2018年12月29日

正月用の鏡餅づくり!

12月29日は、法徳寺恒例の鏡餅づくりの日です。
朝から、「もちっこ」二台がフル稼働、孤軍奮闘しています。
搗き終わった餅を丸めるのは、手作業です。
これで新年を迎える準備が整いました。


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「何故、9(苦)の付く29日に御餅つきをするのか、「苦餅」になるじゃないか、縁起でもない?」
そう思われたお方もおられるでしょうが、本当に縁起が悪いんでしょうか?
そうとは言い切れませんよ。(^-^)
http://www.takanoyama-houtokuji.com/6,houwa/houwa/105.html


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北海道や東北、日本海側は今年最強の寒波到来で、大雪に見舞われていますが、帰省の皆さまは、くれぐれも事故などのないよう、お気を付けてお帰り下さい。
山梨は今のところ雪もなく、穏やかな快晴の空が広がっています。


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これが今年最後のブログ更新となります。
一年間、ありがとうございました。来年も宜しくお願い申し上げます。
来たる年が皆様にとって、より良き年となりますよう、ご祈念申し上げます。


合掌

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2018年12月28日

心安らかに生きる為に(4)

◇億劫にも遇い難きは仏法なり◇


人間界に生まれた者は、みな同じスタートラインに立っていると申しましたが、だからといって、誰もがみな一斉に極楽へスタート出来る訳ではありません。


同じスタートラインに立てても、スタート出来ない人が、実は大勢いるのです。


お釈迦様が「縁なき衆生は度し難し」と喝破しておられるように、先ず仏縁のないお方はスタート出来ません。何故なら、極楽へ帰る道が分からないからです。


極楽へ帰る為には、人間の身を与えられるだけではなく、極楽へ帰る指南書ともいうべき仏法にご縁をいただかなければならないのです。


人の身を与えられ、更に仏法という指南書に遇わせていただかなければ、自分の正体が仏の子であることも、魂の故郷が極楽であることも、人の身を与えられたことの有り難さも、極楽へ帰る上で欠かせない菩提心を起こすことの大切さも分かりません。


これが、「億劫にも遇い難きは仏法なり」と言われる所以です。


いま皆様は、億劫にも遇い難き仏法に遇われたお陰で、自分の正体が仏の子であることも、魂の故郷が極楽であることも知ることが出来ましたが、世の中には、まだその事実をご存じない方が大勢おられます。


折角、極楽へ帰れる人の身を与えられておりながら、人間に生まれた有り難さも知らずに、無常の荒波に押し流されていく人々が大勢いるのです。


それに対し、私たちは、仏法に遇わせて頂いたお陰で、いよいよ極楽目指してスタートする千載一遇の好機に巡り合えたのです。


スタートするという事は、乞食に身をやつした長者の息子が、自分の姿に目覚めるまで長者の家の雇用人として働いたように、自分が極楽に居た時の事を思い出す為の訓練(修行)に入ることを意味します。


修行ですから易しくはありませんが、難しく考える必要もありません。二つの事を心に刻んで、励んでいただきたいと思います。


◇合掌の意味◇


そのお話をする前に、修行中に結ぶ合掌印の意味についてお話したいと思います。


古歌に、
 右ほとけ 左われと合わす手の
   内にゆかしき 南無の一声
と詠われているように、合掌の右手は親様であるみ仏を、左手は仏の子である私たちを現しています。


合掌印は、み仏と私たちが、目と目を合わせて相互に拝み合っている極楽の有様を、形に現したものと言っていいでしょう。


修行中、常に合掌印を目の前で結びながら、み仏を拝むのは、合掌印を見ながら、極楽での姿を心(心眼)の奥底に強く焼き付ける為です。


残念ながら、今の私たちは、親様(光)に背を向けた状態で、六道輪廻の人生をさまよっています。これを両手で現わせば、右手の掌と左手の甲を合わせた形となり、合掌にはなりません。


つまり、もう一度、内側に向いた左手の甲を外側に向け、右手と左手の掌を合わせた合掌印に戻し、親様に目を向けなければならないのです。


これによって、極楽で暮らしていた私たちの本来の姿に戻ることが出来るのですが、その為には、これからお話しする二つの修行が欠かせません。


◇忘れてはならない菩提心◇


一つ目の修行は、菩提心の実践です。この菩提心について、お大師様は、四種の菩提心を挙げておられます。


第一は信心です。この信心は、菩薩様が、「み仏はただ信じるのではなく、信じ切らなければならない」とおっしゃっておられる信心で、どんな事があっても崩れない不動の信心(不動心)でなければなりません。


例えば、自分にとって不都合な事が起きた時、み仏を疑ったり、信仰を捨てるような信心は、不動の信心とは言えません。そのような半信半疑の信心ではなく、どんな不都合な出来事に遭遇しても、揺れ動かない信心です。


