2017年10月31日

紅葉と落ち葉掃除!

境内の桜も少しずつ紅葉が進んでいます。


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モミジの方が紅葉はあざやかですね。


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紅葉は綺麗なんですが、その代わりご覧のようになります(笑)
今日もみんなで落ち葉掃除をさせていただきました。


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2017年10月30日

稲荷大明神勧請(4)

◇まだ終わっていなかった勧請◇


当初、私たちは、伏見稲荷大社へお参りし、稲荷大明神を勧請させていただいたその足で、山梨へ帰るつもりでした。


ところが、子供がどうしても京都タワーの地下にあるお店に行きたいというので、予定を変更して、「イオンモール京都」へ立ち寄る事になったのですが、その時は、「イオンモール京都」が、御旅所の真向いにある事など知る由もなく、京都タワー近くの駐車場を探している内に、「イオンモール京都」を見つけたのでした。


ですから、表面的に見れば、「イオンモール京都」へ立ち寄ったのは、ただの偶然に過ぎません。


しかし、その裏側に隠された真相を悟ってみれば、決して偶然ではなく、導かれるべくして導かれていたのです。


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では、何故、お大師様、菩薩様は、私たちを、「イオンモール京都」へ導かれたのでしょうか?何故、私たちは「イオンモール京都」へ立ち寄らなければならなかったのでしょうか?


それは、「イオンモール京都」へ立ち寄る事によって、お稲荷様が伏見稲荷大社を出て来られる時に、必ずお泊りになる御旅所へ立ち寄っていただく為です。


何故、御旅所に立ち寄らなければいけないのかと言えば、そうしないとお稲荷様の勧請が完了しなかったからです。


◇勧請に欠かせない御旅所◇


勧請させていただいたお稲荷様は、伏見稲荷大明神の御分霊ですが、お稲荷様を勧請させていただくという事は、お稲荷様に法徳寺までの長旅をしていただき、末代までも法徳寺に御鎮座いただき、衆生済度のお手伝いをしていただくという事です。


その為には、伏見稲荷大社から、直接、法徳寺へ来ていただくのではなく、まず毎年伏見稲荷からお出ましになる御旅所に立ち寄っていただき、御旅所を経由して法徳寺へ来ていただくのが、神仏の世界でのお稲荷様が旅立たれる時の順路であり、お迎えする時の仕来りなのではないでしょうか?


見えぬ神仏の世界では、伏見稲荷大社で勧請しただけでは、まだ勧請は終わっていなかったのです。


お稲荷様を法徳寺にお迎えする為には、御旅所は避けて通れない場所であり、「イオンモール京都」へ立ち寄る事は、お稲荷様を勧請する上で欠かせない道のりだったのです。


残念ながら、御旅所が「イオンモール京都」の真向いにある事や、御旅所へ立ち寄る事の重大さに気付いたのは、山梨へ帰ってからですので、御旅所には立ち寄れませんでしたが、仮に前もって御旅所が「イオンモール京都」の真向いにある事を知っていたとしても、多分、御旅所には立ち寄っていなかったと思います。


何故なら、御旅所に立ち寄る事が、お稲荷様を勧請する上で欠かせない道のりである事に、全く気付いていなかったからです。


◇子供に与えられたお役目◇


勿論、お大師様、菩薩様は、前もってその事をすべて見通された上で、子供を一緒に来させ、「イオンモール京都」へ私たちを導き、お稲荷様が、御旅所に立ち寄られるようお計らい下さったに違いありません。


しかし、ここで一つ疑問が残ります。


「実際にこの足で御旅所へ立ち寄った訳ではないのに、どうしてお稲荷様が御旅所へ立ち寄られたと分かるのか?」という疑問ですが、確かに、直接御旅所へ立ち寄ってお参りした訳ではありません。


「イオンモール京都」へ導かれたお計らいの意味に気付いたのは、山梨へ帰ってからですから、御旅所へ立ち寄れる筈もありませんが、目に見えぬ神仏の世界では、この足で御旅所に立ち寄らなくても、すぐ隣にある「イオンモール京都」へ立ち寄った事によって、お稲荷様に御旅所へ立ち寄っていただいた事になるのではないでしょうか?


だからこそ、わざわざ子供を一緒に来させ、御旅所の真向いにある「イオンモール京都」へ導いて下さったのです。


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何故そう確信するのかと言えば、もし子供が一緒に来ていなければ、「イオンモール京都」へ寄り道する事は絶対にありえなかったからです。


そうなれば、お稲荷様に御旅所へ立ち寄っていただく事はおろか、お稲荷様を法徳寺に勧請する事さえ出来なかったかも知れません。


お稲荷様を勧請させていただく為には、ただ伏見稲荷大社で勧請するだけではなく、どうしてもお稲荷様に、御旅所へ立ち寄って頂かなければならなかったのです。


勿論、先ほども言ったように、直接、御旅所へお参りさせて頂いた訳ではありませんが、もし直接、御旅所へ立ち寄らなければいけないのであれば、お大師様、菩薩様は、必ずそのようなお計らいをして下さった筈です。


子供を使って、ここまでのお計らいをして下さっている以上、そうなさらなかった筈がありません。


にも拘らず、直接御旅所に立ち寄らせなかったのは、そうしなくても、目に見えぬ神仏の世界では、真向かいにある「イオンモール京都」へ立ち寄る事により、お稲荷様に御旅所へ立ち寄っていただいた事になるからだと思います。


◇勧請への確信◇


こうして、お大師様、菩薩様は、私たちを伏見稲荷大社から更に「イオンモール京都」へ導く事によって、伏見稲荷大明神様の勧請が滞りなく終わった事を証明して下さったのです。


もし、このようなお計らいがなければ、本当に法徳寺へ勧請出来たのかどうかの不安や疑問が残ったかも知れません。


しかし、「イオンモール京都」に導かれた事によって、間違いなくお稲荷様を勧請させていただけた事を、ハッキリ確信させていただけるのです。


いまにして思えば、知り合いのU氏を、伏見稲荷へお参りする前日に法徳寺へ立ち寄らせ、伏見稲荷へのお参りは、お稲荷様を法徳寺へ勧請する為のお参りであり、依り代は十三連の腕数珠が相応しい事に気付かせて下さった事も、予定があると言っていた子供を東京から帰らせ、一緒に伏見稲荷へお参りさせ、御旅所の真向かいにある「イオンモール京都」へ導いて下さった事も、すべてお稲荷様の勧請が無事に済むようにとの、お大師様、菩薩様の最善最良のお計らいだったのです。


