2016年12月31日

2016年大晦日の富士山!

平成28年(2016年)の大晦日の富士山です。
夕陽を浴びて、淡いピンク色に染まっています。
今年も一年間、有り難うございました。


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来年はどんな一年になるのでしょうか。
今日のお天気のように、穏やかな一年であって欲しいものです。
来年も宜しくお願いいたします。

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今年も一年ありがとう(1)

◇昇る朝日と沈む夕陽◇


大晦日が近づいてくると、いつも脳裏に浮かぶのが、菩薩様のこのお歌です。


朝日に感謝は するけれど
  沈む夕陽に 知らぬ顔
  今日も一日 ありがとう


毎年大勢の方が、初日の出を拝もうと、山に登る光景を目にしますが、昇ってくるご来光を拝みながら、「バンザイ!バンザイ!」と叫んだり、拝んでいる姿を見ていると、何とも微笑ましい気持ちになります。


しかし、その一方で、得も言われぬ寂しい気持ちに襲われるのも事実です。


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何故なら、西の空に沈んでいく大晦日の夕陽に、「一年間、有り難うございました。」と言って、感謝の祈りを捧げている人の姿を余り見た事がないからです。


正月準備の忙しさや、初日の出を拝む事に心が奪われて、大晦日の夕陽の事など忘れているのかも知れませんが、昇ってくる初日の出は、一年間その役目を果たして西の空に沈んでいった大晦日の夕陽が生まれ変わった姿なのです。


にも拘わらず、多くの人が、沈む夕陽への感謝を忘れて、昇る朝日だけを愛でているのです。


この光景を見る度に、「これから役目を果たすために昇ってきた初日の出と、役目を果たし終えて沈んでいった大晦日の夕陽と、どちらが私たちにとって有り難いのですか?」と尋ねたくなるのは、私だけでしょうか?


◇宇宙の壮大なドラマ◇


生まれたものは必ず死に、昇った朝日は必ず沈む、これがこの世の決まりです。


この地球でさえ、何十億年か後には消滅すると言われています。地球もオギャーと生まれた一個の生命体である以上、最後が来るのは当たり前ですが、消滅して終わりではありません。また新たな別の地球が、この広大な宇宙のどこかで産声をあげるのです。


古い命が消えれば、また新たな命が生まれる。これが大宇宙で繰り広げられている壮大な命のドラマです。


いま地球上に生きている私たちも、あと百年もすれば、誰もいなくなります。その代わり、新しい世代にそっくり変わっている筈です。


赤ちゃんが産まれれば、誰もが「かわいいね!」と言って、顔をほころばせますが、古いもの、去ってゆくもの、死んでゆくもの、滅びてゆくものには、誰も目を向けようとはしません。顔を背け、忌み嫌うお方さえいます。


生まれたものは必ず老い、病み、死んでいきます。昇った太陽は必ず西の空に沈んでいきますが、人々の関心は、昇る朝日には向いても、沈む夕陽には向かないのです。


自分もやがて沈む夕陽になる身であるにも拘わらず、「沈む夕陽に知らぬ顔」では、やがていつか憂き目を見なければならない時が来るでしょう。


◇掃除機に感謝の祈り◇


以前、十年ほど使った掃除機が故障して動かなくなった事があります。修理してもらおうと思い、電気屋さんに持っていったら、修理代が予想外に高かったので、思い切って新しい掃除機を買わせて頂く事にしました。


問題は、古い掃除機の処分です。


恐らく、大多数の方は、そのまま燃えないゴミに出すか、電気屋さんに引き取ってもらうのでしょうが、いずれにしても、毎日休む間もなく働いてくれた掃除機を、使えなくなったからと言って、そのまま捨てるのは余りにも不憫であり、申し訳ありません。それでは、「沈む夕陽に知らぬ顔」になってしまいます。


