と言っているだけでは、安心どころか、国民は益々不安になるだけです。


それは、暴走する車が後ろから来ると分っていながら、ガードレールも何もない道路を「交通安全のタスキをかけているから、ぶつかってきません。安心して下さい」と言われているようなものです。


それでもあえて「大丈夫です。絶対にぶつかってこないから、安心して下さい。事故など絶対に起きません。事故のない社会を目指して活動している私達に、ぶつかってくる筈がありません」と言う人がいたら、その人は、間違いなく大嘘つきであり、無責任な人と言わねばなりません。


私達が生きている社会は、相互の信頼が100パーセント保証されている社会ではない以上、「絶対大丈夫」という事はありえないのです。


命を救った過去の教訓


全知全能の神ならぬ人間の社会では、事故は必ず起きるものと考えておかなければなりません。


東京電力福島第一原発事故が起きた際、「想定外」という言葉を何度も聞きましたが、この言葉に違和感を抱いたお方も少なくないと思います。


東京電力は、「このような大地震さえ起こらなければ、事故は起きなかった。これほどの大地震は予想出来なかった」と言いたいのでしょうが、仮に想定外の大地震であったとしても、問題の本質は、予想を超えていたかどうかではなく、「結果として事故が起きてしまった事を、どのように受け止め、今後にどう活かしていくべきか」という事です。


genpatsu2.jpg


つまり、原発の安全であれ、国の安全保障であれ、日常生活の安全であれ、私達は、「事故はいつか必ず起きる。100パーセント安全という事はありえない」という事を常に念頭に置き、事故が起きないよう、出来るだけ万全の体制を敷いておくと同時に、事故が起きた時のリスクを最小限に抑える準備を整えておかなければならないという事です。


「想定外」という東電の発言は、「想定内だったら事故は起きなかった」と言う意味でしょうが、これは全く逆で、「想定内であっても事故は起きる」という認識にたって万全の体制を整えておく事が、「100パーセント安全という事はありえない」社会に生きる私達の用心であり、責任ある立場にいる者が、常に心得ておかなければならない事ではないでしょうか?


東日本大震災で1200人を超す死者と行方不明者を出した岩手県釜石市では、3000人近い小中学生のほとんどが高台に避難して無事でしたが、その背景には、古くから津波に苦しめられてきた三陸地方の言い伝えである「津波てんでんこ」(「自分の責任で早く高台に逃げろ」という意味)の教訓がありました。


釜石市北部の大槌湾を望む釜石東中学校(生徒数222人)は、同湾に流れ出る鵜住居(うのすまい)川から数十メートルしか離れていないため、津波が来たらひとたまりもありませんが、古くから津波に苦しめられてきたこの地方では、「津波てんでんこ」の言い伝えを守り、万が一の時を想定して、日頃から防災訓練を実施してきました。


地震が発生した時は、ちょうど各教室で下校前のホームルームが行われていましたが、揺れが一段落した後、担任教師が「逃げろ」と叫ぶと、みんな一斉に校庭に飛び出し、教師の指示を待たずに、高台に向かって走りだしました。


途中で、隣接する鵜住居小学校の児童361人も合流し、中学生が小学生の手を引きながら、みんなで高台に向かって走りましたが、いつも防災訓練で集まる高台まで来たものの、誰かが「まだ危ない」と言ったので、さらに高台にある老人施設まで避難しました。


学校から走った距離は、1キロにもなりましたが、教師たちが点呼をとって確認したところ、登校していた両校の児童562人全員が無事でした。両校の校舎が津波にのみこまれて壊滅したのは、そのたった5分後でした。


「津軽てんでんこ」の言い伝えを忘れず、「大地震は必ず起きる」事を念頭において、日頃から実施してきた防災訓練の賜物であり、「100パーセント安全という事はありえない」事を想定して、万全の体制を整えておく事がいかに大切かを物語る貴重な教訓と言っていいでしょう。


