2018年12月05日

心安らかに生きる為に(2)

◇豊かで幸せな人生を生きる権利◇


私たちの魂の故郷が極楽であり、その真の姿が仏の子であることが分かっても、すぐに四苦八苦の人生が消えて無くなる訳ではありません。


その証拠に、自分を取り巻く四苦八苦の状況は、まだ何も変わっていない筈です。


自分の正体が分かっただけで極楽へ帰れるなら、この世に苦しむ人は一人もいないでしょう。


自分の正体を知っても何も変わらないのであれば、何故、四苦八苦の人生を変えるには、自分の正体を知らなければいけないと言ったのか?


そうおっしゃる方もいるでしょうが、そう申し上げたのは、苦しみながら生きている今の姿は、決して私たちの本当の姿ではないことを知っていただきたかったからです。


世間には「自分は罪深い凡夫だから、苦しむのは仕方がない」と、最初から幸せになることを諦め、まるで苦しむために生まれてきたかのようにおっしゃるお方がいますが、苦しむために生まれてきた人間など一人もいません。


誰もが豊かで幸せな人生を生きる権利を有し、それを享受する為にこの世に生まれてきたのです。そして、その事を証明しているのが、私たちの正体が仏の子であるという事実なのです。


しかし、今の私たちは、仏の子として豊かで幸せな人生を生きる権利を有しているにも拘らず、様々な問題で悩み、苦しみ、些細なことに腹を立て、人を妬み、飽くなき欲望の追及に明け暮れるなど、とても仏の子とは思えない生き方をしています。


◇四苦八苦の原因―無知無明◇


何故、仏の子として豊かで幸せな人生を生きる権利を有している筈の私たちが、四苦八苦に翻弄されて生きなければならなくなったのでしょうか?


その原因を、お釈迦様は「無知無明(むちむみょう)」とおっしゃっておられます。


「無知」とは、文字通り智慧を失くした状態、「無明」とは、光(明かり)を失くした状態を指しますが、これを段階的に説いたのが、十二縁起(十二因縁)という教えです。


十二縁起(十二因縁)とは、仏の子であった私たちが、四苦八苦の人生に翻弄されるようになった原因を、「無明、行(ぎょう)、識(しき)、名色(みょうしき)、六処(ろくしょ)、触(そく)、受(じゅ)、愛(あい)、取(しゅ)、有(う)、生(しょう)、老死(ろうし)」の十二の段階に分けて説いたもので、これを見れば、最後に来る生老病死(四苦八苦)の原因が、無明から始まっていることが分かります。


十二縁起の中には、意味不明の言葉が並び、いかにも煩瑣で難しそうに見えますが、要するに、太陽に背を向ければ、目の前に自分の影しか見えなくなるように、魂の大御祖(おおみおや)であり、光そのものであるみ仏に背を向けてしまったために闇を作り、本来持っていた仏の光(悟りの智慧)を失くしてしまったことが、仏の子とは思えない生き方をしなければならなくなった根本原因なのです。


◇六道輪廻の廻り舞台◇


無知無明によって作り出される四苦八苦の人生を、大きく六つに分けたものが、六道(ろくどう)です。


六道とは、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道の六つの世界を指しますが、六道は、み仏(光)に背を向けた為に出現した自分の影(闇の世界)ですから、そこでは、自分以外に頼る者がいません。


その結果、必然的に欲望の充足だけが生きる目的となり、欲望を充足させるために、貪り、瞋り、妬みなど、様々な悪業を犯し、その報いを受けて四苦八苦と言われる様々な苦しみを受けなければならなくなったのです。


こうして、自らの手で六道の人生を作り苦しみ続けているのが、今の私たちですが、地獄道とは、あらゆる苦しみを味わう四苦八苦の極まった世界、餓鬼道とは、欲望の赴くままに、ありとあらゆるものを貪る欲しい惜しいの世界、畜生道とは、人を押しのけてでも自分の欲望を叶えようとする利己主義の世界、修羅道とは、欲望が満たされないために愚痴をこぼしたり、嫉妬の炎を燃やす世界を意味します。


六道の中でも、地獄道、餓鬼道、畜生の世界は、苦しみばかりの世界であるため、三悪道(さんなくどう)と呼ばれ、修羅道を加えて、四悪道(しあくどう)とも呼ばれています。


その上にはさらに、苦もあれば楽もある人間界と、楽ばかりで苦しみのない天上界がありますが、この二つの世界も、み仏に背を向けた為に出来た影の世界であることに変わりはなく、み仏に目を向けない限り、いつまでも欲望の充足に翻弄され続け、やがては四悪道の世界に堕ちていかなければなりません。


要するに、み仏に背を向けている限り、自分が作り出した六道の影は消滅せず、四苦八苦の人生は果てしなく続いていくのです。


菩薩様が、
 六つの道が 廻るから
   しあわせばかりと 思うなよ
   人生廻り 舞台なり

と詠っておられるように、六道は円の世界ですから、円の外に飛び出さない限り、終わりがなく、永遠に六道の人生を歩み続けなければなりません。


お釈迦様は、私たちが六道を作って生きる姿を、丸い輪の中を果てしなく廻り続ける鼠に譬えて、「六道輪廻(ろくどうりんね)」とおっしゃいましたが、昨日天上界に居たかと思えば、今日は地獄界、明日は畜生界というように、目まぐるしく住む世界が移り変わり、いつまで経っても心の安らぎが得られない姿は、まさに終わりなき六道輪廻の有様そのものと言っていいでしょう。