そこで、家族みんなで、汚れや垢を拭かせてもらい、般若心経を唱えて供養させて頂いたのです。


日本広しと言えども、掃除機に般若心経をあげて供養したのは、わが家くらいかも知れませんが、掃除機に言葉があれば、どんな言葉が返ってきたのでしょうか。


「私は、十年前にこのお宅へ嫁いできて以来、毎日身を粉にして働いてきました。汚いゴミを吸って、苦しい時も辛い時もありましたが、何一つ文句を言わずに働いてきました。もう体もボロボロです。でも、最後にこうして体を綺麗にぬぐって頂き、供養までして頂きました。今は、この家に嫁いで来て本当によかったと思っています。私の方こそ、本当にありがとうございました。生まれ変わったら、また必ずこの家に帰ってきます。その時はまたよろしくお願いします。」


恐らく、こんな言葉が返ってきたのではないかと思いますが、わが家では、新しく買った時も、般若心経をあげてお迎えするのが慣わしになっています。


電化製品に限らず、自動車でも、家財道具でも、これから家族の一員になる訳ですから、「はじめまして、これからよろしくお願いします」という気持ちを込めて、心経をあげさせて頂くのです。


勿論、最後のお別れをする時も、同じように「ありがとうございました。ご縁があれば、また帰って来て下さい。それまでゆっくりお休み下さい」と言って、心経をあげて供養させて頂きます。


たかが掃除機と言われるかも知れませんが、掃除機にも掃除機の心があり、生きてきた人生があります。


僅か十年余りの短い人生であっても、工場で産声を挙げ、ご縁があってわが家に嫁いで来てくれた掃除機ですから、最後のお別れくらい悔いのないようにしてあげたいと思うのです。


◇大切な心のお清め◇


これは何も掃除機に限ったことではありません。例えば、新車を買った時には、古い車を下取りに出しますが、下取りに出す時、皆さんは、古い車をどのような思いで見送ってあげているでしょうか。


今まで雨の日も風の日も、快適に乗せてもらった車です。
せめて下取りに出す時には、綺麗に洗わせて頂き、お礼の言葉をかけて見送ってあげるのが、お世話になった者としての真心ではないでしょうか。


その気持ちさえ忘れなければ、購入した新車の交通安全を祈る必要はありません。その気持ちが、すでに交通安全になっているからです。


以心伝心ではありませんが、古い車への思いは、必ず新しい車にも伝わっていますから、車が家族の安全を守ってくれる筈です。


新しい家を建てる時には、地鎮祭をして、土地を清め、工事の無事と家族の平穏を祈願しますが、古い家を壊す時はどうでしょうか?


恐らく、古い家屋のお清めをするお方は余りいないでしょう。


古い家屋のお清めと言っても、神社や寺院にお願いする必要はありませんし、何も難しい事はありません。家族みんなで綺麗にお掃除させて頂いた後、今までのご苦労に感謝の誠を捧げれば、それがお清めとなります。


それで物足りないと思えば、家の四方に、お塩とお酒を撒かせて頂けばよいでしょうが、大切な事は、家のお清めを通して、心のお清めをさせて頂くという事です。


それこそが、家をお清めする最大の目的であると言っても過言ではないでしょう。


ですから、古い家と新しい家の、どちらのお清めが大切かと言えば、今までお世話になった古い家のお清めなのです。


以前、土地をお清めして新しい家を建てたら、病気や怪我ばかりしてよくないことが続くので、悪い霊が憑いているのではないかと心配して、相談に来られた方がおられます。


私が、「家に霊が憑いているとか、先祖が祟っているとか、誰がそんな事を言うのですか。憑き物が憑いているという事は一切ありません。ただ、古い家を取り壊す時、今までのお礼を言って出て来られましたか?」とお聞きしたら、「いいえ、どうせ壊すからと思い、家財道具を運び出して、そのまま掃除もせずに出てきました」とおっしゃいました。


これでは、心のお清めが全く出来ていませんから、「沈む夕陽に知らぬ顔」となって、新しい家に引っ越しても、うまくいく筈がありません。


合掌


今年も一年ありがとう(1)
今年も一年ありがとう(2)


高野山法徳寺WebSite

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2016年12月29日

法徳寺年末恒例のお餅つき!