◇安全神話の崩壊?◇


大事故が起きると、よく「安全神話の崩壊」という言葉が新聞紙上を賑わしますが、この言葉ほど世の中を欺瞞する言葉はないでしょう。


100パーセントの安全が保証されている社会なら、「安全神話」も成り立つでしょうが、我々の社会では、崩壊する安全神話そのものが、最初から存在しないのです。


これが、好むと好まざるとに拘らず、相互の信頼が100パーセント保証されていない社会に生きていかなければならない私達の宿命です。


もし「100パーセント安全です。交通事故も起きません。原発事故も起きません。非武装をしても攻めてきません。世界に誇る平和憲法さえあれば、国民の生命も財産も領土も守られますから安心して下さい」と、耳障りの良い事ばかり言う人がいたら、絶対にその人を信頼してはいけません。


当然の事ながら、事故が起きた時、その人は責任を負えません。失われた命を、どうして取りかえすのでしょうか?汚染された故郷を、どうして回復するのでしょうか?奪われた領土をどうして取り戻すのでしょうか?


そこに待っているのは、私達が願う世界平和、戦争放棄、無事故、無違反とは真逆の世界です。


だからこそ、事故が必ず起きる事を念頭においた上で、事故が起きる前に、出来るだけ起きないよう様々な手立てを講じておくと共に、起きた時のリスクを最小限に抑える万全の体制を整えておかなければならないのです。


私達に出来るのは、それだけです。


しかも、それは平和な内、事故が起きる前にしておかなければ意味がありません。事故が起きてしまってからでは、遅いのです。


そして、そのリスクを最小限に抑え、取り返しのつかない結果が起きる前に、万全の体制をとっておく責任は、組織が大きくなればなるほど大きくなります。


原発事故を起した東電の責任の大きさは言うまでもありませんが、それがもっと大きな国レベルになれば、1億2千万人の生命と財産を守る責任を負わされる訳ですから、その責任の重さは計り知れません。


個人レベルであれば、鷹巣さんのようにいくら理想論を語っても一向に構わないと思います。しかし、国家レベルとなれば、いくら理想だけを追い求めても、それは絵に描いた餅にしかなりません。


一国の指導者には、完全とは行かないまでも、可能な限りリスクを最小限に抑え、国民の生命と財産が守れるだけの万全の体制を整えておく責任(義務)があります。


わが国は、その責任を果たし、国の命運と国民の生命財産を守ってくれると信じられる人物を、選挙というフィルターを通して選ぶ権利が保障されている民主主義国家ですが、もし非常時に備えて万全の体制を整えておく責任を放棄し、ただ耳障りの良い理想論だけを振りかざす指導者がいるとすれば、私達は絶対にその人物を国民の代表に選んではいけませんし、その人が掲げる理想論も信用してはいけません。


この運動を発案した鷹巣さんは 「非武装中立」を主張されているようですが、残念ながら、現実を見る目を持たず、ただ耳障りの良い事ばかりを言うお方を信用する事は出来ません。


何故なら、理想は、現実を見据えて初めて実現出来るものだからです。「戦争反対、戦争放棄、非武装中立」を叫んでいるだけでは、その理想さえ実現出来ないのです。


その事はすでに歴史が証明しています。否、それは過去の歴史などではなく、近隣国で、今も現在進行形で証明され続けている現実なのです。


度重なる忠告を無視して潜入した二人の日本人を人質にとり、多額の身代金を要求している「ISIL(所謂イスラム国)」なるテロ組織も同様で、何の罪もない無辜の子供や女性をはじめ、数多くの一般市民を無差別に虐殺している彼らに、幾ら非武装中立を叫んでも、犠牲者が更に増えるだけで、何の解決にもならない事は明らかでしょう。


理想を持たず現実だけを語る者は無知である


我々の社会が、お互いを100パーセント信頼出来ない社会であるという事は、言い換えれば、お互いを疑わねばならないという事です。


悪い言い方をすれば、現実だけを見ていると、誰も信頼できない世の中になる恐れがあるという事です。


ご承知のように、一党独裁体制が敷かれている近隣の共産主義国では、秘密警察が絶えず監視の目を光らせ、政権に不満を抱いたり批判したりする人々を逮捕し、徹底的に排除する恐怖政治が堂々とまかり通っています。


