2017年05月23日

芍薬が咲きました!

芍薬が綺麗に咲きました。


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「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」と、美人を形容する言葉にも使われる花だけあって、艶やかさは、牡丹に引けを取りませんね。


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2017年05月21日

ようこそお帰り下さいました!

今日は、今年5回目のご縁日です。
ご同行の皆様には、遠路はるばるお帰りいただき、ありがとうございました。


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2017年05月20日

「福は内、鬼も内」に込められた願い(4)

◇第二の矢を受けず◇


「福は内、鬼も内」に込められた願いに応える為に、いつも心に刻んでいるのが、お釈迦様の「第二の矢を受けず」という教えです。


お釈迦様は、或る日、弟子たちにこう尋ねられました。


まだ私の教えを聞いていない人たちは、楽受を受け、苦受を受け、非苦非楽受を受ける。すでに私の教えを聞いた弟子のあなたたちも、楽受を受け、苦受を受け、非苦非楽受を受ける。では、私の教えを聞いたあなたたちと、まだ私の教えを聞いていない一般の人たちは、どこが違うのか?


楽受とは、自分にとって好都合な事、苦受とは、自分にとって不都合な事、非苦非楽受とは、どちらでもない一般的な事柄を指しますが、人生を生きていますと、好都合な事だけでなく、不都合な事にも度々遭遇します。


その時、どのように思い開きをすればよいかを教えられたのが、「第二の矢を受けず」という教えです。


弟子たちよ、まだ私の教えを聞いていない人々は、苦受をうけると、嘆き悲しんで、益々混迷を深くする。それは、ちょうど第一の矢を受け、さらに第二の矢を受けるようなものである。それに対して、すでに教えを聞いた人々は、苦受をうけても、いたずらに嘆き悲しんで、混迷を深くする事がない。それを、「第二の矢を受けず」というのである。


法徳寺は、八ヶ岳の南麓に位置し、標高六百メートルの山上にあるため、冬になると、「八ヶ岳降ろし」の異名をとる強風が境内を吹き抜けます。


体の芯まで堪える厳寒の強風の中を、毎日、夢殿の御回廊廻りの行をさせて頂いていますと、手袋をはめていても、手が凍るほどの冷たさです。


寒い時は寒く、暑い時は暑く感じるのは、肉体がある以上、避けられませんが、これは、お釈迦様やお大師様や菩薩様のように悟られたお方であっても同じで、悟っておられるからと言って、寒さや暑さを感じない訳ではありません。


では、悟りを開かれたお方と、まだ教えを知らない、悟りを開いていない人々とではどこが違うのかと言えば、悟りを開かれたお方は、そういう不都合な出来事に遭遇しても、愚痴をこぼしたり、怒りの心に染まる事がありません。


何故かと言えば、どんなに不都合な事があっても、それを悟って不都合を好都合に変え、決して動じる事がないからです。


◇願いを運んでくれる清風◇


冬になると、身も凍る強風を運んでくる「八ヶ岳降ろし」は、一見不都合な風のように見えますが、実は法徳寺にとって、この上なく有り難い風でもあります。


チベット仏教が盛んなチベットやブータンでは、経文が書かれたタルチョと呼ばれる五色(青、白、赤、緑、黄)の旗や、ダルシンと呼ばれる白い旗が、谷間や建物の屋根に結ばれ、風に揺らめいている光景をよく見かけますが、何故タルチョやダルシンが風の通り道に掛けられているのかと言えば、み仏(経文)の功徳が風に乗って世界中に伝わっていくようにとのチベットやブータンの人々の願いが込められているからです。


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ご承知のように、チベットは、共産党による一党独裁政権下の中国によって一方的に侵略され、数百万人と言われる無辜(むこ)の人々が虐殺され、民族浄化政策や伝統文化の破壊などによって、今も悲惨な状況に置かれています。


またブータンも、領土の一部がいつの間にか中国領に編入されるなど、強大な軍事力を背景とした中国の侵略の前に、為す術もない状況におかれています。


タルチョやダルシンには、み仏の功徳を世界中に伝え、一日も早く平和な祖国を取り戻したいというチベットやブータンの人々の、切実な願いが込められているのです。


世界中が、貪(貪り)、瞋(怒り)痴(妬み)の三毒煩悩に蝕まれ、憎しみと争いと恐怖の修羅場と化している状況にあるからこそ、一刻も早く三毒煩悩を清め、心の闇を照らす仏法が、苦しむ人々の下に届けられなければなりません。