合掌



稲荷大明神勧請(1)
稲荷大明神勧請(2)
稲荷大明神勧請(3)
稲荷大明神勧請(4)
稲荷大明神勧請(5)
稲荷大明神勧請(6)
稲荷大明神勧請(7)


高野山法徳寺Website

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2017年10月28日

稲荷大明神勧請(3)

◇思いがけない訪問者◇


こうして、様々なお計らいを頂く中で、伏見稲荷大社にお参りさせていただく事になったのですが、問題が一つありました。


それは、「伏見稲荷大明神をどのような形で法徳寺にお迎えすればよいのか?」という事です。


最初の予定では、伏見稲荷大社で御祈祷していただいたお札をお祀りさせていただくつもりでしたが、お大師様、菩薩様のお考えは全く違っていました。


伏見稲荷へお参りさせていただく前日の五月十二日、融通尊寺(神戸市)の住職をしておられる知り合いのU氏が、何の前触れもなく突然、法徳寺へ来られたのです。


聞けば、柳生新陰流の剣術を習っておられ、その稽古の為に、前日甲府市内に一泊され、神戸に帰る道すがら、法徳寺へ立ち寄って下さったとの事でした。


思わぬ突然の訪問に驚いたのですが、伏見稲荷へお参りする前日の訪問でしたので、「もしかすると、お大師様、菩薩様のお計らいかも知れない。何か悟らなければいけない事があるのではないか」と感じました。


今までの経験上、思いがけない事が起こる時は、そこに何らかのお計らいがなされている事が多々ありましたので、今回の突然の訪問にも、お大師様、菩薩様のお計らいがなされているような気がしてなりませんでした。


丁度お昼前でしたので、U氏と一緒に、八ヶ岳の麓に広がる清里のレストランに行き、食事をしながら、明日、伏見稲荷へお参りして、御祈祷をしてもらう予定である旨を告げると、「大西さん、御祈祷をしてもらうのもいいですが、せっかく伏見稲荷へ行かれるなら、ご自分でお稲荷様を勧請(かんじょう)して来られたらどうですか」という思いがけない言葉が返ってきたのです。


勧請とは、お稲荷様を法徳寺へお迎えさせていただく事ですから、勧請させていただくという事になれば、ただ願いを叶える為の御祈祷と違って、お迎えする側の決意や覚悟も大きく変ってきます。


勧請させていただくという事は、お稲荷様に法徳寺へお越しいただき、末代までも衆生済度のお手伝いをしていただく事を意味しますから、安易な気持ちで勧請する訳にはいきません。


それまで、私の脳裏にあったのは御祈祷していただく事だけで、勧請までは全く考えていなかったので、U氏の言葉は、まさに青天の霹靂でした。


しかし、言われてみればまさにその通りで、最初の驚きは、次第に、お稲荷様を法徳寺に勧請せよとのお大師様、菩薩様のお指図に違いないという確信に変わっていきました。


◇お稲荷様の依り代◇


お大師様、菩薩様が、伏見稲荷へ行く前日に、U氏を法徳寺に立ち寄らせるお計らいをなさったのは、その事を伝えたかったからでしょうが、お稲荷様を勧請させていただく事になれば、どうしても決めなければならない事が一つあります。


それは、「何をお稲荷様の依り代(よりしろ)にすればよいのか」という事です。


先ず脳裏に浮かんだのは御幣ですが、御幣よりもっと相応しいものがあるような気がしてならなかったので、あれこれ思案していると、U氏がこう言ったのです。



御幣もいいのですが、法徳寺にある物を、お稲荷さんの依り代にした方がいいと思います。法徳寺にある物なら、石でも木でも何でもいいんです。例えば、以前大西さんからいただいた腕数珠はどうでしょうか。

腕数珠なら、紙で作った御幣のように破れたりボロボロになる心配はないし、神様にお供えするお水を入れる水玉に入れてお祀りすればいいのです。

法舟菩薩様の御縁日の十三日に因んで、数珠玉を十三個つないで腕数珠を作り、依り代にされてはどうですか?



U氏からそう提案され、法舟菩薩様のご縁日の四月十三日に因んで、十三連の腕数珠を依り代とするのが最も相応しいと確信したのですが、一つ疑問がありました。


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そもそも、U氏を伏見稲荷へお参りする前日に法徳寺へ立ち寄らせるお計らいをなさったのは、お大師様、菩薩様ですから、菩薩様の御縁日ではなく、お大師様の御縁日(三月二十一日)に因んで、二十一連の腕数珠を依り代にしてはどうかと、U氏に言わせてもいい筈ですが、何故そう言わせなかったのかという事です。


恐らく、次の二つの理由からではないでしょうか。


一つは、「稲荷大明神勧請(2)」でも述べたように、四月十三日は、菩薩様の御縁日であると同時に、紀伊田辺市で出会ったお大師様と白髭稲荷大明神が、東寺での再会を約束して別れ、七年後に再開された日(弘仁十四年四月十三日)でもあるという事です。


この再会がご縁で、お大師様がお稲荷様をお祀りされたのが、伏見稲荷大社の起源となっており、十三という数字がお稲荷様にとって特別な意味合いを持つ数字である事を考えれば、十三連の腕数珠以外に、お稲荷様に相応しい依り代はないと言っても過言ではないでしょう。


もう一つは、「稲荷大明神勧請(5)」で述べるように、天(伏見稲荷大社)に続いて、地(高野山)からも稲荷大明神を勧請させていただく事になり、その時の依り代を、お大師様の御縁日に因んで、二十一連の腕数珠とさせていただいたので、天(伏見稲荷大社)からの勧請には、菩薩様の御縁日に因んだ十三連の腕数珠でなければならなかったという事です。