密告者も大勢いますから、国民は、自分以外の人間が信じられず、毎日相手の顔色を伺いながら、戦々恐々と暮らしています。


近隣国から送られてくる映像を見ると、みな主席の前で感動の涙を流し、満面の笑みを浮かべ、さも幸せそうにしていますが、そうしないと生きてゆけないからです。


これが、100パーセント信頼出来ない社会に生きる人間が行き着く最も不幸な姿ですが、民主主義社会に生きる私達といえども、現実だけを見ていると、そうなる恐れがないとは言い切れません。


ですから、そうならないように、どうすればお互いが信頼し合える世の中にしてゆけるかを、みんなで知恵を出し合っていかなければならないのです。


これが、「理想を持たずに現実だけを語る者は無知である」という意味ですが、今お話した交通事故の例で言えば、「どうすれば、ガードレールを設置しなくても安心して歩ける世の中に出来るか、どうすれば暴走を繰り返す人の心を改めさせ、事故を未然に防ぐ事が出来るかを、みんなで知恵を出し合っていきましょう」という事です。


ガードレールなど必要のない安全な社会の実現を目指す心を忘れてはなりません。


しかし、その一方で、ガードレールの設置も忘れてはならないのです。


いつ実現出来るか分からない理想の為に、交通事故で大勢の人を犠牲にする訳にはいかないからです。これが現実です。


勿論、交通安全のタスキやスローガンも、平和を目指す運動も大切であり、無意味とは言いません。


しかし、交通安全のタスキもスローガンも、ガードレールの設置など、万が一の事故を想定した様々な防御策と相まって、初めてその効果を十二分に発揮できるのです。


もしこの運動が、ガードレールの設置も認めない、人の命を軽視する、掛け声だけの絵に描いたタスキやスローガンに過ぎなかったり、国民の生命と財産を危うくする無防備の一国平和主義を推し進める運動なら、とても賛成する事はできません。


私達は、相互に信頼し合える世界の実現に向けて努力する事を、憲法前文に誓い、世界平和の実現の為、憲法9条を設けましたが、いま日本を取り巻く状況は、前文に掲げた信頼し合える世界とは真逆の方向に進んでおり、悪化の一途を辿っていると言わねばなりません。


先ほど、「私達が生きている社会は、相互の信頼がなければ成り立たない社会であると同時に、その信頼が100パーセント保証されていない社会でもあります」と言いましたが、まさに私達は、いまその現実を目の当たりにしているのです。


私が、「この運動が『諸国民の公正と信義に信頼して』という憲法前文の理念を含めた上での申請なら意義深いが、ただ戦争放棄を宣言した憲法9条だけを申請する運動なら疑念を抱かざるを得ない」と言ったのは、このような状況があるからです。


もし現実を無視して、一方的に非武装中立を宣言し、平和という理想を追い求めるだけの運動なら、「戦争放棄、世界平和の実現」とは真逆の結果を招き、大勢の国民を危険に陥れる恐れがあると言わざるを得ないでしょう。


憲法9条の活用方法への疑問


この運動の主催者がノーベル委員会に提出した申請文には、次のように書かれています。


「日本国憲法は前文からはじまり、特に第9条により徹底した戦争の放棄を定めた国際平和主義の憲法です。特に第9条は、戦後、日本国が戦争をできないように日本国政府に歯止めをかける大切な働きをしています。そして、この日本国憲法第9条の存在は、日本のみならず、世界平和実現の希望です。しかし、今、この日本国憲法が改憲の危機にさらされています。
世界各国に平和憲法を広めるために、どうか、この尊い平和主義の日本国憲法、特に第9条を今まで保持している日本国民にノーベル平和賞を授与してください。」


この申請文を読めば、この運動の目的が、改憲を阻止し、憲法9条を、日本に戦争できないようにするための足かせとして活用しようとしている事が分ります。


勿論、改憲がすべて正しいとは思いませんし、日本に足かせをはめることによって、戦争が未然に防げる場合もあるかも知れません。


しかし、いま問題なのは、「近隣国から軍事的挑発や、様々な中傷と圧力を受けている状況で、日本だけに足かせをはめる事が、果たして日本の安全と国民の生命を守り、世界平和を実現する最良の道であり、憲法9条の正しい活用方法なのか?」ということです。