法徳寺の境内には、ご縁の皆様からご奉納していただいた幟(のぼり)が立っていますが、この幟は、チベット仏教のタルチョやダルシンに由来しています。


つまり、ご奉納して頂いた幟には、チベットやブータンの人々がタルチョやダルシンに願いを込めているのと同じように、弘法大師様、法舟菩薩様、身代り升地蔵菩薩様の御高徳(法の功徳)が、風に乗って一人でも多くの人々の下に届けられるようにとの願いが込められているのです。


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強風のため、一年ほどでボロボロになってしまいますが、幟に染め抜かれたみ仏の御宝号の文字が薄れ、生地がボロボロになればなるほど、それは、み仏の功徳(仏法)が風に乗って、世界中に運ばれていった証でもあるのです。


一見不都合な風としか思えない「八ヶ岳降ろし」ですが、実は、み仏の救いの光明を、苦しむ人々の下へ運んでくれる、法徳寺にとって無くてはならない慈悲の清風でもあるのです。


◇不都合な先覚者の最期◇


お釈迦様、お大師様、菩薩様をはじめとして、ご生涯を衆生済度の使命にささげられた先覚者の方々には、或る共通点があります。


それは、どなたの最期もみな、一般の人々が願うような極楽往生ではなかったという事です。


十字架刑に処せられたイエス・キリストは言うに及ばず、お釈迦様にしても、お大師様、菩薩様にしても、親鸞、道元、日蓮にしても、最期は、病気で亡くなられたり、様々な試練の中で生涯を閉じておられます。


ところが、そんな状況に置かれた先覚者の方々に共通しているのが、どんなに不都合な最期であっても、その心(信心)はまったく揺れ動かなかったという事実です。


例えば、お釈迦様は、鍛冶職人のチュンダが供養した茸料理を食べ、激しい下痢を起こして亡くなられたと言われています。


自らが出した食事が原因で、尊敬するお釈迦様を死に追いやったチュンダの胸中は察するに余りありますが、お釈迦様は、嘆き悲しむチュンダの行いを責めるどころか、その功徳を讃え、労をねぎらわれたのです。


このような状況に置かれれば、人は誰でも、チュンダを責め、恨み言を言うに違いありませんが、お釈迦様の慈愛の心は全く変わりませんでした。


心が変わらなかったのは、お釈迦様がすでに、悟りの境地に到達しておられたからです。


いま思えば、チュンダが積んだ本当の功徳は、お釈迦様を供養した事よりも、その事によって、いかなる不都合な事が身に降りかかっても微動だにしないお釈迦様の心の奥底を、後世の私たちにハッキリ示してくれた事だったと言っていいでしょう。


いま私たちが、お釈迦様は、間違いなく悟り(仏)の境地に到達しておられたと、確信をもって断言出来るのは、不都合な状況の中で最期を迎えられたにも拘わらず、その心が微動だにしなかった事実を知る事が出来るからです。


◇お釈迦様を守った悟りの智慧◇


死という人生最期の瞬間を、平常心で迎えられるお方は少なく、ましてやその最期が、自分にとって甚だ不都合な状況であれば、平常心でいられるお方は稀と言っていいでしょう。


しかし、これは、お釈迦様とて同じで、もしお釈迦様にお悟りの智慧がなければ、私たちと同じように、不都合な人生最期の瞬間を平常心で迎える事は難しかったのではないでしょうか?


お釈迦様が人生最期の瞬間を平常心で迎えられたのは、悟りの智慧がお釈迦様を守ったからです。


この事実から、私達は、お釈迦様と私達の違いが、悟りの智慧を得ているか得ていないかの違いに過ぎない事を学ばなければなりません。


勿論、この違いは、人生を百八十度変えるほど大きなものですが、そうであったとしても、違いはたったそれだけと言っていいでしょう。


つまり、私達もまた、悟りの智慧を磨きさえすれば、お釈迦様と同じように、どんなに不都合な人生最期の瞬間がやってきても、平常心で迎える事が出来るという事です。


但し、悟りの智慧を磨くと言いましても、すぐに悟りの智慧が磨ける訳ではなく、やはり毎日毎日の精進が欠かせません。


今ここでハッキリ申し上げられる事は、不都合な出来事の中にこそ、私たちの信心を育み、悟りの智慧を磨いてくれるみ仏の慈悲心が注がれているという事です。


菩薩様が、『道歌集』の中で、
  よきことも 悪しきことをもみ仏の
    慈悲と思えば ありがたきかな
  苦しみが あるから菩提の花が咲
    苦をもつ人こそ しあわせなりけり
  苦しみを 悲しむことより喜べよ
    深き悩みが 菩提となるなり