今日は、法徳寺年末恒例のお餅つきです。
朝から、二台の餅つき機がフル稼働で働いてくれました。


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餅を丸めるのは、専ら家内の役目です。
お菓子屋さんに勤めていて、お餅を丸めていた事もあるので、うまいものです。
こういうのを、「昔取った杵柄」と言うんでしょうね。


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29日にお餅つきをする家は少ないと思いますが、毎年29日に餅つきをするのには、それなりの理由がちゃんとあります。

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2016年12月28日

今朝の富士と甲斐駒!

今朝も冷えました。
霜柱が其処此処に立ち上がっていました。
富士山と甲斐駒も、日差しを浴びて輝いています。
富士山の山肌がアイスバーン状態であるのが、写真からもよく分かります。


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《追加》

午後四時過ぎに撮影した富士山です。
日差しが当たる方角が違うだけで、随分趣が変わりますね。


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2016年12月18日

風が吹きませんように!

今日の富士山は、沈みゆく夕陽に照らされて、薄っすらとピンク色に染まっています。
空気は冷え冷えとしていますが、風もなく、穏やかな一日の終わりを迎えようとしています。
2,3日、風が強かったので、落ち葉が積もったままです。
20日は、納め大姉にお参りされる皆様が来られるので、落ち葉集めは明日しかありません。
すべてはお任せですが、どうか風が吹きませんように…


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2016年12月15日

今日の甲斐駒!

駒ヶ岳と名のついた山は、全国に十八ありますが、その中の最高峰が甲斐駒ケ岳(2967m)です。


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仙丈ケ岳など、南アルプスの他の山々は、前山に阻まれてその全容を間近に見る事が難しいのですが、甲斐駒は、半ば独立峰のような姿勢で屹立しているため、人里からもよく見えます。
勿論、法徳寺からも。


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快晴の空に屹立するその山容を見ていると、やはり圧倒されます。
ちっぽけな人間が、さらにちっぽけに見えてきます。

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2016年12月14日

今日の富士山!

今日も朝から北西の風が吹き、境内の其処此処に落ち葉が積もりました。
落ち葉集めは、冬場には欠かせないの法徳寺の日課のようなものです。
方法は、ブロワーで吹き飛ばすか、吸引して集めるかですが、落ち葉が大量ですので、集める方が簡単です。
堆肥を作る為、大きな井桁を三つ作り、その中にもいれていますが、井桁はすでに満杯です。


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今日の富士山は、頂上付近が雲に覆われています。
恐らく今も登っている人がいるんでしょうね。
毎年、冬になると滑落事故で亡くなる方が出るので、地元自治体は富士山の冬山登山を原則禁止しています。
ものすごい強風と、ツルツルのアイスバーンですから、足を滑らせたら無事では済みません。
でも、登りたい人は、登りたいんでしょうね。


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2016年12月12日

生きるとは 往くも帰るも世のために 尽す人をば 生きるとぞいう

◇人間の生死(しょうじ)とは


人間は心臓が止まった時に死にます。世間の常識では、そう考えられています。移植医療の現場では、心臓が停止する前の脳死段階で死と判定されるようになっていますが、心臓死にせよ、脳死にせよ、肉体的機能が停止した時に人間は死ぬと考えられている事に変わりはありません。


果たして人間は、肉体が生命活動を停止した時に死ぬのでしょうか?


例えば、今年七月二十六日、相模原市の障害者施設で、二十六歳の元施設職員の男性が、十九人を殺害し、二十九人に重軽傷を負わせるという痛ましい事件がありました。


犯人は、肉体的、医学的には、間違いなく生きている人間ですが、「障害者はこの世にいない方が幸せだ」としか考えられない心は、もはや生きている人間の心とは言えません。


オウム真理教が起こした無差別テロ事件は、わが国ばかりか、世界中を震撼させ、未だに私たちの脳裏から消える事はありません。


教団と対立する弁護士とその家族を殺害した「坂本弁護士一家殺害事件」、教団の松本支部の立ち退きを求める訴訟の判事を殺害する目的で猛毒ガスのサリンをまき、多くの人々を殺害した「松本サリン事件」、教団への捜査と首都圏の混乱を目的に地下鉄にサリンを撒いて十二人の死者と数千人の負傷者を出した「地下鉄サリン事件」など、数々の無差別テロ事件を起こしたのは、教団の麻原彰晃教祖に命じられるままに行動した一部の狂信者たちでした。


