2019年01月14日

心安らかに生きる為に(6)

◇法徳寺の豆撒きー「福は内、鬼も内」◇


毎年二月三日の節分には、どこの家でも豆まきをしますが、古来豆撒きは、その年の縁起の良い方角(恵方)に向かって「福は内」と連呼しながら豆を撒き、次に恵方に背を向けて「鬼は外」と唱えながら豆を撒くのが習わしです。


しかし、法徳寺では、「福は内、鬼は外」ではなく、菩薩様の教えにより、「福は内、鬼も内」と唱えながら豆を撒くのが恒例となっています。


何故「福は内、鬼も内」なのか?理由は二つあります。


一つは、鬼も衆生の一人だからです。


衆生済度をしなければならない使命のある法徳寺にとって、救われなくてもよい衆生は一人もいません。


たとえ相手が鬼であっても悪魔であっても、法徳寺に救いを求めてくる者は、すべて救われなければならない衆生の一人です。鬼だ、悪魔だと言って分け隔てしていては、衆生済度の使命は果たせません。


それどころか、一刻も早く鬼や悪魔と呼ばれる身分から救われたいと願い、救いを求める心が誰よりも強いのが、鬼たちなのです。


お大師様が、
 虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば
  わが願いも 尽きなん
というお誓いを立てて御入定されたことは、先にお話しましたが、鬼も悪魔も衆生の一人ですから、鬼を追い出していては、お大師様の御誓願も成就いたしません。


菩薩様は常々、「鬼も悪魔も衆生の一人だから、分け隔てなくお寺に招き、仏法を施して、救ってあげなければいけない」とおっしゃっておられましたが、「福は内、鬼も内」の掛け声は、まさに菩薩様の深い慈悲心の現れと申せましょう。


◇吉凶禍福は表裏一体◇


二つ目は、先にも述べたように、都合のよい福の神(仏)と、不都合な疫病神(鬼、悪魔)は姉妹であり、一心同体だということです。


一体ですから、不都合な黒闇天を追い出せば、好都合な吉祥天も一緒に出て行ってしまいます。


吉も凶も禍も福も、仏も鬼も、生も死も、すべて表裏一体の関係にある以上、吉祥天を招きたければ、吉祥天の妹である黒闇天も一緒に招かなければなりません。福の神だけを招き入れる事は出来ないのです。


おめでたい吉だけを招きたいと思っても、吉の裏には、必ず凶が付いています。


吉は有り難いが、凶は嫌だというのが、世間一般の常識的な考え方でしょうが、吉も凶も分け隔てなく受け入れる心にならなければ、福の神を招くことは来ません。


凶と正反対の福が、本当の福ではなく、吉を招き、凶を遠ざけようとする分別心を超えたところに本当の福があるのです。


◇良寛さんのお悟り◇


良寛さんが、次のようにおっしゃっています。


災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候


「災難に遭わなければいけない時には、災難に遭いなさい。死ななければいけない時には、素直に死んでいきなさい。それが災難を逃れる不可思議な教えですよ」という意味ですが、良寛さんとて、災難に遭いたくはないでしょうし、死にたくはない筈です。


にも拘わらず、あえて災難や死を在るがまま受け入れなさいとおっしゃったのには、深い意味があります。


原因があれば、必ず結果となって現れます。いくら不都合なことであっても、それもまた自分が過去に作った縁起の結果ですから、不都合なことだけを避けたり逃げているだけでは、問題は何も解決しません。


不都合なことから目を背けるのではなく、先ず在るがまま受け入れ、不都合な因縁の裏に隠されている福の神の存在を知り、不都合な因縁を好都合な因縁に変えていくことが大切なのです。


そうすれば、自分の立っている場所が、不都合な地獄から、好都合な極楽に変わります。


◇味方につけるか、敵に回すか◇


誰もが福の神である吉祥天を味方につけようとしますが、吉祥天を味方につけたければ、一心同体の黒闇天も共に受け入れなければなりません。黒闇天を受け入れなければ、吉祥天を味方にすることも出来ません。