第二は大慈悲心です。これは、自分より先に他の人を極楽(彼岸)へ渡してあげようという心で、別名「行願心(ぎょうがんしん)」とも言います


道元禅師が、「菩提心を起こすというは、己れ未だ渡らざる先に、一切衆生を渡さんと発願し営むなり。たとえ在家にもあれ、たとえ出家にもあれ、或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも、楽にありというとも、早く自未得度先度佗の心を起こすべし」と説いておられる菩提心が、この大慈悲心です。


彼岸へ渡る時は、誰よりも早く行きたいのが人情です。しかし、全員がその心を起こせば、争いが起こり、誰も彼岸へ渡れなくなります。


狭い出口に大勢の人が先を争って殺到すれば、狭い通路はすし詰め状態となり、誰も出られなくなるのと同じように、早く彼岸へ渡りたければ、まず他の人を先に渡してあげようという心を、お互いが起こさなければなりません。この譲り合いの精神を忘れていては、極楽へは帰れません。


第三は勝義心(しょうぎしん)です。文字通り、劣った教えを捨てて、正しい教えに帰依する心で、別名「深般若心(じんはんにゃしん)」とも言います。


例えば、オウム真理教のように、殺す事がその人を救う事だと信じ込ませ、救う為には人を殺しても構わないと説く教えや、イスラム過激派組織ISIL(イスラム国)のように、神の名の下に無差別テロを正当化する教えには絶対に帰依してはならないと知る心が、勝義心です。


最後が大菩提心で、悟りを得て一日も早く極楽に戻り、一人でも多くの人を救いたいと深く念じ、実践する心です。


六度目の挑戦でようやく日本に渡航された鑑真和尚や、命がけで海を渡り、唐から真言密教を伝えられたお大師様の命がけの求道心は、まさにこの大菩提心の実践と言えましょう。


◇地獄と極楽の食事風景◇


この菩提心に関して、面白い話があります。


或る人が、地獄と極楽の食事風景を見に行ったところ、地獄では、みんな食卓を挟んで争ったり、罵り合ったりしているので、「どうしたのだろう?」と不思議に思って見ると、一メートルもある長い箸を使って、自分の目の前にあるお皿の食べ物を挟んで食べようとしていました。


しかし、箸が長すぎてうまくつかめないため、腹を立てて言い争ったり罵り合ったりしていたのです。


次に、極楽へ行ってみると、食卓の上には、地獄と同じように、美味しそうな食事と一メートルもある長い箸が置かれていました。


ところが、地獄とは違い、みんなニコニコ笑いながら、楽しそうに食事をしているのです。


よく見ると、極楽の人々は、その箸を使って、自分の前に座っている人のお皿の食べ物を挟んで、前の人の口に入れてあげていたのです。


その箸は、目の前に座っている人に食べさせてあげるのに、ちょうど良い長さのお箸だったのですが、地獄にいる人々は、菩提心を忘れて地獄へ堕ちたため、相手の為に使うことを知らなかったのです。


それに対し、極楽の人々は、相手の身になって考える菩提心を起こして極楽へ往けた人たちだったので、誰もが、長い箸は、相手の為に使うものだということを知っていたのです。


つまり、地獄と極楽を分けていたのは、同じ一メートルの箸を誰の為に使うか、何の為に使うか、菩提心を起こせるか否かという、たったそれだけの違いだったのです。


◇蜘蛛の糸◇


芥川龍之介の『蜘蛛の糸』という短編小説にも、菩提心に関する面白い話が書かれています。


或る時、極楽の蓮池のほとりを歩いておられたお釈迦様が、蓮の葉の間から地獄の有様をご覧になったところ、地獄の底でカンダタという男がもがき苦しんでいる姿が見えました。


カンダタは、様々な罪を犯して地獄へ堕ちた極悪人でしたが、お釈迦様がカンダタの生涯を見ると、一つだけ善い事をしていました。道端をはってゆく小さな蜘蛛の命を助けた事があったのです。


そこで、お釈迦様は、その功徳に免じて地獄から助けてあげようと、蜘蛛の糸をカンダタの頭上に下ろされました。


カンダタがふと上を見上げると、極楽から、銀色に輝く蜘蛛の糸がスルスルと下りてきたので、カンダタは、「有り難い。この糸を上っていけば極楽へ行ける」と思い、その糸を上り始めました。


ところが、途中まで来たところでふと下を見ると、地獄へ堕ちた大勢の亡者たちが、カンダタの後から次々と上ってくる姿が見えました。


それを見たカンダタは、「この蜘蛛の糸は俺のものだ。誰の許しを得て上ってくるのだ。みんな早く下りろ」と叫びながら、すぐ下の男の頭を蹴飛ばしたのです。


すると、その蜘蛛の糸は、カンダタの手元からプツリと切れ、カンダタも亡者たちも、蜘蛛の糸もろとも地獄の底へ真ッ逆さまに堕ちていきました。


お釈迦様は、その一部始終をご覧になられ、自分の事しか考えないカンダタの心根を哀れに思われたのですが、カンダタの一挙手一投足を見ていると、自分を救えるのも、自分を不幸にするのも、自分しかいないことがよく分かります。