よく「歴史に学ばなければならない」と言われます。


ご承知のように、これは、日本を挑発している近隣国が日本に言い続けている言葉でもありますが、私達は、その近隣国が、120万人のチベット人を虐殺し、いまなおチベットやウイグル(東トルキスタン)で多くの人々を弾圧し、強引に民族浄化政策を推し進めている有様を、つぶさに見ています。


中国に侵略されたチベット出身のペマ・ギャルポさんは、衆議院憲法調査会の公聴会で、次のように証言されています。


憲法9条の一方的な戦争放棄に対して何らかの国際社会においての保証もなければ、それを尊重するような環境もないのが現実です。
私が生まれた祖国チベットは、7世紀以来仏教を信仰し、生命の尊重を願って他に危害を加えない平和を一方的に信じてきたが、残念ながら、1950年代にはその平和な生活は、中国によって一方的に侵略され、固有の価値観を否定され、約600万人の5分の1の人たちが、尊い命が奪われた。
国連の機関である国際司法裁判所は、これを大量虐殺(ジェノサイド)と判定し、国連総会において3回にわたって非難決議がされたが、結局、チベットは侵略されたまま、何の救済にもならなかった。
敬虔な仏教国チベットでは、指導者である僧侶達が殺生を禁じ 「仏を拝んでいれば平和は保たれる」と主張し抵抗を禁じたが、その結果チベットは地獄になってしまった。中共軍が本格的に進入してきた時、チベット軍はすでに解体させられていた。
「インドに頼もう」とか「国連に訴えよう」とチベットは行動をおこしたが、インドは動かなかった。
そして95%の僧院が破壊され、120万人のチベット人が虐殺された。
日本人に言いたい事は、自分でいくら平和宣言をしても他国を縛る事はできない。泥棒を中に入れてから鍵をかけても遅いという事だ。


china-genocide.jpg


日本に対し、「歴史に学ばなければならない」と言い続けている近隣国は、この証言を前に何と答えるのでしょうか?


また、非武装中立を掲げてこの運動を始められた鷹巣さんや、実行委員会の方々は、この現実を目の当たりにして、どの様な方法で、国の安全と国民の生命財産を守ろうとしておられるのでしょうか?


尋ねたい疑問が次々と噴出してきますが、残念ながら、鷹巣さんからも、実行委員会からも、これらの疑問に対する方策が一切示されていません。


◇日本がとるべき道◇


このような過去の歴史や、近隣国で起きている惨状を直視すれば、私達が取るべき行動は、自ずと明らかなのではないでしょうか。


この運動に賛同する皆さんは、真剣に憲法9条を守りたいと願っておられる筈ですが、もしそうであるなら、9条の理念を世界各国と共有し、近隣国からの軍事的挑発や、この地域の平和と安定を阻害する様々な動きを封じ込めなければ、憲法9条を守る事は出来ません。


集団的自衛権行使容認の閣議決定も、憲法改正も、その背景にある、近隣国の軍事力増強や、軍事力を背景とした挑発と圧力、更にはペマ・ギャルポ氏が証言しておられる悲惨な状況と、無関係ではありません。


集団的自衛権行使容認や憲法改正を阻止したいという気持ちは分らないではありませんが、それを望むなら、日本を取り巻く周辺の状況を変えるしかありません。


集団的自衛権行使容認も、憲法改正への動きも、そのような状況から生まれた結果ですから、その原因を取り除かなければ、結果だけを批判しても何も変わりません。と言うより、変わりようがないのです。


憲法前文に、「諸国民への公正と信義に信頼して」と謳われているように、憲法9条の理念を守る為には、「自らが戦争をしない」事を誓うだけではなく、同時に「他国からも攻められない」事が担保され、相互の信頼関係の構築が必要である事は、言うまでもないでしょう。


しかし、それと同時に、平和を願う世界の友好国と9条の理念を共有しながら、東シナ海や南シナ海で軍事的挑発を繰り返す近隣国の覇権主義的野望を封じ込め、不測の事態に発展しないよう万全の体制を整えておく事も忘れてはならないのです。