要するに、不都合な黒闇天を味方につけるか、敵に回すかです。


敵に回すということは、不都合な黒闇天を拒絶するということです。「不都合なあなたを受け入れることは出来ません。私にとって、あなたは敵です」と言っているのと同じです。


味方につけるということは、不都合な黒闇天を受け入れるということです。


「あなたを受け入れます。あなたは私の仲間です」と言われれば、災いをもたらそうとしている黒闇天の出る幕がありません。


誰からも嫌われている黒闇天を敵に回すより、味方に付けた方が得策なのです。黒闇天を味方につければ、吉祥天を味方につけることが出来ます。と言うより、味方につければ、黒闇天が吉祥天に変わるのです。


但し、都合の悪い黒闇天を受け入れると言っても、嫌々受け入れたのでは、受け入れたことになりません。


受け入れる以上は、納得して、感謝の気持ちで受け入れなければなりません。


「災難が来てもこれで好し。お迎えが来てもこれで好し。どんな不都合なことに遭遇してもこれで好し」と頷けるようになって初めて、良寛さんがおっしゃるように、一切を在るがまま感謝して受け入れられるようになり、そこに自ずと災難から逃れられる道理が具わってくるのです。


◇生死の中に仏あれば生死なし◇


曹洞宗の開祖、道元禅師が、次のように説いておられます。


生死の中に仏あれば生死なし。ただ生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべくもなく、涅槃としてねがうべきもなし。この時初めて生死を離るる分あり


「生死」を「地獄」と言い換えてみて下さい。


地獄の中に仏あれば地獄なし。ただ地獄即ち極楽と心得て、地獄として厭うべくもなく、極楽としてねがうべきもなし。この時初めて地獄を離るる分あり


誰も地獄へは行きたくないし、みんな極楽へ往きたいのです。でも、どうしても地獄へ行かなければいけなくなった時、皆さんはどうしますか?


「地獄でも何処でも行きましょう」という心にならなければ、本当の極楽には往けません。


つまり、極楽は好いが地獄は嫌だという分別心を捨てなければ、本当の極楽は見えてこないのです。


合掌


心安らかに生きる為に(1)
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高野山法徳寺Website「救いの扉」

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2019年01月08日

心安らかに生きる為に(5)

◇分別心を離れよー吉祥天と黒闇天


二つ目の修行は、分別心を離れる修行です。分別心についても、こんな面白い話があります。


或る日、一軒の家に、美しい女性が訪ねてきたので、家人が「どなたですか?」と尋ねると、「私は吉祥天と言う福の神です。お宅に福を授けにまいりました」と言ったので、家人は大喜びし、「それは有り難いことです。どうぞ中へお入りください」と言って、吉祥天を招き入れました。


すると、その後から、見すぼらしい姿をした女性が入って来ようとするので、「あなたはどなたですか?」と尋ねると、「私は黒闇天という疫病神です」と言ったので、家人は、「疫病神に入ってもらっては困ります。どうかすぐにお帰り下さい」と言って追い出そうとしました。


すると、黒闇天は大笑いして、「先ほど入っていった吉祥天は私の姉です。私たちは姉妹で、どこへ行くにもいつも一緒なのです。もし私を追い出せば、姉の吉祥天も出ていかなければなりません」と言って、黒闇天を追い出したら、折角入って下さった吉祥天も一緒に出て行かれたというのです。


何故この家人が黒闇天を家の中に迎えられなかったのかと言えば、疫病神は自分にとって不都合だという分別心が働いたからです。


人間は、好都合と不都合を分別して、福は好都合、災厄は不都合と色分けしますが、「吉凶禍福はあざなえる縄の如し」と言われるように、吉凶は、表裏一体ですから、吉祥天だけを招きたいと思っても、その裏には常に黒闇天が一緒に付いてくるのです。