と詠っておられるように、不都合な出来事に遭遇した時こそ、そのご縁に手を合わせ、一日も早く悟りの智慧を磨かせていただけるよう、感謝の心で精進させて頂かなければならないのです。
  人はみな 仏の慈悲にと育てられ
    苦楽の中で 人となりゆく
  人になれ 人になれよとみ仏は
    心苦しめ 人とならしむ


◇変らなかった菩薩様の信心◇


菩薩様が代受苦行の中で人生最期の時を迎えられ時、おっしゃった言葉があります。


当時、私たちはまだ信心も浅く、菩薩様のみ心も分っていなかったため、 「菩薩様ほど、お大師様を深く信仰しておられるお方は居ないのに、何故お大師様は、菩薩様をもっと楽にして下さらないのか?」と、お大師様を仇に思った事があります。


その時、誰よりもお辛い筈の菩薩様が、お大師様に恨み心を抱いた私たちを諭し、「この子たちはまだ何も分っておりません。大変な思い違いをしております。申し訳ありません」と言って、お大師様にご懺悔して下さったのです。


私達から見れば、甚だ不都合に見えた代受苦行でしたが、菩薩様にとっては、お大師様と不二一体の生き仏となる為には、どうしても乗り越えなければならない道のりであり、その事を深く悟っておられたからこそ、思い違いをしている私達に代わって、ご懺悔をして下さったのだと思います。


菩薩様の心は、どんなに辛い状況にあっても、微動だにせず、第二の矢を受けておられなかった事は明らかです。第二の矢を受けていたのは、私達でした。そして、こうおっしゃったのです。


「お大師様をただ信じるのではない。信じ切らなければいけない」


恐らく菩薩様は、私たちが、お大師様の事を、まだそこまで信じ切れていない事を見抜いておられたのでしょう。


だからこそ、最期を迎えるに当り、揺るぎ無い不動の信心とはいかなる心かを、身を以て示して下さったのです。


菩薩様はよく、「私の心がどうなっているか、心の中を切り開いて見せられるものなら見せたい」とおっしゃっておられましたが、今思えば、どんな事があっても揺るぎない不動の信心とは何かを、私たちに教えようとしておられたに違いありません。


◇信心の鎧兜で身を守る毘沙門天◇


仏法の守護神として知られる四天王の中でも、北方の守護神である毘沙門天は、特にそのお力に優れていると言われています。


その象徴とも言えるのが、全身を包んでいる鎧兜ですが、この鎧兜は、決して外敵に打ち勝つ為のものではありません。


心の中にある様々な迷いや分別心や執着心に打ち勝つ為の、信心の鎧であり、智慧の兜なのです。


この信心の鎧、智慧の鎧を身にまとっていれば、もはや鬼に金棒で、どんなに不都合な出来事に遭遇しても、その心が揺れ動く事はありません。


都合の好い事があれば、「有り難い、有り難い」と言っていられても、不都合な事があれば、「有り難い」とは言っていられなくなり、み仏に不信感を抱くようになるのが、大部分の人々ですが、その不都合な事さえも、み仏のお慈悲と受け止められる不動の信心と悟りの智慧を成就しておられるのが、毘沙門様です。


勿論、毘沙門様といえども、不都合な出来事(疫病神)の裏に隠された好都合な側面(福の神)を見る信心の鎧と、その真相を悟る智慧の兜をまとっていなければ、心の底から有り難く感謝して受け入れる事は難しいでしょう。


真相を見る眼を持ち、不動の信心を成就する為には、どうしても不都合を好都合に変える悟りの智慧が欠かせないのです。


合掌


「福は内、鬼も内」に込められた願い(1)
「福は内、鬼も内」に込められた願い(2)
「福は内、鬼も内」に込められた願い(3)
「福は内、鬼も内」に込められた願い(4)


高野山法徳寺Website

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2017年05月17日

ゴーヤの苗植え!