いずれにしましても、伏見稲荷大社へお参りする目的が、単なる御祈祷ではなく、お稲荷様を勧請する為である事、そして依り代は十三連の腕数珠が相応しい事を伝えるため、伏見稲荷へお参りする前日に、U氏を法徳寺へ立ち寄らせて下さった事は間違いありません。


U氏が山梨へ来られた表向きの理由は、剣術の稽古ですが、それはあくまで山梨へ来させる為のみ仏の手立てに過ぎず、真の目的は、伏見稲荷へお参りするのは、稲荷大明神を勧請する為である事を、U氏に伝えさせる為だったのです。


◇京都駅への寄り道◇


U氏とのやり取りを通じて、改めて生き仏様のお計らいの絶妙さに感服させられた事は言うまでもありませんが、彼と別れた後、早速法徳寺に帰り、白い十三個の数珠玉を集めて十三連の腕数珠を作り、翌五月十三日、家族揃って、伏見稲荷大社へお参りさせていただきました。


生憎の小雨模様にも拘らず、境内は、信者らしき人々の他に、海外からの観光客の団体や修学旅行生でごった返し、色とりどりの傘の花が所狭しと咲いていました。


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早速、境内の一角にある神具店で水玉を購入し、本殿で御祈祷をしていただいたのですが、その間、御祭壇に、腕数珠を入れた水玉をお祀りしていただき、「今日は、家族みんなで、お稲荷様をお迎えに参りました。何卒この腕数珠を依り代として、法徳寺にお越し下さいますよう、お願い申し上げます」と心に念じながら、勧請させていただきました。


御祈祷が終わる頃には雨も上がり、無事に勧請を済ませ、晴れてお稲荷様を法徳寺へお迎えさせて頂ける喜びを家族みんなで噛みしめながら、帰路につくつもりでしたが、お大師様、菩薩様は、私たちの予想を遙かに超えるお計らいをしておられました。


一緒に行った子供が、「京都駅前の京都タワーの地下にあるお店に行きたい」と言うので、急遽予定を変更して、京都駅へ寄り道をする事になったのですが、実はこの寄り道の中に、予想もしていなかったお大師様、菩薩様のお計らいが隠されていたのです。


京都タワーの地下と言っても、車を止めておく場所がないので、近くに駐車場はないかと探したところ、京都タワーと反対側の京都駅の南側に、「イオンモール京都」という七階建ての複合施設があり、買い物や食事をする人たちの駐車場があると言うので、お昼前でもあった事から、そこへ車を止め、食事をする事にしました。


子供が行きたい京都タワーは、京都駅を挟んで北側にある為、南側にある「イオンモール京都」から歩いていかなければなりませんが、それでもいいと言うので、妻と子供の二人は、京都タワーまで歩いていく事になり、残った私たちは、イオンモールで昼食を済ませてから、京都タワーの近くで二人と落ち合う事にしました。


食事を済ませた後、京都タワー近くで二人を車に乗せ、その足で山梨へ帰ってきたのですが、その時はまだ、お大師様、菩薩様がお計らいをしておられる事など、知る由もありませんでした。


◇「イオンモール京都」へ導かれた真の理由◇


当初は、伏見稲荷にお参りし、勧請を済ませたらすぐに帰る予定でしたが、子供が京都タワーの地下にあるお店に行きたいというので、予定を変更して、京都駅の南側にある「イオンモール京都」へ立ち寄る事になったのですが、このような予定変更は、我々の日常生活の中ではよくある事で、決して珍しい出来事ではありません。


ですから、いつもなら気にもかけず、そのまま見過ごしているところですが、予定変更は、伏見稲荷大社へお参りして稲荷大明神様を勧請した後だったのです。


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お稲荷様の勧請がお大師様、菩薩様のお計らいである事を考えれば、「イオンモール京都」へ立ち寄ったその後の行動も、お大師様、菩薩様のお計らいである可能性が出てきますが、残念ながら、当日はそこまで深く考えないまま帰ってきたので、お計らいに気付かず、気付いたのは、山梨へ帰って数日経ってからでした。


山梨へ帰って暫くしてから、ふと「何故、勧請を済ませた後、わざわざ京都駅の南側にあるイオンモール京都まで寄り道させられたのだろう?」という疑問が頭をもたげてきたのです。


子供が京都タワーの地下にあるお店に行きたいと言うのが表向きの理由ですが、京都タワーへ行くのであれば、京都駅の北側へ行った方が近い筈です。


わざわざ京都駅を挟んで、京都タワーと反対側にある「イオンモール京都」まで行かなければならない必然性はどこにもなく、「イオンモール京都」へ寄り道したのは、私たちをそこへ導きたいお大師様、菩薩様のお計らいに違いありませんが、何故、私たちを「イオンモール京都」へ寄り道させたかったのでしょうか?


◇伏見稲荷大祭の舞台・御旅所◇


伏見稲荷大社の起源について、「秦氏系の伊奈利伝承」と「荷田氏系の稲荷伝承」がある事は、「稲荷大明神勧請(2)」でお話した通りですが、伏見稲荷に昔から伝わる伝統行事があるのをご存じでしょうか。


それは、毎年四月二十日直近の日曜日から五月三日までの二週間余りに亘って行われる伏見稲荷大祭で、「神幸祭(しんこうさい)」と「還幸祭(かんこうさい)」という二つの行事から成り立っています。


四月二十日に伏見稲荷を出発した御輿が、「伏見稲荷御旅所(ふしみいなりおたびしょ)」までお出ましになられ、そこに五月三日までの二週間お泊りになり、氏子の参拝を受けられるのが「神幸祭」、そして、最終日の五月三日、東寺へ立ち寄られ、東寺の僧侶から供養を受けた後、伏見稲荷大社へ帰られるのが「還幸祭」で、伏見稲荷大社にとっては、最も重要な毎年恒例の伝統行事です。


この稲荷大祭は、お大師様が、白髭稲荷大明神ご一家を芝守り(柴守)長者の屋敷でもてなされ、東寺の鎮守神としてお祀りされた故事に由来しています。


伏見稲荷大社は、創建年代について、「秦氏系の伊奈利伝承」の和銅四年(711)を採用し、稲荷大祭については、「荷田氏系の稲荷伝承」に則って行っている事から、どちらの伝承も採り入れている事になりますが、白髭稲荷大明神ご一行が滞在された「芝守り(柴守)長者」の屋敷跡と言うのが、実は稲荷大祭の重要な舞台となっている現在の「伏見稲荷御旅所」なのです。