自分が不幸になるのは、親のせいだ、子供のせいだ、誰々のせいだ、社会のせいだと言って、不幸の責任を自分以外の何かに転嫁している人をよく見かけますが、自分以外に自分を不幸に出来る人など一人もいません。


自分を救える者は自分しかいないからこそ、自分を救う菩提心を、いついかなる時も忘れてはならないのです。


◇蜘蛛の糸の正体◇


この短編小説を読んで、「何故あんなに大勢の人が上っても切れなかった蜘蛛の糸が、男の頭を蹴ったくらいで切れたのだろう?」と、不思議に思われたお方もいると思いますが、蜘蛛の糸の正体が分かれば、切れた理由が分かります。


お釈迦様が垂らされた、カンダタを極楽へ導く蜘蛛の糸の正体は、蜘蛛の命を救ったカンダタの菩提心だったです。


「この蜘蛛の糸が、お前を極楽へ導く菩提心だよ。さあ、この菩提心の糸を離さずに、極楽へ上ってきなさい」


ただの細い蜘蛛の糸であれば、すぐに切れてしまいますが、カンダタが上ってきた蜘蛛の糸は、カンダタの菩提心を象徴する蜘蛛の糸ですから、カンダタが菩提心を捨てない限り、幾ら細くても絶対に切れません。


ところが、自分の後から次々と上ってくる大勢の亡者を見た途端、カンダタは、自分さえ助かればいいという浅ましい心を起こし、菩提心を捨ててしまったのです。


切れたのは、ただの蜘蛛の糸ではなく、蜘蛛の糸に象徴されているカンダタの菩提心です。


カンダタは、菩提心によって、かろうじて極楽へつながっていただけですから、その菩提心が切れれば、菩提心を象徴する蜘蛛の糸が切れて地獄へ堕ちてゆくのは当たり前です。


表面的に見れば、蜘蛛の糸がカンダタの手元で切れたように見えますが、正確に言えば、切れたのではなく、カンダタが自ら切ったのです。


菩提心を起こすも捨てるもすべて、カンダタ自身の胸三寸にかかっていますから、カンダタ以外に、カンダタの菩提心を切れる者はいません。


もしカンダタに、自分と同じように地獄へ堕ちた人たちを少しでも憐れむ心があれば、「みんなも一緒に極楽へ往こう」と言えた筈であり、そうすればカンダタも他の亡者たちもみんな救われたのです。


この蜘蛛の糸は、幾ら細くても、菩提心を失くさない限り絶対に切れませんが、同時に、菩提心を失くせば、一瞬にして切れるもろい糸でもあります。


カンダタが再び地獄へ堕ちて行ったのは、自分さえ極楽へ行けたらいいという心を起こし、菩提心である蜘蛛の糸を自ら切ってしまったからです。


自分の幸せだけを考えていては、救われないことがよく分かります。他人のことを思える菩提心が、自らを救い、その心が極楽へ通じる蜘蛛の糸となるのです。お互いが支え合い、助け合っていかなければ、誰も幸せにはなれません。


そして、その当たり前のことを教えてくれているのが、先ほどお話した極楽の食事風景です。


極楽には、長い箸を使って、お互いに食べさせ合える心の持ち主しか帰れません。


菩提心を起こし、限りある人生を、みんなで支え合い、助け合って生きて行くことの出来る人だけが極楽へ帰れるのです。


合掌



心安らかに生きる為に(1)
心安らかい生きる為に(2)
心安らかに生きる為に(3)
心安らかに生きる為に(4)
心安らかに生きる為に(5)
心安らかに生きる為に(6)
心安らかに生きる為に(7)

高野山法徳寺Website「救いの扉」

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2018年12月21日

平成最後の納め大師!

今日は今年最後の納め大師ですが、平成の御代は、来年4月30日で幕を閉じますので、今日は平成最後の納め大師でもあります。
平成の30年間を振り返ると、本当に激動の時代でした。
特に天変地異の多さが心に強く残っています。それだけに、新しい御代は、平穏な世の中であってほしいと祈らずにはいられません。
法縁の皆様には、一年に亘りお帰りいただき、有り難うございました。
また来年もお揃いでお帰り下さいますよう、お待ちしております。
来たる年が、皆様にとって幸多き年でありますよう、ご祈念申し上げます。


合掌


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2018年12月20日

心安らかに生きる為に(3)