ゴーヤの苗を買ってきたので、朝から、蔓を這わせるネット張りをしました。
毎年の事ながら、大変です(笑)


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2017年05月15日

赤い牡丹と火の国

先日の白い牡丹に続き、艶やかな赤い牡丹が咲きました。


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火の国(さつき)も、真っ赤な花を咲かせています。
花の蜜に誘われて、ミツバチが、せっせと蜜を集めていますが、足に大きな花粉の塊がくっついているのが見えます。
共存共栄、持ちつ持たれつが、自然界の大原則です。
自然界では、一人では生きていけません。
人間界に争いが絶えないのは、多分、共存共栄であるべき自然界の法則に反しているからでしょう。
人間も、自然界の一部だという事を忘れないようにしたいものです。
そうすれば、世の中は今よりもっと平和になるに違いありません。


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2017年05月14日

伏見稲荷大明神の勧請!

平成16年4月13日に高野山法徳寺が発足して、今年の4月13日で、13年目に入りましたが、四日後の17日に、早速思いもよらぬお計らいがあり、稲荷大明神を法徳寺にお迎えさせていただく事になりました。
昨日、稲荷大明神を法徳寺に勧請させていただく為、家族全員で、京都の伏見稲荷大社にお参りさせて頂きました。


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稲荷大明神の総本社と言われるだけあって、生憎の雨にも拘わらず、一般の参拝者をはじめ、海外からの観光客や、修学旅行生など、大勢の参拝者で賑わっていました。


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千本鳥居は、先へ進めないほど大勢の人でごった返していたので、奥まで行くのを諦めて、途中から引き返してきました。


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御祈祷をしていただきながら、法徳寺から持参していった依り代に、無事、稲荷大明神を勧請させていただく事が出来ました。
もっと早くお迎えさせていただいてもよさそうですが、それは凡夫が考える事であって、み仏の段取りでは、13年目に入る今年でなければいけない深い意味があるのだと思います。
紀州高野山のお大師様の御廟の横にも、稲荷大明神が守護神としてお祀りされているので、法徳寺に稲荷大明神をお迎えさせていただける事は、ただただ有り難い限りです。


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南無稲荷大明神


合掌

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2017年05月11日

牡丹と石楠花が咲きました!

今年も、玄関先の牡丹と石楠花が綺麗に咲きました。


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赤い牡丹はまだ蕾ですが、毎年、白い牡丹が先に咲きます。
石楠花の花も、燃えるような赤です。


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2017年05月10日

「福は内、鬼も内」に込められた願い(3)

◇不都合を避けたい人間の本性◇


そもそも何故、人間は様々な事柄について分別をするのかと言えば、やはり不都合な事を避け、苦しみを逃れたいからです。


自分にとって好都合と不都合を分別し、不都合な事を避けようとするのは、まさに人間の本性と言ってもいいでしょうが、何故人間の本性に反してまで不都合な事を在るがまま受け入れなければいけないのかと言えば、そこに、縁起というものが深く関わっているからです。


お釈迦様は、「一切諸法は因縁より生ず」と説いておられますが、どんなに不都合な境遇や出来事であっても、結果としてわが身に降りかかってきたからには、必ず過去にその原因を作っていると、悟らなければなりません。


「火のないところに煙は立たず」という諺があるように、何の原因もなしに、不都合な事がわが身に降りかかってくる事は決してありません。


「好都合な事は受け入れられるが、不都合な事は受け入れられないのが、人間の本性である」と申しましたが、これは、裏を返せば、自分が作ってきた因縁を否定するという事であり、縁起の理法に反していますから、根本的な解決にはなりません。


◇不都合な因縁を解く道◇


好都合な事だけでなく、不都合な事もすべて、縁起の結果であるという事は、言い換えれば、その縁起から逃れる事が出来ないという事です。


自らが過去にその原因を作っている以上、もう一度、自らの手でその因縁を解かない限り、因縁は、形を変えてどこまでも後を追いかけてきます。


古歌に、
 浪の音 嫌じゃと思うて山ごもり
    声色変えて 松風ぞ吹く
と詠われているように、波の音が煩くて不都合だから、海を避けて山奥へ入っても、自らが背負う因縁を解かない限り、波の音が松風の音に変わるだけで、問題は何も解決されていません。


ですから、先ずすべての縁起を在るがまま受け入れた上で、不都合な因縁を解いていかなければいけないのです。


因縁を解くという事は、不都合な因縁(疫病神)を、悟りの智慧によって好都合な因縁(福の神)に変えていくという事です。


不都合を好都合に変えるためには、自分の立ち位置、物の見方、考え方を変える以外にありません。


立ち位置が変われば、今まで不都合としか見えなかった因縁が、実は好都合な因縁であったという事の真相が見えてきます。


つまり、今まで不都合な因縁を拒み、「福は内、鬼は外」としか思えなかった心が、すべてを在るがまま受け入れ、「福は内、鬼も内」と思える心に変わるのです。


◇良寛さんのお悟り◇


物事の好都合、不都合を分別しているのが、他の誰でもなく、自分自身であるという事は、自分の立ち位置さえ変われば、不都合が好都合に変るかも知れない可能性を秘めているという事です。