御旅所の存在は、伏見稲荷の起源を調べていく内に知ったのですが、伏見稲荷大社へお参りする前は、東寺の近くにあるのだろうと想像する程度で、どこにあるのかも全く知りませんでした。


ところが、山梨へ帰ってから急に「イオンモール京都」へ立ち寄った事が気になり始め、改めて「伏見稲荷御旅所」の場所を調べたところ、思いもよらぬ場所にある事が分かったのです。


どこにあったかと言えば、何と私たちが車を止めた「イオンモール京都」の真向かいにあったのです。


油小路通りと名付けられた南北に走る幹線道路を挟んで、「イオンモール京都」が東側、「伏見稲荷御旅所」が西側にあって、お互いが向かい合う形になっていたのです。



これを見た時は、私たちを「イオンモール京都」へ導かれたお大師様、菩薩様のお計らいの絶妙さに、思わず唸らざるを得ませんでした。


合掌



稲荷大明神勧請(1)
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2017年10月26日

初冠雪の便り!

昨日は生憎の雨と曇りで、三山(甲斐駒、八ヶ岳、富士山)が全く見えませんでしたが、甲府気象台は昨日、南アルプスの甲斐駒の初冠雪を観測したそうです。
今朝は快晴となり、うっすらと雪に覆われた甲斐駒が綺麗に見えています。


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八ヶ岳も、うっすらと雪に覆われていますから、甲斐駒同様、昨日初冠雪したのかも知れません。


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富士山は、23日に初冠雪しましたから、やはりうっすらと白くなっています。
平年より23日遅く、10月26日だった昨年より3日早い初冠雪でした。
いよいよ冬支度というところです。


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2017年10月25日

稲荷大明神勧請(2)

◇伏見稲荷大社にまつわる二つの伝承◇


京都の伏見稲荷大社へお参りさせていただく事に決まったものの、その時はまだ、何故、開創十三年目に入るや否や、伏見稲荷大社に導くお計らいがなされたのかについては、よく分かりませんでした。


そのお計らいの意味を知る為には、やはり伏見稲荷大社の起源について知る必要があったのです。


伏見稲荷大社の起源については、二つの伝承が伝えられています。


一つは、大陸から渡来し、日本に土着した秦(はた)氏一族に連なる「秦氏系の伊奈利(いなり)伝承」、もう一つは、荷田(にだ)氏に連なる「荷田氏系の稲荷伝承」と言われるものです。


秦氏も荷田氏も、代々、伏見稲荷大社の神官を勤めてきた社家の家柄ですから、伝承もそれほど違わないであろうと想像していたのですが、その予想は見事に裏切られ、二つの伝承の内容は大きく異なっていました。


◇秦氏系の伊奈利伝承◇


先ず「秦氏系の伊奈利伝承」の根拠となっている『山城国風土記逸文・伊奈利の社条(やましろのくにふどきいつぶん・いなりのしゃじょう)』によれば、稲や粟などの穀物で財をなした京都市深草の長者、秦伊呂具(はたのいろぐ)が、稲荷山に稲荷大明神を祀ったのが起源と言われています。


秦伊呂具は、秦氏の遠祖と言われている人物で、稲荷神社の『稲荷社神主家大西(秦)氏系図』(いなりしゃかんぬしけおおにし(はた)しけいず)によれば、賀茂建角身命(かものたけつぬみのみこと)二十四世、賀茂県主久治良(かものあがたぬしくじら)の末子とされています。


賀茂建角身命は、神武東征の際、高木神(たかぎのかみ・注1)・天照大神の命を受けて日向(ひゅうが)の曾の峰(高千穂峰)に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏(やたがらす)に姿を変えて神武天皇を先導し、勝利に貢献したと言われている古代神話の神様で、秦伊呂具は、八咫烏二十四代目の人物の子孫という事になります。


秦氏は、大陸から渡来し、京都の太秦(うずまさ)を本拠地として活躍した有力豪族で、太秦の広隆寺は秦氏の氏寺、松尾大社は氏神としてよく知られています。


その秦氏を統率していたのが、秦都理(はたのとり)と言われる人物で、秦伊呂具は、秦都理の弟と言われていますので、秦氏の分家の長という事になります。


或る日、秦伊呂具が、餅を的にして矢を射たところ、その矢が餅に命中し、餅が白い鳥に変って稲荷山の頂上へ飛んで行き、そこに稲が生えたので、不思議に思った伊呂具がその地を霊地と感じ、稲の霊である稲荷大明神を祀り、「伊奈利社(いなりしゃ)」と名付けたのが、伏見稲荷大社の起源と言われています。


その日が、和銅四年(西暦711年)二月七日壬午(みずのえうま)の日であった事から、二月の初午が稲荷大明神の紋日とされています。


秦伊呂具が餅を的にして矢を射たら、餅が白鳥に変って稲荷山の山頂に飛んで行ったという伝承は、五穀豊穣をもたらす穀物の霊(穀霊)である餅を弓の的としたため、餅に潜んでいた穀霊が白鳥となって飛び去った事を暗示しています。


それによって災厄がもたらされる事を恐れた子孫が、餅を的にした先祖の過ちを悔い、社の木を根こそぎ引き抜いて家に植え、祀ったのですが、その木を植えて根付けば福が授かり、枯れると福はないと言われ、これが、今に伝わる稲荷神のご神木「験(しるし)の杉」の起源となっています。


イナリという名前は、山の頂上に稲が生えた事に由来しており、「イネナリ(稲生)」が「イナリ」に転じ、「稲荷」の漢字をあてて、社名としたものですが、何故、秦伊呂具が、本家の氏神とは別に、分家の氏神として新たに「伊奈利社」を創建し、稲荷大明神を祀ったのかについては、よく分かっていません。