◇極楽と地獄の在り処◇


六道と極楽を全く別のものと見ている人は、「何故、目覚めた場所が極楽になるのか、何故そんな不思議なことが起こるのか?」と疑問に思うかも知れませんが、六道は、私たちが無知無明の心によって作り出した架空の世界ですから、極楽に居る私たちを離れては存在しません。つまり、六道も、極楽の中にあるのです。


或る浄土経典によれば、極楽は、苦しみ多きこの世界から十万億土も離れた彼方にあると説かれていますが、十万億土彼方とは、仏様がおられる世界を一仏国土として、十万億の仏国土を越えた彼方という意味です。


この教えをそのまま信じれば、極楽は、宇宙の果ての果てまで行かなければ存在しないことになりますが、そんな宇宙の果てまで行く必要はありません。


何故なら、今もお話したように、極楽に居る私たちが、み仏に背を向けて六道を作っているに過ぎず、み仏に目を向けさえすれば、いつでも六道は消えて無くなり、元の極楽が現れるからです。


私たちは、今まで一度も極楽から出たことはありませんし、これからも極楽を出る事は決してありません。


◇生死の中の善生◇


六道輪廻の夢から目覚めさえすれば、誰でも極楽へ戻れることが、これでお分かり頂けたと思いますが、一つ忘れてはいけないことがあります。


それは、六道の中で極楽へ帰れるのは、人間だけだということです。人間の身を与えられた今しか、極楽へは帰れないのです。


『涅槃経』に、「一切衆生悉有仏性」と説かれていますが、一切衆生とは、人間を含めたあらゆる生きとし生けるものを指します。


ですから、六道から目覚める機会は、生きとし生けるものすべてに平等に与えられているように見えますが、実際に六道の夢から目覚めるチャンスがあるのは、人間だけなのです。何故なら、極楽へ帰る上で欠かせない菩提心を起こせるのは、人間界だけだからです。


前にも述べたように、人間界より下にある地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪道は、苦しみばかりの世界である為、菩提心(信仰心)を起こすことが出来ません。


例えば、私たちの周囲にいる犬や猫をはじめとする様々な生き物たちが合掌して、苦しむ人々を救いたいと祈り、神仏を拝んでいる姿を見たことがあるでしょうか?


畜生界に生まれた犬や猫たちは、自分の本当の正体はおろか、極楽という世界があることさえ知りません。勿論、迷いの夢から目覚めたいという心を起こす事もありませんし、信仰心もありません。ただ毎日、寿命が尽きるまで、食欲、性欲、睡眠欲の赴くままに生きているだけです。


では人間界より上にある天上界はどうかといいますと、天上界は、逆に苦しみがないため、苦しみから救われたいという心(菩提心)を起こすことが出来ないのです。


二十八ある天上界の一番上にある世界を有頂天(うちょうてん)と言いますが、何もかも思い通りにいって天狗になっている人のことを「有頂天になっている」と言うように、有頂天に居ると、自分の思い通りになって満足しているため、救いを求めようとする心が起こせないのです。


「平家に非ざれば人にあらず」と豪語した平清盛も、「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば」と喝破し、栄耀栄華を極めた藤原道長も、百姓の息子から天下人にまで上り詰めた豊臣秀吉も、みな有頂天にいた人たちです。


勿論、天上界も、迷い(四苦八苦)の世界の一つに過ぎませんから、やがて思い通りにいかなくなる時が必ず来ます。


平家一族も藤原道長も豊臣秀吉もみな、有頂天の絶頂期から、瞬く間に地獄のどん底へ堕ちていったことは、歴史が示す通りです。


自分の思い通りに行っている時は、有頂天でいられても、思い通りに行かなくなると、たちまち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間の世界へ堕ちていかねばならないのが、明日をも知れぬ六道に生きる天上界の人々の悲しい姿なのです。


◇下天の内をくらぶれば◇


織田信長が桶狭間の合戦の出陣の前、自ら謡い舞った幸若舞『敦盛』に出てくる、
 人間五十年、下天(げてん)の内をくらぶれば夢幻の如くなり
   一度(ひとたび)生(しょう)を得て、滅せぬもののあるべきか
という一節の下天とは、二十八ある天上界の中でも一番下の、四天王が住む世界(四大王衆天)のことで、人間界の五十年も、下天の一日に過ぎず、まさに夢幻の如く儚いものであるという意味です。


因みに、下天の寿命は五百歳と云われ、人間界の九百万歳に相当しますが、最上位にある有頂天の寿命は、何と人間界の八万四千劫(362兆8800億歳)に相当すると云われています。


しかし、それほどの寿命であっても、死はいつか必ず訪れます。そして、死を前にした時、天上界の人々に現れる五つの兆しが、「天人五衰」と言われる衰退の兆候です。
 一、浄らかだった衣服が垢にまみれる
 二、かつて盛りであつた頭上の華が萎む
 三、両腋から汗が流れる
 四、身体から臭気を放つ
 五、本座に安住することを楽しまなくなる