つまり、まだ真相を見極める悟りの眼が開けていないから、好都合な部分が見えていないだけで、悟りの眼が開ければ、不都合が好都合に変りうるという事です。


良寛さんの言葉に、こんな言葉があります。


災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候」


「災難に遭わなければいけない時には、災難に遭いなさい。死ななければいけない時が来たら、素直に死を受け入れなさい。それが災難を逃れる不可思議な法(教え)ですよ」とおっしゃっておられるのですが、良寛さんとて、災難に遭いたくないし、死にたくはない筈です。


にも拘わらず、あえて良寛さんが、災難や死を在るがまま受け入れなさいと、おっしゃったのは、何故でしょうか?


先ほども言ったように、いくら不都合な事であっても、それが縁起の結果である以上、逃げたり避けたりしているだけでは、問題は何も解決しないからです。


不都合な事だからこそ、それから目を背けるのではなく、先ずそれを在るがまま受け入れて、不都合な因縁の裏に隠されている真相を悟り、不都合な因縁を解いていく事が大切なのです。


そうすれば、不都合な因縁が実は不都合ではなかったという事が分かってきます。


そう納得出来た時、「不都合な因縁が解けた」と言い、「心が救われた」と言い、菩薩様の言う「福は内、鬼も内」の心が成就出来た、と言うのです。


◇味方につけるか、敵に回すか◇


要するに、「不都合な相手を味方につけるか、敵に回すか」という事です。


先にお話した吉祥天と黒闇天の例で言えば、誰もが福の神である吉祥天を味方につけたいのです。しかし、吉祥天を味方につけたければ、一心同体の黒闇天も一緒に受け入れなければなりません。黒闇天を受け入れなければ、吉祥天を味方にする事は出来ません。


不都合な黒闇天を味方につけるか、敵に回すかの決断一つで、都合のよい吉祥天を味方につけるか、敵に回すかが決まるのですから、まさに人生の幸不幸を左右するほどの大きな決断と言ってもいいでしょう。


敵に回すという事は、不都合な相手を拒絶するという事です。「不都合なあなた(黒闇天)を受け入れる事は出来ません。私にとって、あなたは敵です」と言っているのと同じです。


味方につけるという事は、「あなたを受け入れます。あなたは私の仲間です」という事です。


不都合な黒闇天を不都合なまま拒絶して敵に回すか、それとも、悟りの智慧を開いて味方につけるかですが、黒闇天(鬼)の立場に立てば、誰からも嫌われている黒闇天を敵に回すより、味方に付けた方が得策である事が分ります。


黒闇天を味方につければ、吉祥天を味方につける事が出来るからです。


勿論、都合の悪い黒闇天を受け入れると言っても、嫌々受け入れたのでは、受け入れた事にはなりません。受け入れる以上は、有り難く、納得して、感謝の心で受け入れさせていただかなければなりません。


「災難が来てもこれでよし。お迎えが来てもこれでよし。どんな不都合な事に遭遇してもこれでよし」と頷けるようになって初めて、良寛さんがおっしゃるように、一切を在るがまま感謝して受け入れられるようになるのです。


「どうすれば一切を在るがまま、有り難く、納得して、感謝の心で受け入れられるか」と言えば、やはり不都合な因縁の裏に隠されているみ仏の本心を悟り、自分自身が「これでよし」と納得する以外にありません。


◇死もまた好(よ)きかな桜花◇


菩薩様が、こんな歌を遺しておられます。
 生も好し 死もまた好きかな桜花
    散れば咲きにと また帰りくる


「生だけではなく、不都合な死をも、在るがまま受け入れていこう」という事ですが、人間を含め、森羅万象(生きとし生けるもの)はすべて、生まれては死に、死んでは生まれ、咲いては散り、散っては咲きながら、流転生死を繰り返しています。


生も死も、止まる事のない時間の流れの一こまに過ぎませんが、その一コマに過ぎない生と死を分別し、生は都合がよいが、死は都合が悪いと言って拒んでいるのが、世間の人々であり、「福は内、鬼は外」としか思えない心なのです。