もし鷹巣さんや実行委員会の方々が、前文を無視して9条だけを取り上げ、わが国が一方的に戦争放棄、非武装中立政策をとれば、「他国から攻められる事」もなくなると、本気で信じておられるのであれば、そう信じる根拠を国民の前に明らかにする必要があります。


日本が戦争をしないよう、手かせ足かせをはめるのは結構ですが、同時に、近隣国の軍事的挑発や中傷を封じ込める意思表示と行動が伴わなければ、その国と歩調を合わせる一部政治家やマスコミの支持は得られても、大多数の国民の支持は得られないでしょう。


「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(1)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(2)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(3)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(4)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(5)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(6)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(7)


高野山法徳寺Website

posted by カンロくん at 15:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題

2015年04月22日

「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(1)

残念な実行委員会の姿勢


集団的自衛権行使容認をめぐって、一部の政治家やマスコミが、戦争がいまにも起こるかの如く声高に叫んでいたのは、昨年七月でした。


「日本が平和だったのは、憲法9条があったからだ。憲法改正は何としても阻止しなければいけない」というのも、同じ人々の口からよく聞かれる言葉ですが、神奈川県座間市在住の鷹巣直美さん(写真)というお方が発案されたと言う『憲法9条にノーベル賞を』運動も、その延長線上にあると言っていいでしょう。


takasu.jpg


戦争放棄を謳った憲法9条にノーベル賞を受賞して、世界平和の実現を目指そうという趣旨の運動であれば、万人の賛同が得られてもおかしくありませんが、この運動には賛否両論があります。


何故、平和を目指している筈の運動に、多くの反対意見が出ているのかと言えば、憲法改正をめぐって意見が対立している中、改憲派も含めた「日本国民」を受賞者にしている点、その実態が左翼思想を背景にした、平和運動に名を借りた憲法改正阻止を目的とするただの倒閣運動に過ぎないと指摘されている点、更には運動の主催者側に、国民の疑問や不安に真摯に答える姿勢が見られない点など、運動に対する様々な疑念や問題点が浮き彫りになっているからです。


思うに、戦争放棄を宣言した憲法9条の理念は、普遍的なものであり、そこに疑いを差し挟む余地はありません。


戦争のない世界平和の実現は人類の果て無き夢であり、憲法9条に謳われている戦争放棄は、平和実現を目指す上で全世界が共有すべき理念と言っていいでしょう。


その意味で、戦争放棄と世界平和を目指そうという鷹巣さんの想いには大賛成であり、異を唱えるつもりは全くありません。


しかし、その事と、国の安全保障と密接につながる憲法9条をノーベル賞に申請する事の是非とは、また別問題であり、近隣の周辺国とわが国との微妙な関係なども考慮しながら、慎重の上にも慎重に取り組む必要があるのではないかと思います。


それともう一つ、この運動に対する様々な疑問点が指摘されている現状を踏まえれば、運動の発案者である鷹巣さんや実行委員会の方々には、先ず多くの皆さんから指摘されている様々な疑念や不安に対し、真摯に向き合う姿勢が求められているのではないかと思います。


そのような姿勢が全く見られない現状では、多くの人々が、この運動に対し、様々な疑念を抱くのも無理はありません。


例えば、『憲法9条にノーベル賞を』実行委員会が、Facebook上に設けておられるコミュニティには、賛成派、反対派の双方から、様々な意見が寄せられ、一見すると、活発な議論が展開されているように見えます。


しかし、今のところ、鷹巣さんにも、実行委員会の方々にも、反対派の人々から寄せられる疑念や問題点と真摯に向き合う姿勢も、より多くの人々に理解を深めてもらおうという努力も全くないように思われます。


それは、ある時期から、不都合な議論を封じる為としか思えない「一人一コメント」というルールを設けられた事を見ても明らかで、都合の悪い反対意見を削除しながら、一方的に自己の主張を繰り返しておられる現状では、運動に対する理解を深める事も、賛同の輪を広げる事も難しいのではないでしょうか?