彼らは、「救うためにはポア(殺害)しなければならない」と、自分たちに都合の好い解釈をして、何の罪もない人々を無差別に殺害しましたが、彼らもまた肉体的には、百パーセント生きている人間です。


しかし、その心は、相模原事件の犯人と同様、すでに生きている人間の心ではありません。世間の常識では、彼らを死人とは言いませんが、お悟りの世界から見れば、彼らはすでに死んでいるのも同じなのです。


◇何が生き何が死んでいるのか◇


お釈迦さまは二千五百年以上も前のお方で、そのご遺骨は仏舎利として八つに分割され、インド国内の寺院にお祀りされました。


その後、敬虔な仏教徒であったマウリア朝のアショカ王が、仏舎利を更に細かく分け、周辺国を含めて八万余りの寺院に再分配しましたが、仏舎利には限りがある為、仏教が世界中に広まるにつれて、仏舎利によく似た宝石や貴石が仏舎利の代替品として用いられるようになりました。


しかし、仏舎利や仏舎利の代替品はあっても、お釈迦様の肉体はもうありません。医学的に言えば、お釈迦様は二千五百年前にすでに亡くなっておられるお方なのです。


千年以上前に御入定されたお大師様は、いまもなお紀州高野山の奥の院に生き続け、人々を救済しておられると信じられていますが、医学的観点から見れば、その肉体が千年以上もの長きに亘って生き続けているという事は考えられません。


またお大師様より「入定せよ」との示現を頂かれ、平成二年四月十三日に御入定された菩薩様の肉体も既になく、菩薩様の仏舎利も、夢殿の心礎に安置されていますから、肉体的生命の死を人間の死とすれば、菩薩様も亡くなっておられる事になります。


しかし、多くの人々が今でも、「お釈迦さま、お釈迦さま」と慕いながら、インド各地の仏跡を巡る姿を見ていると、お釈迦様が亡くなっておられるとは到底思えません。


お大師様も、いまなお生き続けておられると信じられ、紀州高野山や四国八十八カ所霊場には、いまも救いを求めて巡る人々の姿が絶えません。


お大師様と不二一体の生き仏となられた菩薩様も、生きている幾多の証を私たちにお示し下さっています。


何故、二千五百年以上も前のお釈迦様を慕い、千年以上も前のお大師様に救いを求め、既に肉体のない菩薩様を生き仏と信じる人々がいるのでしょうか?


それは、お釈迦様やお大師様や菩薩様がそのご生涯を通して示された衆生救済の一念が、今も生きて悩める人々をお救い下さっているからです。


つまり、お釈迦様やお大師様や菩薩様の仏性が、いまも生きて人々の魂を清め、進むべき道を指し示して下さっているのです。


お釈迦様やお大師様や菩薩様が、いまなお救世主と仰がれ、慕われているお姿を見れば、人間の生死を決めるのは決して肉体ではない事が分かります。


人間の生死を決める上で、肉体が有るか無いかは、大きな問題ではありません。人間の死をきめるのは肉体ではなく、心なのです。


合掌


高野山法徳寺Webサイト「救いの扉」

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2016年12月10日

快晴の朝!

今朝の富士山です。
太陽の光を反射して輝いています。
上空は雲一つない快晴です。


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甲斐駒も綺麗に見えています。
頂上付近は雲がかかっていますが、あの雲がこちらへ越えて来る事はないでしょう。
3000メートル級の山々を越えてくるのは大変ですからね。
お陰で北杜市は、日照時間日本一と言われています。


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2016年12月08日

見ない日のない霜柱ですが…

今朝も寒い朝となりました。
夢殿のご回廊を廻っていても、顔に当たる北西の風が痛いほどに感じられます。


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奈良に居る時は見る事のなかった霜柱ですが、山梨では霜柱を見ない日はありません。


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でも、富士山や八ヶ岳、南アルプスに囲まれた標高600メートルの山上での暮らしも、そう悪くはありません。むしろ快適と言った方がいいでしょう。
もしお近くに来られるような事があれば、どなたでも歓迎いたしますので、是非お立ち寄り下さい。

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2016年12月06日

八ヶ岳おろしが運んでくるもの!