しかし、切り離すことの出来ない生と死を分別して、一方だけを不都合だと言うのは筋が通りませんし、不都合な因縁も解けていきません。


不都合な因縁を解くためには、どうしても菩薩様の言われる「福は内、鬼も内」と思える心を成就しなければならないのです。


◇地獄の中に仏あれば地獄なし◇


道元禅師も、分別心を離れる事の大切さを、次のように説いておられます。


生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし。ただ生死即ち涅槃(ねはん)と心得て、生死として厭(いと)うべくもなく、涅槃としてねがうべきもなし。この時初めて生死を離るる分(ぶん)あり。


ここにいう「生死」とは、私たちにとって不都合な事柄、例えば、「鬼」「黒闇天」「地獄」「災難」「不幸」「苦しみ」などを象徴的に表現したもので、また「涅槃」とは、その反対に都合のよい事柄、例えば、「仏」「吉祥天」「極楽」「幸福」「喜び」などを現わしています。


この「生死」を「地獄」に置き換えてみると、こうなります。


地獄の中に仏あれば地獄なり、ただ地獄即ち涅槃と心得て、地獄として厭うべくもなく、涅槃としてねがうべきもなし。この時初めて地獄を離れる分あり。


誰も地獄へなど行きたくありませんし、極楽へ行きたいのが、万人共通の思いですが、実は、その「極楽へ行きたいが、地獄へ行きたくない」という分別心こそが、私たちを地獄へ引っ張っていく張本人である事に誰も気付いていません。


極楽へ行きたければ、その分別心を離れなければなりません。悟りの智慧を磨き、不都合な事をも在るがまま受け入れられる心を成就しなければならないのです。


これが、良寛さんの言う「災難を逃れる妙法」であり、道元禅師の言う「生死を離るる分」であり、菩薩様の言う「死もまた好きかな桜花」であり、「福は内、鬼も内」の心です。


◇道は二つに一つ◇


こうして見てくると、お釈迦様もお大師様も菩薩様も、良寛さんも道元禅師も、みな同じ事をおっしゃっておられる事が分かりますが、もしお釈迦様やお大師様から、「私と一緒に地獄へ行ってくれないか。地獄には、苦しむ人々が大勢いる。その人々を救う為に地獄へ行かなければいけない。私の手足となって、一緒に地獄へ行ってくれないか」と言われたら、皆さんはどう答えられるでしょうか?


「地獄へは行きたくありません」と答えるか、それとも「お釈迦様のお手伝いをさせて頂けるのであれば、喜んでお供をさせて頂きます」と答えるか?


それによって、自分が地獄と極楽のどちらへ行けるかが決まると言ってもいいでしょうが、地獄へ行きたい人は一人もいませんし、誰もが極楽へ導いて欲しい筈ですから、殆どの皆さんが、「地獄へは行きたくありません」と答えるのではないかと思います。


では、その逆に、「今から極楽へ行くけれども、一緒に来ますか?」と言われたらどうでしょうか?


今度は、殆どの皆さんが、「はい、喜んでお供します」と答える筈です。何故なら、極楽はよいが、地獄は嫌だという分別心が働いているからです。


「地獄へついてきて欲しい」と言われて、「はい」と答えられないのも、同じ理由からです。


しかし、その分別心に執着している限り、本当の極楽は見えてきません。求める極楽は、その分別心を超えたところにあるからです。


菩薩様の言われる「福は内、鬼も内」という言葉には、その分別心を超えて、本当の極楽を見て欲しいという願いが込められているのです。


合掌


「福は内、鬼も内」に込められた願い(1)
「福は内、鬼も内」に込められた願い(2)
「福は内、鬼も内」に込められた願い(3)
「福は内、鬼も内」に込められた願い(4)


高野山法徳寺Website

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2017年05月03日

「福は内、鬼も内」に込められた願い(2)

◇戦わずして勝つ◇


「福は内、鬼は外」の世界は、私たちの立場から見ると、とても都合の良い世界ですが、では鬼の立場から見ると、どうなのでしょうか?


「鬼は外」と言って豆を投げられる鬼は、自分が誰からも嫌われ、攻撃すべき敵であると思われている事を知り、悲しい気持ちになるのではないでしょうか?