憲法9条と憲法前文の関係


日本国憲法は、戦後、GHQの強い影響下で作られた憲法である事は周知の事実で、憲法9条の戦争放棄も、太平洋戦争への反省を踏まえて加えられた条文ですが、憲法9条の是非を論ずるに当り忘れてはならない事が一つあります。


それは、「憲法9条が謳っている戦争放棄を実現する為に、我々は全世界に何を誓ったのか」という事です。


「我々が戦争放棄を宣言したのは何のためか」という事が、憲法前文に書かれています。


日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、 われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


この前文の崇高な理念を実現する為に作られたのが、戦争放棄を宣言した憲法9条ですが、前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と謳われているように、私達が戦争放棄を宣言したのは、すべての国の人々の平和を愛し、公正と信義を重んじる心を信頼しようと決意したからです。


つまり、各国が「相互の公正と信義」を重んじなければ、戦争放棄も世界平和も決して実現しない事を世界中に訴え、自ら率先してその実現の為に努力する事を、憲法前文に宣言したのです。


その後に続く「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」と謳われているのも、同じ理念に基づくもので、いかなる国家も、他国の領土を奪ったり、軍事力を背景に威嚇したり、挑発したりしないと信じ、その信頼関係を、全ての国の人々と共有しようという意思を、全世界に表明したのです。


そう信頼しようと決意したからこそ、前文の最後で「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成すること」を誓ったのです。


憲法9条を砂上の楼閣にしてはならない


この相互の信頼関係は、他国が我々に求める理念であると同時に、我々が世界各国に求めることの出来る理念でもありますが、前文を読めば、戦争放棄を宣言した憲法9条は、「平和を愛する諸国民の公正と信義」への我々の信頼が確保され、「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という理念が、いずれの国からも担保されていることを前提として、初めて実現可能な条文である事が分ります。


つまり、我々が全世界に宣言した戦争放棄という憲法9条の崇高な理念を実現出来るか否かは、各国との信頼関係が確保されているか否かにかかっているのです。


言うまでもありませんが、各国への信頼を無視して、憲法9条の戦争放棄だけを金科玉条の如く捉え、一国平和主義を唱えるのは、まったく無意味であるばかりか、我々が憲法前文に掲げた崇高な理念を否定することになります。


何故なら、平和を愛する人々や平和を愛する国々への公正と信義を信頼して作られた憲法9条は、実現不可能な、ただの絵に描いた餅に過ぎなくなってしまうからです。


要するに、憲法9条の戦争放棄と、前文の「平和を愛する人々や平和を愛する国々の公正と信義への信頼」は一体であり、これを切り離すことは出来ません。


憲法9条を家にたとえれば、前文に掲げられた理念は、家を支える基礎です。


憲法9条を、「平和を愛する人々や平和を愛する国々の公正と信義への信頼が保証されている限り」という前提条件の下に作られた条文である事を無視し、無条件に戦争放棄と武力放棄を宣言したものと曲解すれば、その上に建っている憲法9条は、基礎を持たない砂上の楼閣になってしまいます。


憲法9条に掲げる戦争放棄の理念が重要である事は言うまでもありませんが、それ以上に重要なのは、その前提(基礎)である「平和を愛する人々や平和を愛する国々の公正と信義への信頼」が確保されているか否かであり、憲法9条改正の是非を論じる時は、この事を決して忘れてはならないと思います。


その信頼への保証を無視して、憲法9条改正の是非だけを議論するのは、木を見て森を見ない過ちを犯す結果となるでしょう。


灯台下暗し―形を変えた改憲運動


もしこの『憲法9条にノーベル賞を』運動が、「平和を愛する人々や平和を愛する国々の公正と信義への信頼の下に、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という憲法前文の崇高な理念を前提とした上で、ノーベル賞を申請しようとする運動なら、今わが国が、近隣国からの軍事的挑発や、様々な中傷によって不安定な状況に置かれている時だけに、とても意義のある運動だと思います。


憲法9条の戦争放棄は、平和を愛する人々や平和を愛する国々の公正と信義への信頼なくしては実現しえない事を世界中に訴え、この崇高な理念を、世界中の国々や平和を愛する人々と共有し、一致協力して、近隣国の挑発や中傷を封じ込める又とない機会となるかも知れないからです。


しかし、前文の理念を無視し、ただ戦争放棄を宣言した憲法9条だけを申請し、一方的に無防備を宣言する一国平和主義を目指そうとする運動なら、疑問を抱かざるを得ません。


先ほど「この運動には大きな疑問がある」と言ったのはその為で、私の眼には、この運動が、憲法前文に謳われている各国相互の信頼関係の確保という、憲法9条の理念を守る上で絶対に欠かす事のできない基礎を無視し、ただ憲法9条という家だけを申請しようとする運動にしか見えないのですが、これは間違った見方なのでしょうか?