◇荷田氏系の稲荷伝承◇


もう一つの伝承である「荷田氏系の稲荷伝承」の根拠となっているのが、『稲荷大明神流記(いなりだいみょうじんるき)』で、それによれば、弘法大師が、弘仁七年(816)、熊野詣での途中、紀伊田辺に滞在しておられた時、女性二人と子供二人を連れ、稲を担いで杉の杖をついた、身長二メートル四十センチもある白髭の老翁が訪ねて来られ、


私は稲荷の神である。あなたとはすでに唐土で面会している。これからあなたの仏法興隆事業をお手伝いしようと思う。


と言われたので、弘法大師は大変喜ばれ、


確かに貴方とは先年、私が唐に留学していた時にお会いしました。その時交わした誓約を、今でも忘れる事が出来ません。私には密教を日本に広め、仏法を隆盛させたいという願いがあります。その仏法興隆事業をお助け下さるのは大変有り難い事です。

私は今、わが国に密教を興隆させたいと、京都の東寺で大事業に着手したところです。ぜひ貴方様のお力をお貸し願いたい。京都の東寺でお待ちしておりますので、是非お越しください。


と告げ、東寺での再会を約束して別れました。


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伝承によれば、弘法大師と稲荷明神が出逢った場所は、紀伊田辺駅より西北へ数キロ行った田辺市稲成(いなり)町にある高山寺(真言宗御室派)のある場所とされており、現在お寺の正門には、「弘法大師稲荷明神 値遇の霊跡 高山寺」と刻まれた石柱が建っています。


弘法大師と稲荷明神が京都・東寺での再会を約束してから七年後の弘仁十四年(823)四月十三日、東寺の南大門に、二人の女性と二人の子供を連れ、稲を担いだ白髭の老翁が、紀伊田辺で別れた時の姿のまま訪ねてこられ、


お約束通りやって参りました。これから東寺とあなたの為にお手伝いさせていただきましょう。

と言われたので、弘法大師は、


お稲荷様、よく訪ねてくださいました。貴方様のお力をいただき、私の東寺の仕事も、密教興隆の仕事も、きっとうまく行くに違いありません。東寺には、お稲荷様ご家族をお泊めする場所がありませんので、すぐ近くの芝守り(柴守)長者の屋敷でしばらくご滞在下さい。


と言って、長者の屋敷へ案内され、お稲荷様ご一家を篤くもてなされました。


お稲荷様ご一家は、そこでしばらく滞在され、滞在期間中、弘法大師は、壇を組んで、十七日間の行に入り、お稲荷様を東寺の鎮守として祀り、後に稲荷山に勧請したのが、伏見稲荷の起源と言われています。


弘仁十四年(823)を伏見稲荷の起源とする「荷田氏系の稲荷伝承」と、和銅四年(711)を起源とする「秦氏系の伊奈利伝承」とでは、百年余りの開きがあり、どちらの伝承が正しいかは不明ですが、伏見稲荷大社では、平成二十三年(2011)に創建千三百年祭を催していますので、創建年代については、「秦氏の伊奈利伝承」の和銅四年(711)説を採用している事になります。


◇稲荷山の神・竜頭太と弘法大師のつながり◇


更に、東寺に伝わる『稲荷大明神縁起(いなりだいみょうじんえんぎ)』には、次のように記されています。


和銅年中(708〜715)より百年間、稲荷山の麓には、竜頭太(りゅうとうた)という山の神が住んでいた。
 稲荷山の山麓に草庵を結び、昼は田を耕し、夜は薪を集めていたが、その容貌は竜のようで、顔の上に光があたって夜を照らすほどであったという。
 稲を荷いでいたことから、姓を荷田(にだ)と言ったが、弘仁の頃、弘法大師がこの山で修行していると、竜頭太が現れ、「吾は稲荷山の神である。仏法を守護しようと願っているので、真言の教えを説いてほしい。そうすれば、当山をあなたに譲り渡そう」と言ったので、弘法大師は大層喜んで法を説き、その容貌を写して御神体とし、東寺の台所に安置したと言う。


この伝承によれば、竜頭太なる人物は、荷田氏の先祖であると同時に、秦伊呂具が稲荷山の頂上に「伊奈利社」を建てて稲荷明神を祀る以前から、山の神として稲荷山に鎮座し、弘法大師が修行の為にこの山へ来るのを待っていたのです。


そして、紀伊田辺で出会った白髭稲荷(しらひげいなり)大明神が東寺を訪ねて来られたのを機に、弘法大師が竜頭太から譲り受けた稲荷山に白髭稲荷大明神を勧請したのが、伏見稲荷大社の起源という事になります。


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先ほど述べたように、秦伊呂具が、餅を的にして矢を射たところ、餅が白い鳥になって稲荷山の頂上に飛んでいき、そこに稲が生えた事から、その場所に「伊奈利社」を建てて稲荷大明神(稲荷三神)を祀り、秦氏の氏神としたという「秦氏系の伊奈利伝承」と、稲荷山の神である竜頭太が、弘法大師から仏法を授けられたお礼に稲荷山を授け、そこに白髭稲荷大明神を祀ったのが伏見稲荷の起源であるとする「荷田氏系の稲荷伝承」とでは、内容も創建年代も大きく異なっています。


いずれにしても、弘法大師と東寺が、伏見稲荷の創建に深くかかわっている事は間違いないでしょうが、竜頭太にまつわる伝承を聞いて思い出したのは、境内の一角で肩を並べて死んでいたモグラとネズミです。


モグラは、漢字で「土竜」と書きますが、靴やスリッパなどと一緒に、死んだモグラを、短期間の内に、一度ならず三度までも見た事が不思議でならなかったのですが、いまにして思えば、伏見稲荷へ導く為、「荷田氏系の稲荷伝承」に出てくる竜頭太との関連性を示唆していたのかも知れません。


またモグラと肩を並べて死んでいたネズミは、昔から大黒天の使いと言われていますが、大黒天は、稲荷大明神と同一視されているヒンズー教のダーキニー(荼吉尼天)に法を説き、仏教の守護神に生まれ変わらせた神で、ダーキニーにとっては、仏法に目覚めさせてくれた救世主ともいえる存在で、大黒天と稲荷大明神との間には深い因縁があります。