幾ら天上界で甘い夢に酔いしれていても、必ず宴の終わる時が訪れ、再び地獄界や餓鬼界に堕ちていかなければならないのです。


だからこそ、一刻も早く六道の夢から目を覚まし、魂の故郷である極楽へ帰らなければならないのですが、一時の甘い夢に酔いしれて満足している天上界では、極楽を目指そうという菩提心を起こせません。


極楽に帰りたいと思えるのは、苦しみがあるからですが、天上界は、苦しみがないため、菩提心を起こせないのです。また四悪道は、逆に苦しみばかりの世界であるため、こちらも菩提心(信心)を起こす心の余裕がありません。


道元禅師が、「生死の中の善生、最勝の生なるべし」(人間界が、六道の中で最も勝れた世界である)と説いておられるのはその為で、苦もあれば楽もある人間界だけが、菩提心を起こすには最も勝れた世界なのです。


◇人間に生まれて最も幸せなこと◇


何を幸せと感じるかは人ぞれぞれで、百人百様の幸せがあると言っていいでしょう。


世の中を見れば、社会的成功を治め、立身出世が出来ることを人間の幸せと感じる人もいれば、社会的な地位や名誉を得て、人から尊敬されることが幸せだと感じる人もいます。そして、その願いを叶えるため、身を粉にして懸命に頑張っている人々が大勢いることも事実です。


しかし、立身出世が出来たり、地位や名誉が得られたり、人から尊敬されたり、或いは、美味しいものが食べられたり、立派な家屋敷に住めることが、人間にとって本当に幸せなのでしょうか?


確かに食欲、性欲、睡眠欲の赴くまま、生まれたままの姿で生きている野生の生き物たちに比べれば、私たちが、人間に生まれた者にしか得られない幸せを享受していることは間違いないでしょう。


しかし、人間に生まれた本当の幸せとは、六道輪廻の人生に終止符を打ち、自分の本当の姿に目覚めて、魂の故郷である極楽に帰るチャンスを与えられたことなのです。


真実の自分の姿に目覚め、魂の故郷である極楽へ帰らせていただける千載一遇の好機に巡り合わせていただけたことに勝る幸せなど、どこにもありません。


社会で成功する事も、地位や名誉を得ることも、人から尊敬されることも、勿論意味のあることでしょうが、魂の故郷である極楽へ帰らせて頂けることの幸せには、比べるべくもありません。


ましてや、この世の栄耀栄華を手に入れることなど、まぼろしの如き儚い夢に過ぎません。


一介の百姓の身分から天下人にまで上り詰めた豊臣秀吉は、地位も名誉も富も権力もすべて手に入れ、この世の栄耀栄華を極めた数少ない成功者の一人ですが、最後は、わが人生を振り返り、露の如き儚い人生だったとの寂しい辞世の句を残して旅立っていきました。

  露と落ち 露と消えにし 我が身かな
   浪花のことは 夢のまた夢


豊臣秀吉は、立身出世や地位や名誉や権力や富を得ることに人間の幸せを求め、生涯をかけてその全てを手に入れ、天上界の一番上にある有頂天にまで上り詰めたのです


しかし、願ったすべてを手に入れても抗えない死という現実を前にして、改めてわが人生を回顧し、自分が求めていた幸せとは何だったのかを自問自答して詠んだのが、この辞世の歌です。


この歌には、臨終の床で死という現実と向き合い、天下人であっても浪花の露と消えていかねばならない秀吉の哀しみが、よくにじみ出ています。


そんな秀吉と対照的なのが、お大師様です。お大師様は、御入定されるに当たり、

 虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば
   わが願いも 尽きなん

とのご誓願を立てられました。


御入定とは、法身をこの世に留めて、苦しむ人々の救世主として生き続けることですが、このご誓願には、常に苦しむ衆生と共に生きることを決意されたお大師様の深い慈悲心があふれています。


お大師様は、秀吉と違い、地位も名誉も富も権力も手に入れられた訳ではありません。にも拘らず、お大師様の御霊跡である紀州高野山や四国八十八ヶ所霊場には、いまなお大師様の救いを求めて、多くの人々がやってくるのです。


己が生涯を省みて儚き夢だったと嘆いて旅立った秀吉と、いまも多くの人々から救世主(生き仏)として慕われるお大師様の生き方の違いが、お二人の今を決定づけていることは間違いないでしょう。


◇万劫にも得難きは人身なり◇


人間界に生まれたという事は、魂の故郷である極楽へ帰るスタートラインに立った事を意味します。


しかし、「万劫(まんごう)にも得難きは人身なり」と説かれているように、極楽へ帰れる唯一のチャンスとも言うべき人間界に生まれてくることは、そう簡単なことではありません。