私たちが自分の事を誰よりも大事に思うように、鬼も自分自身を大切に思っている筈です。


ですから、もし自分が誰からも嫌われ、いつ攻撃されるかも分からない事を知れば、いつ攻撃されても反撃出来るよう、万全の準備を整えて待ち構えようとするに違いありまん。


そんな時、「あなたは私たちの敵ではありません。あなたも私たちの仲間です。どうか安心して仲間に入って下さい」と言われたらどうでしょうか?


もう攻撃してくる相手が居ないのですから、自分を守る必要がありません。今まで敵だと思っていた相手から、仲間だと言われた鬼は、攻撃(反撃)しようとする心を捨て、私たちの為に働いてくれるようになるでしょう。


『孫子』の兵法に、「戦わずして勝つ」という言葉がありますが、まさに敵であった鬼を味方につければ、勝ったも同然です。


否、そもそも鬼を敵(不都合な相手)としてしか見ることの出来ない心は、まだ悟りの智慧が開けていない証拠であり、これではいくら待っても、争いの種を摘む事は出来ず、戦っても勝てる道理がありません。


鬼は戦うべき敵ではなく、仲間に入ってもらい、福の神に生まれ変わってもらわなければならない相手なのです。


◇仏教に帰依した守護神たち◇


仏教には、大勢のみ仏や菩薩がおられますが、大別すれば、四つに分類する事が出来ます。


先ず、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来、釈迦如来等の、如来と言われるみ仏です。


次に、観自在菩薩、地蔵菩薩、文殊菩薩、勢至菩薩、普賢菩薩等の菩薩と呼ばれるみ仏です。


更に不動明王、愛染明王、孔雀明王などの明王と呼ばれるみ仏がおられます。


そして、毘沙門天、大黒天、吉祥天、弁財天、帝釈天などの、天部(てんぶ)と呼ばれる神々がおられますが、この天部の神々は、仏教本来の神々ではなく、実はインドの国教であるヒンドゥ教から、仏教に帰依して守護神となられた異教の神々なのです。


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つまり、最初は仏教の敵とも言うべき立場におられた異教の神々が、仏教に帰依して仏法を守る守護神となり、み仏の仲間入りをされたのです。


まさに「戦わずして勝つ」の兵法通り、異教の神々までをも受けいれ、味方につけてしまった好例と言っていいでしょう。


不都合な相手をも受け入れ、いかなる者をも漏らさず救いの御手を差し伸べ給うお釈迦様の大慈悲心が、仏教の敵ともいうべき異教の神々を味方につけ、新たな守護神としての使命を与えられたのです。


菩薩様がおっしゃった「福は内、鬼も内」という言葉にも、お釈迦様の慈悲の精神が脈々と流れている事は言うまでもありません。


◇分別心の罠◇


それにしても何故私たちは、「福は内、鬼は外」と言って、鬼を忌み嫌うのでしょうか?


それは、自分にとって都合の善い事と不都合な事を分別する心があるからです。


自分の立ち位置から、好都合と不都合を色分けし、好都合な事を福とし、不都合な事を鬼として分別しているのですが、この分別心は、自分中心の世界に生きている限り、なくなりません。


つまり、自己中心の世界に出現する福や鬼は、本当の福や鬼ではなく、自分にとって都合が善いか悪いかの基準で色分けされた福や鬼に過ぎないという事です。


言い換えれば、自分にとって不都合だから今は鬼になっているけれども、自分にとって好都合になれば、いつでも福に変わる鬼なのです。


逆に、もしこの福が自分にとって不都合なものになれば、いつでも鬼に変わってしまう福に過ぎません。


福はどこまで行っても福、鬼はどこまで行っても鬼と思いがちですが、迷いの人間が考える福や鬼は、決してそうではありません。


自分自身が福や鬼を決めている基準なのですから、これほどあいまい模糊とした基準はありません。


このあいまいな基準を元として、物事を分別している限り、本当の福も本当の幸せも永遠に訪れないでしょう。


◇本当の福の神は誰か?◇


では、私たちが求めている本当の福の神はどこにいるのでしょうか?