モグラとネズミが死んでいるのを見かけた時期と、足にまつわるスリッパや靴、鹿の角と足の一部が落ちていた時期が重なっていたのも、ただの偶然ではなく、伏見稲荷へ導くためのお計らいであったに違いありません。


◇伏見稲荷の五社明神◇


様々な謎に包まれている伏見稲荷大社ですが、現在、大社に祀られている伏見稲荷大明神は、「稲荷五社大神」「稲荷五社明神」とも言われるように、五柱の神様の総称であって、一柱の神様ではありません。


その五柱の神様も、時代によって変遷してきている為、異なる二つの稲荷伝承を含めて、伏見稲荷にまつわる謎を一層深める要因となっています。


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現在、伏見稲荷大社には、宇迦之御魂大神(うかのみたまおおがみ)、左田彦大神(さたひこおおがみ)、大宮能女大神(おおみやのめおおがみ)、田中大神(たなかのおおがみ)、四大神(しのおおがみ)の五柱の神様が祀られていますが、稲荷三神の一柱である宇迦之御魂大神は、古事記に出てくる稲の神様で、日本書紀では、「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」として登場します。


稲荷山の麓の下社に鎮まる稲荷大社の主祭神で、本殿の中央座におられます。


五穀と養蚕を司る穀物霊で、宇迦之御魂の宇迦は、食物の古代語「ウケ、ウカ」で、ウカノミタマは、食物の霊を意味します。


稲荷は、「稲生り」が「イナリ」に転じ、「稲を荷う」という漢字が当てはめられた事は、先に述べた通りですが、伊勢神宮の外宮に祀られ、「天照大御神」の食物を司る「豊受大神(とようけおおがみ)」と同体視されています。


伏見稲荷大社は、明治の廃仏毀釈(注2)までは、愛染寺という真言密教の寺院として栄え、宇迦之御魂の本地仏(ほんぢぶつ)は如意輪観音とされていました。


稲荷三神の一柱である左田彦大神は、稲荷山の中腹にある中社に鎮まる神様で、本殿の北座(向かって左側)におられます。


道開きの神として知られる伊勢の猿田彦大神(さるたひこおおがみ)と同一視され、本地仏は千手観音とされています。


稲荷三神の一柱である大宮能女大神は、稲荷山の頂上にある上社に鎮まる神様で、本殿の南座(向かって右側)におられます。本地仏は、十一面観音とされています。


田中大神は、下社摂社に鎮まる神様で、本殿の最北座(向かって左端)におられます。大己貴神(おおなむちのかみ・注3)と同一視され、本地仏は不動明王とされています。


四大神は、中社摂社に鎮まる神様で、本殿の最南座(向かって右端)におられます。五十猛命(いたけるのみこと)、大屋姫(おおやつひめ)、抓津姫(つまつひめ)、事八十神(ことやそがみ)の四柱の神様で、本地仏は毘沙門天とされています。


合掌



稲荷大明神勧請(1)
稲荷大明神勧請(2)
稲荷大明神勧請(3)
稲荷大明神勧請(4)
稲荷大明神勧請(5)
稲荷大明神勧請(6)
稲荷大明神勧請(7)


高野山法徳寺Website

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2017年10月24日

落ち葉掃除の季節!

今日は、朝から午前中いっぱいかかって、境内の落ち葉掃除をしました。
各地に被害をもたらした台風21号の置き土産です。

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「八ヶ岳降ろし」の異名をとる北風が吹き荒れる季節になりますので、いよいよこれからが落ち葉掃除の本番です。
猫の手も借りたいほど忙しくなります。


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2017年10月20日

秋の大法要!

今日は、菩薩様がお生まれになった日で、法徳寺では、秋の大法要が執り行われました
毎月の御縁日は、弘法大師様の御命日の21日なのですが、10月は、菩薩様の誕生会を兼ねて執り行うため、20日が御縁日となっているのです。
4月13日の春の御入定会とならんで、法徳寺にとって、大切な一日となっています。
今日は、ご法縁の皆様にお帰りいただき、まず午前10から、大法要を執り行い、11時から、恒例の法話をさせていただきました。
昼食休憩の後、午後から、全員で御法歌(みのりうた)をご奉納させていただき、その後は、夢殿のご回廊廻りをされる人、汗露水をいただかれる人、お互いの体験談を話し合う人など、それぞれに有意義なひと時を過ごされ、帰路につかれました。
皆様、どうぞお気を付けてお帰り下さい。
また来月のお帰りをお待ちしております。


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2017年10月18日

稲荷大明神勧請(1)

◇ご開創十三年目のお計らい◇


月日が経つのは早いもので、平成十六年四月十三日に高野山(たかのやま)法徳寺が発足して、早や十二年の歳月が流れました。「十年ひと昔」と申しますが、アッと言う間の十二年間だったような気が致します。


いままで全くご縁のなかった新天地での発足でしたので、将来に向けての不安が全くなかった訳ではありませんが、お陰様で、今年(平成二十九年)の四月十三日で、開創十三年目を迎える事が出来ました。


これも、ひとえにお大師様、菩薩様のご加護と、御同行の皆様の変らぬご支援の賜物であり、この場をお借りして厚く御礼を申し上げます。


さて、今年は、菩薩様のご縁日(十三日)に因む御開創十三年目に当たる事から、高野山法徳寺にとって大きな節目の年となるのではないかと、心に期するものがありました。


今年四月十三日の春の大法要でも、そのような趣旨の法話をさせていただきましたが、間髪入れず申しましょうか、三日後の四月十六日、お大師様、菩薩様から、思いも寄らぬお計らいをいただきました。


その日、夢殿の御回廊廻りを終え、境内に生えている草の様子を見に行ったところ、スリッパの片方だけが、四足分落ちていました。


開創から十二年が経過しましたが、今までこのような事は一度も無く、不思議に思っていたところ、翌十七日にも、靴、スリッパ、長靴、スニーカー、空き缶などが、境内のあちらこちらに散乱していました。


境内に落ちていたスリッパや靴やスニーカー等は、いずれも薄汚れ、ゴミとして捨てられていたものである事は明らかでした。


誰かがここまで運んできたものと思われますが、それからもほぼ毎日のように、境内の各所に、スリッパ、長靴、スニーカー、靴など、主に足に関係するものが散乱していました。


また十七日には、ネズミとモグラが、境内の一角で、仲良く肩を並べて死んでいるという、珍しい光景にも遭遇しました。


◇犯人は誰か?◇


境内へ運ばれてきた数々の足に関係する落とし物は、四月十六日から五月八日まで、ほぼ毎日続き、落ちていなかったのは、四月十八日、四月二十日、五月三日の三日間だけでしたが、一体誰がこんなものを運んできたのでしょうか?