今日は、朝から「八ヶ岳おろし」と異名をとる強い北西風が吹いています。
ご奉納頂いた境内の幟(のぼり)が破れるほどの風ですから、いかに強い風かお分かり頂けるでしょう。


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境内の各所には、いつものように大量の落ち葉が堆積しています。
これもまた、八ヶ岳おろしからのプレゼントです。
明日、風が治まったら、またいつものように落ち葉集めです。
お釈迦さんの弟子の周利槃特は、教えを全く暗誦できぬほど愚か者で、お釈迦様に与えられた一本の箒によって悟りを開いたと言われていますが、少しでも周利槃特の心境に近づきたいものですね。


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強風のため、富士山には雲一つありません。稜線まではっきり見えています。
まさに絶景です。


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好い事ばかりもなければ、悪い事ばかりもないという事でしょう。

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2016年12月05日

霧に包まれた今朝の風景!

昨夜来の雨がやみ、今朝は深い霧に包まれました。


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霧に包まれた夢殿や歌碑も、中々幻想的でいいものです。


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「天空の城」ならぬ「天空の寺」と言ったところでしょうか。


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2016年12月04日

菩提の種を蒔く日かな(6)

◇維摩居士の病気見舞い◇


前回、「福の神と親しくなりたければ、邪魔者の疫病神をも受け入れる心にならなければならない」と申しましたが、何故福の神は受け入られても疫病神は受け入れられないのでしょうか?


それは、私たちの分別心がそうさせているからです。


分別心とは、自分にとって好都合なものと不都合なものを色分けし、不都合なものを排除し拒絶する心ですが、この心を退治しなければ、いつまで経っても福の神の顔を拝む事は出来ません。


何故なら、私たちにとって本当の不幸とは、疫病神(苦しみ)の存在ではなく、自分にとって好都合(福の神)と不都合(疫病神)を色分けし、不都合なものだけを排除しようとする心(分別心)だからです。


分別心について詳しく説かれた『維摩経』というお経があります。


在家の身でありながらお釈迦様の弟子たちも太刀打ちできないほどの智慧を持つ在家の信者・維摩居士(ゆいまこじ)を主人公にした経典で、大乗仏教経典の中でも代表的な経典の一つですが、或る日、維摩居士が病気になります。


病気と言っても肉体の病気ではなく、已むに已まれぬ大慈悲心によって起こる病でない疾いなのですが、お釈迦様は、それを承知で、弟子たちに「誰か、維摩居士の病気見舞いに行ってくれませんか?」と尋ねます。


どころが、見舞いに行こうと申し出る弟子は一人もいません。


と言うのも、以前、維摩居士から、修行の在り方や説法の内容について忠告されたり、注意されたりして、やり込められた経験があるため、見舞いに行けば、またやり込められるのではないかと不安になり、行きたくても行けないのです。


例えば、釈迦十大弟子の中で「智慧第一」と言われる舎利弗(しゃりほつ)尊者は、悟りを開くには心を鎮めて瞑想するのが最も優れた修行だと信じていたので、ある日、静かに坐禅していました。すると、そこへ維摩居士が通りかかり、「舎利弗さん、何をしているのですか?本当の坐禅とは、ただ一人座って瞑想する事ではありませんよ。日常生活の中に、本当の坐禅があるのですよ」と諭された事があったので、素直に「病気見舞いに行きます」とは答えられないのです。