もし福の神を招きたければ、妹の黒闇天も一緒に招く以外に道はありません。


◇維摩居士の病気見舞い◇


在家の身でありながらお釈迦様の弟子たちも太刀打ちできないほどの智慧を持つ在家の信者・維摩居士を主人公にした『維摩経』にも、分別心を離れることの大切さが説かれています。


或る日、維摩居士が病気になります。病気と言っても肉体の病気ではなく、苦しむ衆生を救わずにはいられない大悲の疾いなのですが、お釈迦様は、それを承知で、弟子たちに「誰か、維摩居士の病気見舞いに行ってくれませんか?」と尋ねました。


しかし、見舞いに行こうと申し出る弟子は一人もいません。何故なら、以前維摩居士から、修行の在り方や説法の内容について、やり込められた経験があるため、見舞いに行けば、また同じ目に逢うのではないかと思い、行きたくても行けないのです。


釈迦十大弟子の中で「智慧第一」と言われる舎利弗(しゃりほつ)は、悟りを開くには心を鎮めて瞑想するのが最も優れた修行だと信じていたので、座禅して静かに瞑想していると、そこへ維摩居士が通りかかり、「舎利弗さん、何をしているのですか?本当の坐禅とは、ただ一人座って瞑想する事ではありませんよ。本当の座禅は、日常生活の中にあるのですよ」と諭された経験があり、素直に「病気見舞いに行きます」とは答えられないのです。


また「論議第一」と言われた迦栴廷(かせんねん)や、その他の弟子たちも、舎利弗と同様、維摩居士にやり込められた経験があるため、「そのようなお方のお見舞いはとても荷が重すぎます」と言って、みんな病気見舞いに行こうとしません。


そこで、お釈迦様は、文殊菩薩を名代として見舞いに行かせることにしたのですが、文殊菩薩が訪ねていくと、維摩居士は、「文殊菩薩、よく来てくれました。去るものにも来るものにも執着することなく、また見るものにこだわることなく、在るがままを観ずる不動の境地におられる文殊菩薩に来ていただいて、有り難く思います」と言って、礼を言います。


文殊菩薩が、「丁重にお見舞いするようにというお釈迦様の心遣いを伝えるため、私が代表してお見舞いにまいりました。ところで、居士の病の原因は何ですか?」と尋ねると、維摩居士は、「愚痴により道に迷い、愛着のために病は生じます。世間の人々が執着のために道に迷い、病んでいるために私も病むのです。人々の病が消滅すれば、私の病も消滅します。菩薩道を歩む者は、人々をこの愚痴から救い出すために生死の輪廻の世界へ生まれてきました。生や死にこだわれば病になります。人々が生死の病から離れることができれば、菩薩もまた病を離れられます。子供が病気になれば、両親も病むようなものです。その病気の原因は何かと言われれば、菩薩道を歩む者の病とは、大悲のもたらすものです」と答えるのですが、維摩居士はここで、「病気の原因は二つある」と言っています。


一つは、煩悩から来る分別と執着(愛着)、もう一つは、衆生を救いたいという大慈悲心で、菩薩は、衆生を救わずにはいられないという大慈悲心に病むのですが、代苦者となられた菩薩様も、同じ境地を詠まれた道歌をいくつも残しておられます。

 代苦者と なりて衆生の苦を背負う
    これぞ菩薩の 悲願なりけり
 衆苦をば 背負う病の身なれど
    己が心を 知る人ぞなし
 人思い 汝が疾めばわれも疾む
    われ疾むゆえに 汝疾むなり


◇舎利弗尊者と花びら◇


この後、舎利弗尊者が、凡夫の病の原因である煩悩(分別と執着)について天女に諭されますが、六道(迷いの世界)の中の天上界に住む天女は、お釈迦様の弟子の中の最高位である阿羅漢となった舎利弗よりも低い位にいますから、本来なら、上の位にいる舎利弗が天女から諭される筈がありません。