◇夢に譬えられる六道◇


六道の円の外に飛び出さない限り、四苦八苦の人生に終わりはないと申しましたが、六道は、み仏に背を向けたために出来た自分の影ですから、本来はどこにも存在しません。


つまり、本来どこにも存在しない影の世界を作って怯え、自らの手で自らの首を絞めているに過ぎないのです。まるで一人相撲をとっているようなものです。


この有様は、よく夢に譬えられます。


恐ろしい夢を見て、今にも襲われそうになる寸前、夢から目覚めて、ほっとした経験が、どなたにもあると思いますが、夢から目覚めれば、恐ろしい夢も、襲われそうになった夢も現実ではなかった事がすぐに分かります。


それと同じように、六道も、迷いの夢の中で作られた架空の世界に過ぎませんから、夢から目覚めさえすれば、一瞬にして消えてなくなり、そこにはもはや地獄も餓鬼も、畜生も天上界もありません。


しかし、夢を見続けている限り、本人には、実在する本物の世界としか思えませんから、幾ら迷いの夢の中で作られた架空の世界だと言われても、信じられないのです。


しかも、夢を見続けてきた期間が余りにも永いため、夢から目覚めるのは、そう簡単ではありません。


そこで、み仏は、何とか迷いの夢から目覚めさせたいと、あの手この手の方便を使って、私たちを目覚めさせようとして下さっているのです。


◇長者窮子の譬え◇


『法華経』というお経に、「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬え」と言われる話が出てきます。


ある日、村一番の長者の家に、一人の乞食が物乞いにやってきました。


長者が門の近くを通ると、人が言い争っている声がするので何事かと思い行ってみると、雇人が、物乞いにきた乞食を追い払おうとしているところでした。


長者が「どうしたのかね」と聞くと、「仕事の邪魔になるから、あちらへ行けと言っても、なかなか云うことを聞かないので、追い払おうとしていたところです」と言うので、その乞食をよく見ると、見覚えのある顔をしていました。


それもその筈です。その乞食は、幼くして行方知れずになっていた長者の息子だったのです。


息子の方は幼くして父と別れた為、よく覚えていませんが、長者はすぐにわが子と見抜き、親子の名乗りをしようとします。


しかし、乞食に身をやつしている息子は、「自分が、こんな立派なお屋敷の息子である筈がない。うまい事を言って私を家に引き入れ、物乞いに来た事を責めるつもりに違いない」と思い込み、中々長者の言う事を信じようとしません。


今の自分の身の上を考えれば、信じられないのも無理はありません。そこで長者は、一計を案じる事にしました。


「生活に困窮しているようだから、お前さえよければ、この屋敷で働いてみないかね。住む所も食べるものも与えよう」


そう言って引き留めると、息子は、「それは願ってもない事です。雇っていただけるなら、喜んで働かせて頂きます」と言って、長者の家で働く事になったのです。


やがて長者の家の生活にも馴れ、長者の片腕と言われるまでになった息子を見て、長者は改めて親子の名乗りをすることにしました。


息子の方も、ようやくこの家が自分の生まれ故郷であったことを思い出し、無事に長者の財産を相続する事が出来たというのが、長者窮子の譬えですが、この話に出てくる長者は、極楽で私たちの帰りを待っていて下さるみ仏を現し、乞食は、六道をさまよう今の私たちを現しています。


◇灯台下暗し◇


私たちも、長者の息子と同様、本来は仏の子であるにも拘らず、無知無明の心によって迷いの夢を見るようになり、自分の本当の姿を見失って、有りもしない六道の世界を作り、輪廻するようになったのです。


それ以来、自分の正体を知らぬまま、六道輪廻を繰り返してきたのですが、余りにも迷いの夢が長く続いたため、自分の本当の姿を忘れ、すっかり迷い多き凡夫だと思い込んでいるのです。


そんな私たちに、いきなり「お前は仏の子だ」と言われても、簡単に信じられるものではありません。


そこで、み仏は、まず私たちの欲を利用して信仰の道に導かんがため、「こちらの仏様を信仰すれば、こんな御利益を頂けますよ。あちらの仏様には、病気を治すお力がありますよ。子供も授かりますよ。商売も繁盛しますよ。色々な願い事を叶えてもらえますよ」と、あの手この手の方便を駆使して、仏の子であった頃の事を思い出させようとしておられるのです。


長者の息子が自分の本当の正体に目覚めるまで、長者の屋敷で召使として働いたように、み仏も、私たちが少しずつ自分の本当の姿を思い出せるよう、まず信仰の門に導き、目覚める機会を待っていて下さるのです。


私たちは、本来仏の子であり、御利益を求めなくても、すでに身に余るあらゆるご利益をいただいているのですが、自分の正体を忘れている為、中々そのことに気付かないのです。まさに「灯台下暗し」です。


仏教では、六道の夢を見て迷っている姿を凡夫と言い、夢から目覚めた姿を仏(覚者)と言いますが、殆どの人は、迷いの夢を見ている期間が余りにも長いため、自分の事を、すっかり罪深い凡夫だと思い込んでいます。


しかし、生まれつきの凡夫など一人もいません。


もし生まれつきの凡夫なら、仏になることは出来ませんし、いくらみ仏にすがっても極楽へは帰れません。元々仏の子だからこそ、仏になれるし、極楽へも帰れるのです。


乞食に身をやつした長者の子が、父親の財産を相続できたのは、元々長者の息子だったからです。


梅はどんなに頑張っても桜にはなれません。梅は梅にしかなれません。桜になれるのは、元々桜だからです。


それと同様、正真正銘の凡夫であれば、絶対に仏にはなれません。


本来仏の子であるにも拘らず、迷いの夢を見ているだけだからこそ、迷いの夢から目覚めれば、いつでも仏の子である元の自分に戻れるし、目覚めたその場所が極楽になるのです。


合掌



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高野山法徳寺Website「救いの扉」

posted by カンロくん at 11:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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