菩薩様は、『道歌集』の中に、
  へだてなく ひとりびとりが仏行を
    人に示すを 坐禅というなり

と詠っておられますが、維摩居士もまた「真の坐禅とは何か」を、舎利弗に問うたのです。


また「論議第一」と言われた迦栴廷(かせんねん)や、その他の弟子たちも、舎利弗と同様、維摩居士にやり込められた経験があるため、「そのようなお方のお見舞いはとても荷が重すぎます」と言って、みんな病気見舞いに行こうとはしないのです。


申し出る者が一人もいないので、お釈迦様は文殊菩薩を名代として見舞いに行かせるのですが、文殊菩薩が訪ねていくと、維摩居士は、がらんとした部屋にベッドをおいて休んでいました。


文殊菩薩の姿を見ると、「文殊菩薩、よく来てくれました。去るものにも来るものにも執着することなく、また見るものに拘ることなく、在るがままを観ずる不動の境地におられる文殊菩薩に来て戴いて、有り難く思います」と言って、御礼を述べます。


文殊菩薩も、「丁重にお見舞いするようにというお釈迦様の心遣いを伝えるため、私が代表してお見舞いにまいりました」と答え、「居士の病の原因は何ですか?」と尋ねると、維摩居士は、「愚痴により道に迷い、愛着のために病は生じます。世間の人々が執着のために道に迷い、病んでいるために私も病むのです。人々の病が消滅すれば、私の病も消滅します。菩薩道を歩む者は、人々をこの愚痴から救い出すために生死の輪廻の世界へ生まれてきました。生や死にこだわれば病になります。人々が生死の病から離れることができれば、菩薩もまた病を離れられます。子供が病気になれば、両親も病むようなものです。その病気の原因は何かと言われれば、菩薩道を歩む者の病とは、大悲のもたらすものです」と答えます。


維摩居士はここで、「病気の原因は二つあります。一つは、煩悩から来る分別と執着(愛着)、もう一つは、衆生を救いたいという大慈悲心です。菩薩は、衆生を救わずにはいられないという大慈悲心に病むのです」と言っているのですが、代苦者となられた菩薩様が残された御法歌も、同じ境地を詠まれたものと言えましょう。
(普門法舟)
  代苦者と なりて衆生の苦を背負う
    これぞ菩薩の 悲願なりけり
  衆苦をば 背負う病の身なれど
    己が心を 知る人ぞなし
  人思い 汝が疾めばわれも疾む
    われ疾むゆえに 汝疾むなり


◇舎利弗尊者と花びら◇


この後、凡夫の病の原因である煩悩(分別と執着)について、舎利弗尊者が天女に諭される場面が出てきます。


六道(迷いの世界)の中の天上界に住む天女は、お釈迦様の弟子の中で最高位である阿羅漢(あらかん)となった舎利弗よりも低い位にいますから、本来なら上の位にいる舎利弗が天女から諭される筈はないのです。


ところが、天女は仮の姿で、本当の正体は、人々を救う為に姿を変えた菩薩であるため、阿羅漢に過ぎない舎利弗は、天女の前にたじたじとなってしまうのです。


この菩薩は、いつでも維摩居士の教えが聞けるようにと、以前から天女に姿を変えて維摩居士の家に住み着いていたのですが、文殊菩薩と維摩居士の問答を聞いて感動し、天空から蓮の花びらを撒くのです。