どこかに捨てられていた靴やスリッパや長靴を、わざわざこんな所まで運んで来る人はいないでしょうから、恐らく犯人は、この辺りに住む狐か鹿かカラスのいずれかであろうと思われますが、最も可能性が高いのは、やはり狐です。


と言いますのも、境内の東側にある土手に、穴が数か所掘られ、その中に狐の親子が住んでいるのを何度も目撃していたからです。


今年の春先から土手の上で、五匹の子狐が、じゃれ合いながら楽しそうに遊んだり、日向ぼっこをしている光景を何度も見かけましたので、犯人は、狐に相違ありません。


実は、その念押しとも言うべきお計らいが、四月三十日にありました。


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その日、家内が、境内に靴やスリッパが落ちていないかと、いつものように土手に添って歩いて行くと、土手のすぐ下に、鹿の足の一部らしきものが落ちていたのです。


恐らく、どこかで死んでいた鹿の足の一部を、ここまで運んできたのでしょうが、この辺りで、死んだ鹿の肉を食べたり運ぶ習性のある動物と言えば、やはり肉食の狐しかいません。


スリッパや靴を運んできた犯人が狐である事は、ほぼ間違いありませんが、肉食である狐の習性を考えれば、鹿の足を運んできたのも、狐と考えて間違いないでしょう。


狐が土手に穴を掘って子供を育てているのは今年が初めてではありませんが、狐が、どこかに捨てられていた物を境内まで運んできた事は、法徳寺が発足してから一度もなく、まさに十三年目のサプライズと言ってよいでしょう。


しかし、十三年目に入るや否や、間髪入れずに、靴、スリッパ、スニーカー、鹿の足など、主に足に関係するものばかりが運ばれてきた事を考えれば、ただの偶然と見過ごす訳にはいかず、やはり、お大師様、菩薩様のお計らいと考えざるを得ませんでした。


◇何を悟らなければいけないのか◇


もし一連の出来事が、お大師様、菩薩様のお計らいだとすれば、悟らなければならないのは、その目的です。


最初に発見してから八日目の四月二十四日、母(寿法様)が不思議な夢を見ました。


母は紀州高野山に居るそうで、前方を見ると、十三人の人が居て、その中の山崎さんという人が、「あれを見て!」と言ったので、そちらを見ると、そこに二人の人が立っていて、その内の一人が、縦に長い鳥かごを持っていました。


鳥かごの中を見ると、かごの端の方に、黒い色をした観音様が立っておられるので、母は、「観音経を唱えないといけないのだろうか?」と思ったそうですが、夢を見たその日、家内が、土手の上で、鹿の角を見つけました。


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先ほどお話したように、鹿の足の一部を発見したのは、それから一週間後の四月三十日でしたから、一週間の内に、鹿の角と鹿の足を相次いで発見した事になりますが、法徳寺が発足してから今日までの十二年間、鹿の角と足が落ちていたり拾ったりした事は一度もなく、やはりこれも、お大師様、菩薩様のお計らいと考えざるを得ませんでした。


鹿の角と足から連想するものと言えば、天と地です。


天地は神仏であり、境内に落ちていたものが、主に足に関係するものであった事や、天地を連想させる鹿の角と足を相次いで発見した事などから、「これは、神社(神)と寺院(仏)に足を運べというお指図ではないか?」と悟らせていただいたのですが、問題は、「どこの神社と寺院にお参りすればよいのか?」という事です。


母が四月二十四日に高野山に居る夢を見たので、お参りする寺院は、紀州高野山と考えて間違いないだろうと思い、五月のゴールデンウィーク明けに、高野山へお礼参りをさせていただく事にしました。


この時は、高野山にお参りすれば、お参りする神社についても、何らかのお計らいがあるのではないかと思っていましたので、どこの神社にお参りするかは、まだ決めていませんでした。


ところが、翌五月一日、境内を見ると、前日同様、各所に、靴やスリッパが落ちていたのです。


過去の経験上、お悟りに間違いがなければ、翌日からお計らいが止まる場合が多いので、翌日も落ちていたという事は、先に高野山へお参りする事は、お大師様、菩薩様のみ心ではないという事になります。


恐らく、先にお寺(高野山)へお参りしたのでは、天地が逆になるから、それを避けよという事かも知れません。


そこで、先に神様(神社)へお参りさせていただく事にしたのですが、問題は、「どこの神様(神社)にお参りすればよいのか」という事です。


◇稲荷大明神と狐の伝承◇


思うに、四月十六日から五月八日までの二十三間、主に足に関係するものを運んできた犯人が狐である事を考えれば、狐に縁の深い神様である稲荷大明神と考えて間違いないでしょう。


しかし、一口にお稲荷様と言っても、神社に祀られている佐賀の祐徳稲荷、茨城の笠間稲荷をはじめ、寺院にお祀りされている愛知の豊川稲荷や岡山の最上稲荷など、お稲荷様を祀る神社仏閣は、全国に約三万五千社余りあると言われています。


ですから、どのお稲荷様にお参りすればよいのか一概には決められませんが、全国の稲荷社の総本社と言えば、やはり京都の伏見稲荷大社です。


今回のお計らいも、他の稲荷神社に導かれていると思えるような特段の事情がないので、総本社である伏見大社に導かれていると考えるのが妥当でしょうが、この他にも、伏見稲荷大社に導かれていると思った理由が、二つありました。


まず一つは、稲荷大明神の使いとなった狐にまつわる伝承です。


愛知の豊川稲荷や岡山の最上稲荷など、寺院にお祀りされているお稲荷様は、大日如来の化身である大黒天の導きによって、仏法を守る守護神となったヒンズー教の女鬼、ダーキニーの事で、日本では、音写して、荼吉尼天(だきにてん)と呼ばれています。