一劫(いっこう)とは、天女が地上に降りて来て、着ている薄い羽衣の袖で、四十里四方の大きな岩を百年に一度ずつ拭い、岩が擦り切れて無くなるのに要する期間、又は四十里四方の巨大なお城に芥子粒を満たし、百年に一度、天女が地上に降りて来て、その芥子粒を一粒だけ取り出し、お城に満たした芥子粒をすべて取り除くのに要する期間のことです。


一劫でさえそうなのですから、万劫ともなれば、もはや人間に生まれてくることは不可能と言っても過言ではないでしょう。まさに人間に生まれて来れたことは、あらゆるご利益を頂いた結果なのです。


そして、この地球上に、どれだけの生き物がいるのか知りませんが、極楽に帰れるのは、人間の身を与えられた私たちだけなのです。


つまり、人間の身を与えられた今生の内に、極楽に帰らせていただかなければ、チャンスはもう二度と巡ってこないかも知れないということであり、だからこそ、人間の身を与えられたこの千載一遇の好機を、決して逃してはならないのです。


合掌



心安らかに生きる為に(1)
心安らかい生きる為に(2)
心安らかに生きる為に(3)
心安らかに生きる為に(4)
心安らかに生きる為に(5)
心安らかに生きる為に(6)
心安らかに生きる為に(7)

高野山法徳寺Website「救いの扉」

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2018年12月16日

甲斐駒の雄姿!

今朝は氷点下5.6度まで下がりました。
甲斐駒の尾根も白雪に覆われています。
暖冬とは云われていますが、やはり寒いですね。


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2018年12月14日

初めての霜柱!

今朝はかなりの冷え込みでした。
ご覧のように、境内に出来た霜柱が、太陽の光を浴びて輝いていました。
綺麗ですね。でも、寒いです(笑)


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2018年12月12日

富士山の雄姿!

夕陽に映えて、薄っすらとピンク色に染まっています。
遠くから見ると綺麗ですが、この時期の富士山は、人を寄せ付けぬ厳しさを併せ持っています。


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2018年12月08日

境内の落ち葉掃除!

昨日の強風で、再び境内は落ち葉の山。
今日も、みんなで境内の落ち葉掃除です。


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綺麗になりました。


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2018年12月05日

心安らかに生きる為に(2)

◇豊かで幸せな人生を生きる権利◇


私たちの魂の故郷が極楽であり、その真の姿が仏の子であることが分かっても、すぐに四苦八苦の人生が消えて無くなる訳ではありません。


その証拠に、自分を取り巻く四苦八苦の状況は、まだ何も変わっていない筈です。


自分の正体が分かっただけで極楽へ帰れるなら、この世に苦しむ人は一人もいないでしょう。


自分の正体を知っても何も変わらないのであれば、何故、四苦八苦の人生を変えるには、自分の正体を知らなければいけないと言ったのか?


そうおっしゃる方もいるでしょうが、そう申し上げたのは、苦しみながら生きている今の姿は、決して私たちの本当の姿ではないことを知っていただきたかったからです。


世間には「自分は罪深い凡夫だから、苦しむのは仕方がない」と、最初から幸せになることを諦め、まるで苦しむために生まれてきたかのようにおっしゃるお方がいますが、苦しむために生まれてきた人間など一人もいません。


誰もが豊かで幸せな人生を生きる権利を有し、それを享受する為にこの世に生まれてきたのです。そして、その事を証明しているのが、私たちの正体が仏の子であるという事実なのです。


しかし、今の私たちは、仏の子として豊かで幸せな人生を生きる権利を有しているにも拘らず、様々な問題で悩み、苦しみ、些細なことに腹を立て、人を妬み、飽くなき欲望の追及に明け暮れるなど、とても仏の子とは思えない生き方をしています。


◇四苦八苦の原因―無知無明◇


何故、仏の子として豊かで幸せな人生を生きる権利を有している筈の私たちが、四苦八苦に翻弄されて生きなければならなくなったのでしょうか?


その原因を、お釈迦様は「無知無明(むちむみょう)」とおっしゃっておられます。


「無知」とは、文字通り智慧を失くした状態、「無明」とは、光(明かり)を失くした状態を指しますが、これを段階的に説いたのが、十二縁起(十二因縁)という教えです。


十二縁起(十二因縁)とは、仏の子であった私たちが、四苦八苦の人生に翻弄されるようになった原因を、「無明、行(ぎょう)、識(しき)、名色(みょうしき)、六処(ろくしょ)、触(そく)、受(じゅ)、愛(あい)、取(しゅ)、有(う)、生(しょう)、老死(ろうし)」の十二の段階に分けて説いたもので、これを見れば、最後に来る生老病死(四苦八苦)の原因が、無明から始まっていることが分かります。


十二縁起の中には、意味不明の言葉が並び、いかにも煩瑣で難しそうに見えますが、要するに、太陽に背を向ければ、目の前に自分の影しか見えなくなるように、魂の大御祖(おおみおや)であり、光そのものであるみ仏に背を向けてしまったために闇を作り、本来持っていた仏の光(悟りの智慧)を失くしてしまったことが、仏の子とは思えない生き方をしなければならなくなった根本原因なのです。