ところが、この時、不思議な事が起こります。


撒かれた花びらは、文殊菩薩や維摩居士の体には一枚も付着せず、そのまま地面に落ちていくのに、お釈迦様の弟子たちには付着して離れないのです。


文殊菩薩や維摩居士に付着しなかった花びらが、自分たちの体に付着し、どんどん増えていくため、舎利弗たちは花びらを振り落とそうと焦り始めます。


その光景を見ていた天女は、笑いながらこう尋ねるのです。


 天女ー舎利弗尊者、いかがなさいましたか?
 舎利弗ーいや、この花びらがくっついて離れないのです。
 天女ーなぜ、花びらを振り落とそうとなさるのですか?
 舎利弗ー出家者に花びらは相応しくありません。出家者は身を飾ってはいけないのです。
 天女ー舎利弗尊者、それはおかしいですね。
 舎利弗ーなぜですか。出家者は身を飾らぬのが戒律です。
 天女ー舎利弗尊者、この花びらは花びらに見えますが、真理そのものなのです。飾りではありません。
 舎利弗ーこの花びらが真理そのもの?
 天女ーそうです。この花びらは真理そのものです。花びらは、あなたにくっつこうなどとは考えていません。ただあるようにあるだけなのです。
 舎利弗尊者、あなたの方が「この花びらは出家者に相応しいか相応しくないか」などと分別をしているだけなのです。
 あなたたちが、勝手に良し悪しを判断しているから、花びらがくっつくのです。
 舎利弗尊者、ただ在るがままに在るだけの世界を勝手に判断し、勝手に分類し区別することを、分別といいます。
 分別は妄想です。したがって、分別は真理から外れた行為です。
 そんな分別は捨てるべきです。見てごらんなさい。分別を捨て去った菩薩には花びらはつきませんよ。
 花びらだけではありません。恐怖は、ありもしない不安を抱えている人につくものであり、苦しみを恐れる人ほど快楽におぼれます。
 分別から離れれば、美しいも醜いもなく、恐怖も安心もなく、苦も快楽もなく、おいしいもまずいもありません。すべては平等です。
 すべてを受け入れられれば、何の禍も恐怖もありません。
 この花びらは、物事をあるがままに見られず、分別し、執着する人にくっつき離れないのです。分別を去り、在るがままに物事を見ることができる人にはくっつかないのです。



◇欲も苦もなく我もなし◇


こう言って天女に姿を変えた菩薩は、あれこれと分別している舎利弗を諭し、分別や執着から離れる事の大切さを説いたのです。


先ほどもお話したように、分別するという事は、自分の立場から好都合と不都合を分別し、好ましくないものを否定し排除する事ですが、悟りの世界には、このような分別が一切ありません。在るがままの世界ですから、あれが良い、これが悪いというような分け隔てがないのは当然です。


そこにあるのは、苦もなければ楽もなく、生もなければ死もなく、一切を超越した世界と言っていいでしょう。


分別を離れた世界は、一切の執着がなく、在るがままの世界ですから、病んでいても、どんな不都合な状況にあっても、そのままが極楽となるのです。


菩薩様が、
  生死(しょうじ)なく 欲も苦もなく我もなく
    無常悟れば 涅槃に帰る

と詠っておられるように、一切の分別心を離れ、執着を捨てれば、涅槃(彼岸)の世界に帰る事が出来るのです。


合掌



菩提の種を蒔く日かな(1)
菩提の種を蒔く日かな(2)
菩提の種を蒔く日かな(3)
菩提の種を蒔く日かな(4)
菩提の種を蒔く日かな(5)
菩提の種を蒔く日かな(6)

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2016年12月03日

今日の四山!

今日も好いお天気でした。
夕方に撮った四山の写真です。
北側にそびえるのが八ヶ岳。


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東側が、「にせ八つ」の異名をとる茅が岳です。
山容が、八ヶ岳によく似ていますね。


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西側にそびえる南アルプス山系の甲斐駒です。


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最後が南側に見える富士山の雄姿です。


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2016年12月02日

今日の三山!

法徳寺から見た今日の三山(富士山、茅が岳、南アルプス山系の甲斐駒)です。
いつも思う事ですが、やはり富士山の美しさは別格としか言いようがありませんね。(午後四時過ぎに撮影)


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菩提の種を蒔く日かな(5)

◇苦しみを悲しむことより喜べよ◇


「苦しみがある人生と無い人生のどちらがいいですか?」と尋ねられたら、皆さんは何と答えるでしょうか?