ダーキニー(荼吉尼天)は、ヒンズー教の女神カーリーが連れている女鬼の一人で、半年前から人の死を知り、死んだ人間の心臓や血肉を食べると言われている恐ろしい夜叉の仲間ですが、先ほど述べたように、稲荷大明神の使いとされている狐も肉食で、死体を食べる習性があると言われています。


このように死体を食べるダーキニー(荼枳尼天)の習性と、狐の習性がよく似ている事から、豊川稲荷や最上稲荷にお祀りされている荼枳尼天は、白狐に乗る天女の姿で描かれているのですが、この白狐が稲荷大明神(荼枳尼天)の使いになった縁起について、次のような伝承が残っています。


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昔、京都北区の船岡山の辺りに、老いたキツネの夫婦が住んでいました。牝は銀の針を立てたような白毛で、身体は狐でしたが、首は鹿で、五匹の子狐を連れていました。  弘仁年間、狐の老夫婦は、五匹の子狐を連れて稲荷山にお参りし、神前にぬかずいて、「私たちは畜生の身ですが、生まれたときから霊智を備え、世を守り、諸人を助けたいとの願いを持っています。しかし、狐の身では、この願いを遂げる事は難しく、叶えられるならば、今日から当社の眷属となり、神威をかりてこの願いを成し遂げたいと思います」と申し出たところ、稲荷大神は大変喜ばれ、「汝等の願いは殊勝である。よって、今から長く当社に仕え、お参りの人々を助けよ。牡の狐は「小薄(こすすき)」と名乗って上之宮に仕え、牝の狐は「阿古町(あこまち)」と名乗って下之宮に仕えよ」と告げられたので、狐の夫婦は、各々十の誓約を立てて、万人の幸を守り、願いを満たしてきたと言われています。



この伝承を読んですぐ脳裏に浮かんだのは、スリッパや靴を運んできた狐が五匹の子連れであった事と、境内に鹿の角と足が落ちていた事です。


法徳寺で起こったこれら一連の出来事と、京都に住んでいた狐夫婦の牝の首が鹿で、しかも五匹の子狐を連れていたと言う船岡山伝承の内容が重なり、「境内に住んでいた狐の家族を、稲荷大明神の遣いとなった船岡山の狐に見立て、私たちを伏見稲荷へ導く手立てに違いない」と悟らせて頂いたのです。


◇弘法大師と伏見稲荷とのご縁◇


もう一つは、やはり伏見稲荷と弘法大師様との深いご縁です。


後述するように、伏見稲荷大社の創建には二つの伝承があり、その内の「荷田(にだ)氏系の稲荷伝承」によれば、伏見稲荷大社の創建に、お大師様が深く関わっておられる事が明らかになっています。


法徳寺は、お大師様と不二一体の生き仏となられた普門法舟大菩薩様をご本尊と仰ぎ、高野山(たかのやま)の山号を頂く聖地であり、お大師様とご縁の深い稲荷大明神が、新たに法徳寺とご縁を結ばれたとしても何ら不思議はありません。


こうして、法徳寺で起こった一連の出来事と、狐が伏見稲荷大明神の使いとなった船岡山の伝承、そして、お大師様と伏見稲荷大社との深い因縁などから、京都の伏見稲荷大社に導かれていると悟らせて頂いたのです。


お参りの日は、連休明けの五月十三日(土曜日)に決まりましたが、家族全員でお参りしたいと思い、東京にいる子供にも、お参り出来ないかどうか尋ねたところ、予定があると言うので、一旦は一緒に行く事を諦めていました。


ところが、その後、「予定が変わったので、一緒にお参りできるようになった」との連絡が入り、家族全員でお参りさせていただけるようになったのですが、実は、この予定変更の中に、お大師様、菩薩様のお計らいが隠されていたのです。


後述するように、どうしても子供が一緒に行かなければならない理由があるから、お大師様、菩薩様が、子供の予定を変更して、一緒に行けるようにして下さったのです。


残念ながら、そのお計らいの意味を悟らせて頂いたのは、伏見稲荷大社へお参りする前ではなく、お参りから帰って数日経ってからでした。


合掌



稲荷大明神勧請(1)
稲荷大明神勧請(2)
稲荷大明神勧請(3)
稲荷大明神勧請(4)
稲荷大明神勧請(5)
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2017年10月04日

カマキリの産卵と土嚢積み!

今朝、夢殿の御回廊の柵で、産卵中のカマキリを見かけたので、思わずパチリ!
目と目が合って驚いたのか、暫くしてどこかへ行ってしまいました。
産卵の邪魔をして、御免なさいね。


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午前中、家族みんなで、境内の西側斜面の土嚢積み作業をしました。
10年ほど前に積んだ土嚢が劣化してきたので、手遅れにならない内の修復です。
これで暫く安心です。


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2017年10月02日

三輪神社・秋の例祭と須玉甲斐源氏祭り!

昨日は、忙しい一日でした。
午前10時から、若神子三輪神社にて秋の例大祭が執り行われ、区長としてお招きを頂いておりましたので、区を代表してお参りさせて頂きました。
氏子総代様をはじめ、役員の皆様には、大変お疲れ様でした。


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同じく午前10時より、須玉ふれあい館広場にて、須玉甲斐源氏祭りが開催されましたので、三輪神社の例大祭が終わった後、そちらの方へ応援にかけつけました。
昨年末より仲間に入れて頂いている無尽の集まり「仲友会」が、屋台村に出店しているので、そのお手伝いに行ったのですが、みんな手慣れたもので、私はただ茫然と見つめるしかありませんでした(笑)
みんなで作った焼うどんやフランクフルト、きゅーりの一本漬け、ジャンボぎょうざなどの販売も好調で、閉店間際には完売となりました。
ショーの方は、地元の須玉中、須玉高の生徒、更に姉妹都市である西東京市のビッグバンドによる演奏、有志によるよさこい踊り、甲斐源氏太鼓、サクライザーショー、お笑い芸人ライブなど、多彩のプログラムで大いに盛り上がり、観客席からは盛んな拍手が送られていました。


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