◇六道輪廻の廻り舞台◇


無知無明によって作り出される四苦八苦の人生を、大きく六つに分けたものが、六道(ろくどう)です。


六道とは、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道の六つの世界を指しますが、六道は、み仏(光)に背を向けた為に出現した自分の影(闇の世界)ですから、そこでは、自分以外に頼る者がいません。


その結果、必然的に欲望の充足だけが生きる目的となり、欲望を充足させるために、貪り、瞋り、妬みなど、様々な悪業を犯し、その報いを受けて四苦八苦と言われる様々な苦しみを受けなければならなくなったのです。


こうして、自らの手で六道の人生を作り苦しみ続けているのが、今の私たちですが、地獄道とは、あらゆる苦しみを味わう四苦八苦の極まった世界、餓鬼道とは、欲望の赴くままに、ありとあらゆるものを貪る欲しい惜しいの世界、畜生道とは、人を押しのけてでも自分の欲望を叶えようとする利己主義の世界、修羅道とは、欲望が満たされないために愚痴をこぼしたり、嫉妬の炎を燃やす世界を意味します。


六道の中でも、地獄道、餓鬼道、畜生の世界は、苦しみばかりの世界であるため、三悪道(さんなくどう)と呼ばれ、修羅道を加えて、四悪道(しあくどう)とも呼ばれています。


その上にはさらに、苦もあれば楽もある人間界と、楽ばかりで苦しみのない天上界がありますが、この二つの世界も、み仏に背を向けた為に出来た影の世界であることに変わりはなく、み仏に目を向けない限り、いつまでも欲望の充足に翻弄され続け、やがては四悪道の世界に堕ちていかなければなりません。


要するに、み仏に背を向けている限り、自分が作り出した六道の影は消滅せず、四苦八苦の人生は果てしなく続いていくのです。


菩薩様が、
 六つの道が 廻るから
   しあわせばかりと 思うなよ
   人生廻り 舞台なり

と詠っておられるように、六道は円の世界ですから、円の外に飛び出さない限り、終わりがなく、永遠に六道の人生を歩み続けなければなりません。


お釈迦様は、私たちが六道を作って生きる姿を、丸い輪の中を果てしなく廻り続ける鼠に譬えて、「六道輪廻(ろくどうりんね)」とおっしゃいましたが、昨日天上界に居たかと思えば、今日は地獄界、明日は畜生界というように、目まぐるしく住む世界が移り変わり、いつまで経っても心の安らぎが得られない姿は、まさに終わりなき六道輪廻の有様そのものと言っていいでしょう。


◇夢に譬えられる六道◇


六道の円の外に飛び出さない限り、四苦八苦の人生に終わりはないと申しましたが、六道は、み仏に背を向けたために出来た自分の影ですから、本来はどこにも存在しません。


つまり、本来どこにも存在しない影の世界を作って怯え、自らの手で自らの首を絞めているに過ぎないのです。まるで一人相撲をとっているようなものです。


この有様は、よく夢に譬えられます。


恐ろしい夢を見て、今にも襲われそうになる寸前、夢から目覚めて、ほっとした経験が、どなたにもあると思いますが、夢から目覚めれば、恐ろしい夢も、襲われそうになった夢も現実ではなかった事がすぐに分かります。


それと同じように、六道も、迷いの夢の中で作られた架空の世界に過ぎませんから、夢から目覚めさえすれば、一瞬にして消えてなくなり、そこにはもはや地獄も餓鬼も、畜生も天上界もありません。


しかし、夢を見続けている限り、本人には、実在する本物の世界としか思えませんから、幾ら迷いの夢の中で作られた架空の世界だと言われても、信じられないのです。


しかも、夢を見続けてきた期間が余りにも永いため、夢から目覚めるのは、そう簡単ではありません。


そこで、み仏は、何とか迷いの夢から目覚めさせたいと、あの手この手の方便を使って、私たちを目覚めさせようとして下さっているのです。


◇長者窮子の譬え◇


『法華経』というお経に、「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬え」と言われる話が出てきます。


ある日、村一番の長者の家に、一人の乞食が物乞いにやってきました。


長者が門の近くを通ると、人が言い争っている声がするので何事かと思い行ってみると、雇人が、物乞いにきた乞食を追い払おうとしているところでした。


長者が「どうしたのかね」と聞くと、「仕事の邪魔になるから、あちらへ行けと言っても、なかなか云うことを聞かないので、追い払おうとしていたところです」と言うので、その乞食をよく見ると、見覚えのある顔をしていました。