恐らく、大多数の方が、「苦しみがない人生の方がいいに決まっています」と答えられるでしょう。


しかし、この答えは、半分正しく、半分間違っています。


この世には、幸せを願わない人など一人もいませんから、苦しみがない人生の方がいいに決まっている筈ですが、そう断言できないのは、苦しみのある方がいい場合もあるからです。


何度もお話しているように、救いを求めて発心する為には、どうしても苦しみが欠かせません。


六道の中で人間界の上にある天上界より、人間界の方が優れていると言われるのは、苦しみがなく楽ばかりの天上界より、苦楽幸不幸のある人間界の方が、発心するのに適しているからです。


という事は、苦しみのない天上界より、苦しみがある人間界の方が彼岸に近く、同じ人間界の中でも、苦しみのない人より、苦しみのある人の方が、より彼岸に近い場所に居る事になります。


苦しみのない人より、苦しみのある人の方が幸せだと言われる所以です。


菩薩様が、『道歌集』の中で、
  苦しみを 悲しむことより喜べよ
    深き悩みが 菩提(さとり)となるなり
  人の世は 苦こそ菩提(さとり)の道しるべ
    楽に仏を みる人ぞなし
  苦しみが あるから菩提(ぼだい)の花が咲く
    苦をもつ人こそ しあわせなりけり

と詠っておられるように、苦しみは、悟りへの道しるべであり、菩提の花を咲かせる為に欠かせない肥料なのです。


苦しむ事には何の意味もないように思われるかも知れませんが、苦しみの中には、人生をより良く生きる上で必要な栄養素がいっぱい含まれています。


苦しみという疫病神は、一見邪魔者のように見えますが、その疫病神は福の神と一心同体であり、常に福の神と行動を共にしています。


二人は姉妹ですから、私たちにとって都合の好い姉の福の神だけと親しくなる事は出来ません。


勿論、どちらと親しくなった方がいいかと言えば、疫病神より、福の神の方がいいに決まっていますが、福の神と親しくなりたければ、疫病神をも受け入れる心にならなければなりません。


疫病神を邪魔者扱いしている内は、福の神とも親しくなれないのです。


福の神の顔を見られる観の眼、智慧の眼、悟りの眼を磨かなければ、いつまで経っても、福の神とは親しくなれません。


福の神と親しくなる観の眼、智慧の眼を磨く為には、まず邪魔者の疫病神の存在を受け入れ、その助けを乞う事が必要なのです。


◇渋を甘味に変える仏法◇


勿論、苦しみのある方がいいとばかりも言えません。


世の中には、苦しみや精神的ストレスから、うつ病を発症したり、苦しみに耐え切れずに自殺するお方さえいます。


この方たちの立場に立てば、苦しみがない方がいいに決まっていますが、何故この方たちは、苦しみのある方が幸せだという逆の結論には到らなかったのでしょうか?


菩薩様のように、「苦をもつ人こそしあわせなりけり」と詠っておられるお方もいるにも拘わらず、この方たちは、苦を幸せとは思えなかったのですから、その違いは決して小さくありません。


この違いはどこから来ているのかと言えば、やはり前回述べたように、仏法に出会えたか否かの違いなのです。


もしこの方たちが仏法に出会っていれば、救われた可能性が非常に大きく、うつ病を発症する事も、自殺する事も避けられたかも知れません。


そう考えると、仏法に出会えるか否かが、人生の幸不幸を左右する大きな鍵を握っている事になります。


何が言いたいのかと申しますと、救われる為には苦しみが欠かせないけれども、何もしなければ、苦しみは苦しみのままで終わり、救いに変わる事はないという事です。


渋柿を寒風にさらして干すと、渋が甘味に変わって、甘柿よりも美味しくなるように、苦しみがあった方がよいと言えるのは、苦しみが悟り(救い)に変わった時です。


その時、初めて「苦しみが必要だった」と心の底から納得でき、苦しみに合掌する事も出来るでしょうが、渋柿の渋がそのままでは食べられないのと同様、苦しみという渋が悟り(救い)という甘味に変わらなければ、苦しみは不必要な邪魔者であり続けるのです。


その渋を甘味に変えてくれるのが、まさに仏法なのです。


だからこそ、もし仏法に遇わせて頂けたならば、そのご縁を徒疎かにせず、二度と巡ってこないかも知れない千載一遇の好機を逃してはならないのです。


合掌



菩提の種を蒔く日かな(1)
菩提の種を蒔く日かな(2)
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菩提の種を蒔く日かな(6)

posted by カンロくん at 12:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記