それだけではありません。私がこの運動に違和感を覚えるのは、前文と憲法9条を切り離し、憲法9条だけを金科玉条の如くとり上げるのは、憲法起草者の意に反する形を変えた改憲行為に他ならないからです。


鷹巣さんは、改憲を阻止する目的でこの運動を始められたようですが、実は自らが、この運動を通じて、改憲行為に等しい行動をとっておられる事に気付いておられるのでしょうか?


「灯台下暗し」とはまさにこの事で、もし自己の政治信条を貫くために、憲法9条を利用しておられるのだとすれば、平和を願う市井の人間の一人として、これほど残念な事はありません。


羊の皮を被った狼となるのか?


ご承知のように、いま日本は、憲法前文に謳った「平和を愛する人々や平和を愛する国々の公正と信義への信頼」が確保されているとはとても言えない状況にあります。


わが国は、近隣国から、様々な軍事的挑発や、政治的プロパガンダによる中傷や圧力を受け、憲法9条の基礎である前文の「平和を愛する人々や平和を愛する国々の公正と信義への信頼」が崩壊の危機に瀕する状況の中に置かれています。


そのような状況を踏まえれば、憲法9条を守る為の活用方法も、自ずと見えてくるのではないでしょうか。


つまり、戦争放棄を謳った憲法9条が、近隣国からの軍事的挑発によって、今まさに崩壊の危機に瀕しようとしている事を世界中に訴え、各国と理念を共有した上で、一致団結して近隣国からの軍事的挑発を封じ、政治的プロパガンダを止めさせる為にこそ活用すべきであり、それこそが憲法9条の平和的利用ではないかと思うのです。


南シナ海や東シナ海で繰り広げられている近隣国の軍事的挑発を封じ、平和を愛する国々の人々と憲法9条の理念を共有する発信の場として、ノーベル賞という舞台が活かされるのであれば、時宜に適った運動という意味で非常に意義深く、より多くの賛同者を得られるのではないでしょうか。


勿論、その時は私も、その中の一人に加わりたいと思います。


しかし、もしこの運動が、ただ日本に足かせをはめる目的で、憲法9条の戦争放棄だけを申請しようとする運動なら、これほど無責任で、日本を危機的状況に陥れる運動はないでしょう。


「現実を無視し理想だけを説く者は無責任であり、理想を持たず現実だけを語る者は無知である」と言わざるを得ませんが、残念ながら、この運動は、憲法9条の活用方法を一歩間違えれば、「羊の皮を被った狼」となる危険性を孕んでいるのです。


この運動に賛成する人の中には、憲法9条を「天の恵みだ」と言われるお方もいますが、憲法9条は、そのままでは「天恵」とはなり得ません。


「天恵」となる可能性を秘めている事は否定しませんが、憲法9条が人類にとって「天恵」となるのは、我々が「天恵」となるような真の活用方法を見出した時だけで、その為には、相互の信頼関係を謳った前文と言う基礎が欠かせません。


憲法9条を、国の存立を危うくする「悪魔の贈り物」にしようと思えば、それも可能です。


つまり、「天恵」にするも「悪魔の贈り物」にするも、ひとえに憲法9条を活用する私達の手にかかっているのです。


だからこそ、みんなで知恵を出し合って、「天恵」となるような活用方法を見出していかなければなりませんが、問題は「憲法9条のみをノーベル平和賞に申請する事が、果たして天恵となるような正しい活用方法なのか?」という事です。


残念ながら、鷹巣さんが目指す戦争の無い平和な世界の実現という趣旨には賛同出来ても、それを実現する方法論として、憲法9条のみを申請する事には大きな疑問を抱かざるを得ません。


「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(1)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(2)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(3)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(4)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(5)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(6)


高野山法徳寺Website

posted by カンロくん at 15:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題