それもその筈です。その乞食は、幼くして行方知れずになっていた長者の息子だったのです。


息子の方は幼くして父と別れた為、よく覚えていませんが、長者はすぐにわが子と見抜き、親子の名乗りをしようとします。


しかし、乞食に身をやつしている息子は、「自分が、こんな立派なお屋敷の息子である筈がない。うまい事を言って私を家に引き入れ、物乞いに来た事を責めるつもりに違いない」と思い込み、中々長者の言う事を信じようとしません。


今の自分の身の上を考えれば、信じられないのも無理はありません。そこで長者は、一計を案じる事にしました。


「生活に困窮しているようだから、お前さえよければ、この屋敷で働いてみないかね。住む所も食べるものも与えよう」


そう言って引き留めると、息子は、「それは願ってもない事です。雇っていただけるなら、喜んで働かせて頂きます」と言って、長者の家で働く事になったのです。


やがて長者の家の生活にも馴れ、長者の片腕と言われるまでになった息子を見て、長者は改めて親子の名乗りをすることにしました。


息子の方も、ようやくこの家が自分の生まれ故郷であったことを思い出し、無事に長者の財産を相続する事が出来たというのが、長者窮子の譬えですが、この話に出てくる長者は、極楽で私たちの帰りを待っていて下さるみ仏を現し、乞食は、六道をさまよう今の私たちを現しています。


◇灯台下暗し◇


私たちも、長者の息子と同様、本来は仏の子であるにも拘らず、無知無明の心によって迷いの夢を見るようになり、自分の本当の姿を見失って、有りもしない六道の世界を作り、輪廻するようになったのです。


それ以来、自分の正体を知らぬまま、六道輪廻を繰り返してきたのですが、余りにも迷いの夢が長く続いたため、自分の本当の姿を忘れ、すっかり迷い多き凡夫だと思い込んでいるのです。


そんな私たちに、いきなり「お前は仏の子だ」と言われても、簡単に信じられるものではありません。


そこで、み仏は、まず私たちの欲を利用して信仰の道に導かんがため、「こちらの仏様を信仰すれば、こんな御利益を頂けますよ。あちらの仏様には、病気を治すお力がありますよ。子供も授かりますよ。商売も繁盛しますよ。色々な願い事を叶えてもらえますよ」と、あの手この手の方便を駆使して、仏の子であった頃の事を思い出させようとしておられるのです。


長者の息子が自分の本当の正体に目覚めるまで、長者の屋敷で召使として働いたように、み仏も、私たちが少しずつ自分の本当の姿を思い出せるよう、まず信仰の門に導き、目覚める機会を待っていて下さるのです。


私たちは、本来仏の子であり、御利益を求めなくても、すでに身に余るあらゆるご利益をいただいているのですが、自分の正体を忘れている為、中々そのことに気付かないのです。まさに「灯台下暗し」です。


仏教では、六道の夢を見て迷っている姿を凡夫と言い、夢から目覚めた姿を仏(覚者)と言いますが、殆どの人は、迷いの夢を見ている期間が余りにも長いため、自分の事を、すっかり罪深い凡夫だと思い込んでいます。


しかし、生まれつきの凡夫など一人もいません。


もし生まれつきの凡夫なら、仏になることは出来ませんし、いくらみ仏にすがっても極楽へは帰れません。元々仏の子だからこそ、仏になれるし、極楽へも帰れるのです。


乞食に身をやつした長者の子が、父親の財産を相続できたのは、元々長者の息子だったからです。


梅はどんなに頑張っても桜にはなれません。梅は梅にしかなれません。桜になれるのは、元々桜だからです。


それと同様、正真正銘の凡夫であれば、絶対に仏にはなれません。


本来仏の子であるにも拘らず、迷いの夢を見ているだけだからこそ、迷いの夢から目覚めれば、いつでも仏の子である元の自分に戻れるし、目覚めたその場所が極楽になるのです。


合掌



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2018年12月02日

恒例の落ち葉掃除!

周囲を木々の緑に囲まれている法徳寺にとって、この時期の贈り物と云えば、紅葉の後の落ち葉です。
ご覧のように、昨日吹いた北風に乗って、落ち葉が山のように積もりました。
自然に囲まれ、美味しい空気をいただき、四季折々の美しい景色を眺めながら生かされている以上、落ち葉は付き物です。文句を言っては罰が当たります。
今日も、家族みんなで、落ち葉掃除をさせていただきましょう。


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庫裏と客殿の前に積もった落ち葉は、ご覧のように、きれいに掃き終わりました。
ただいま休憩中。
これから夢殿や汗露臺の周囲に積もった落ち葉を集めます。
もうあと一息です。頑張りましょう。


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もちろん、掃き終わっても、これで終わりではありません。
周囲の木々には、まだ赤や黄色に紅葉した葉っぱがいっぱい付いていますから、強風が吹けばまた同じ光景に戻ります。年内いっぱいはこの状態が続きます。

posted by カンロくん at 11:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記