ところが、天女は仮の姿で、本当の正体は、人々を救う為に姿を変えた菩薩なので、阿羅漢に過ぎない舎利弗は、天女の前にたじたじとなってしまいます。


この菩薩は、いつでも維摩居士の教えが聞けるようにと、以前から天女に姿を変えて維摩居士の家に住み着いていたのですが、文殊菩薩と維摩居士の問答を聞いて感動し、天空から蓮の花びらを撒いたのです。


ところが、この時、不思議な事が起こります。


撒かれた花びらは、文殊菩薩や維摩居士の体には一枚も付着せず、そのまま地面に落ちていくのに、舎利弗をはじめとするお釈迦様の弟子たちには、体に付着して離れないのです。


文殊菩薩や維摩居士に付着しなかった花びらが、自分たちの体に付着し、どんどん増えていくため、舎利弗たちは花びらを振り落とそうと焦り始めます。その光景を見ていた天女が、笑いながらこう尋ねるのです。


 天女─舎利弗尊者、いかがなさいましたか?
 舎利弗─いや、この花びらがくっついて離れないのです。
天女─なぜ、花びらを振り落とそうとなさるのですか?
 舎利弗─出家者に花びらは相応しくありません。出家者は身を飾ってはいけないのです。
 天女─舎利弗尊者、それはおかしいですね。
 舎利弗─なぜですか。出家者は身を飾らぬのが戒律です。
 天女─舎利弗尊者、この花びらは花びらに見えますが、真理そのものなのです。飾りではありません。
 舎利弗─この花びらが真理そのもの?
 天女─そうです。この花びらは真理そのものです。花びらは、あなたにくっつこうなどとは考えていません。ただ在るように在るだけです
 舎利弗尊者、あなたの方が「この花びらは出家者に相応しいか相応しくないか」などと分別をしているだけなのです。
 あなたたちが、勝手に良し悪しを判断しているから、花びらがくっつくのです。
 ただ在るがままに在るだけの世界を勝手に判断し、勝手に分類し区別することを、分別といいます。
 分別は妄想です。したがって、分別は真理から外れた行為です。そんな分別は捨てるべきです。見てごらんなさい。分別を捨て去った菩薩には花びらはつきませんよ。
 花びらだけではありません。恐怖は、ありもしない不安を抱えている人につくものであり、苦しみを恐れる人ほど快楽におぼれます。
 分別から離れれば、美しいも醜いもなく、恐怖も安心もなく、苦も快楽もなく、おいしいもまずいもありません。すべては平等です。
 すべてを受け入れられれば、何の禍も恐怖もありません。
 この花びらは、物事を在るがままに見られず、分別し、執着する人にくっつき離れないのです。
 分別を去り、在るがままに物事を見ることができる人には、くっつかないのです。


◇欲も苦もなく我もなく◇


こう言って天女に姿を変えた菩薩は、あれこれと分別している舎利弗を諭し、分別や執着から離れる事の大切さを説いたのですが、分別するという事は、自分の立場から好都合と不都合を区別し、好ましくないものを否定し排除することです。


それに対し、悟りの世界は、在るがままの世界ですから、あれが良い、これが悪いというような分別が一切ありません。


そこにあるのは、苦もなければ楽もなく、生もなければ死もなく、一切を超越した世界です。


菩薩様が、
 生死なく 欲も苦もなく我もなく
   無常悟れば 涅槃に帰る
と詠っておられるように、分別を離れた世界には、一切の執着がありませんから、病んでいても、どんな不都合な状況にあっても、そのままが極楽の世界となるのです。


合掌


心安らかに生きる為に(1)
心安らかい生きる為に(2)
心安らかに生きる為に(3)
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心安らかに生きる為に(7)

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2019年01月01日

新年明けましておめでとうございます!

新年明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。
平成最後の元旦となりましたが、快晴に恵まれ、美しい初日の出を拝むことが出来ました。
今年も平穏な一年でありますことをご祈念申し上げます。


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我が家の素朴な、昔ながらのおせち料理です。
最近はおせち料理も高級志向だそうですが、おせち料理は、素朴さが一番です。


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posted by カンロくん at 09:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記