その福の神に逢う為には、不都合な事をも含めて一切を在るがまま受け入れる心を成就しなければなりません。


しかし、この「一切を在るがまま受け入れる心」とは、受け入れたくないけれども、やむを得ないから受け入れようという消極的、受動的な気持ちではありません。


受け入れるからには、有り難く受け入れさせていただこうという、もっと積極的で能動的な心なのです。


勿論、不都合な事を有り難く受け入れなさいと言っても、不都合のまま受け入れるのは難しいでしょう。


ですから、不都合のまま受け入れるのではなく、不都合だと思っていた事が実は不都合ではなく、好都合だったのだと納得し確信できるまで、悟りの智慧を磨かなければなりません。


福の神と疫病神の例で言えば、今まで疫病神だと思っていた黒闇天のもう一つの顔が、福の神の吉祥天だという事を、心の底から納得できるまで、悟りの智慧を磨こうという事です。


そこまで悟りの智慧が磨かれれば、もう福の神を外に求める必要はありません。何故なら、あなた自身がすでに福の神になっているからです。


つまり、真の福の神は、あなた自身なのです。


残念ながら、世間では、福や鬼を心の外に見て、「福は内、鬼は外」と唱えながら豆まきをしていますが、不都合な事をも在るがまま受け入れる心に目覚め、「福は内、鬼も内」と唱えられるようになった時、自分が本当の福の神だったのだという事が分かってきます。


「福は内、鬼も内」という掛け声には、自らの内に眠る福の神を呼び覚まし、他の人々に福を授けられる人間になって欲しいという願いが込められているのです。


◇善分別と悪分別◇


分別心が救いの邪魔をしていると申しましたが、ではどんな分別もしてはいけないのかと言えば、分別心がすべて悪い訳ではありません。


例えば、正しい教え(仏法)と間違った教え(邪教)を見極める分別心は、善分別であり、大いに推奨されています。


例えば、テロリストの背後にいるISILやアルカイダなどのイスラム過激派組織は、自分たちをイスラム教徒と名乗っていますが、敬虔なイスラム教徒たちは、「彼らは真のイスラム教徒ではない。ただイスラム教の皮を被っている狼に過ぎない」と言って、イスラム過激派を真のイスラム教徒とは認めていません。


勿論、イスラム教徒がすべてテロリストではありませんし、テロリストになる訳でもありませんから、真のイスラム教徒と、イスラム教徒の皮を被っているにすぎないテロリストをはっきり分別し、見極める眼を持つ事が大切です。


しかし、それを混同して、イスラム教徒はすべてテロリストだと決めつけるのは、明らかに自分たちの立ち位置から好都合、不都合を色分けし、分別しようとする悪分別と言わねばなりません。


その意味で、中東やアフリカの一部の国々からの流入を禁止するためトランプ大統領が署名した大統領令は、明らかに悪分別によって出された大統領令と言わざるを得ないでしょう。


◇シリア移民の子・スティーブ・ジョブズ◇


トランプ大統領の政策は、イスラム教徒を差別する為ではなく、あくまでイスラム教過激派組織を信奉する一部のテロリストが流入してこないよう、入り口で食い止める為の施策でしょうが、だからと言って、自分たちの立ち位置だけから好都合、不都合を判断するのは、やはり悪分別と言わざるを得ません。


難民と言われる人々の中には、テロの脅威から家族を守るため、やむを得ず祖国を棄てて逃れてきた敬虔なイスラム教徒や、アメリカの発展の為に有用な人物も大勢います。


例えば、iMacやiPhoneやiPadでIT革命を起こしたアップルコンピューターの創業者であるスティーブ・ジョブズの父親は、アブドゥルファター・ジャンダーリというシリアからの留学生でした。


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アメリカ人の女性と恋に落ち、ジョブズが生まれますが、女性の父親の猛反対で、自ら育てる事が出来ず、ジョブズは生まれる前から、ポール・ジョブズ、クララ・ジョブズ夫妻の下へ、養子に出される事が決まっていました。


ジョブズにしてみれば、母親の両親はまさに鬼とも言うべき人物だったかも知れませんが、彼は、その逆境を福に変え、「アメリカンドリーム」を実現して大成功を修めました。


彼の成功は、アメリカという国をも大きく発展させた事は言うまでもありませんが、もしアメリカ合衆国が、シリア人の流入を一切受け入れていなければ、アップルという会社は、この世に存在していなかったかも知れませんし、iMacもiPhoneも誕生していなかったかも知れません。


勿論、テロリストがシリアからの難民に紛れ込んでアメリカに入ってくる可能性は否定できませんが、だからといって、有能な人たちや、難を逃れてきた人々まで締め出すのは、本末転倒と言わねばならず、悪分別の何ものでもないでしょう。


合掌



「福は内、鬼も内」に込められた願い(1)
「福は内、鬼も内」に込められた願い(2)
福は内、鬼も内」に込められた願い(3)
「福は内、鬼も内」に込められた願い(4)


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posted by カンロくん at 17:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記