2016年11月29日

夕日を浴びた三山!

昨日に続き、今日も富士山の写真をアップします。
法徳寺の南側にあるので、向かって右側(西側)から射す夕陽に照らされて、薄っすらとピンク色に染まっています。


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同時刻に撮影した甲斐駒です。
法徳寺の西側に位置するため、日の入りが早く、甲斐駒を撮影するといつも陰になります。


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東側に位置しているのが、茅が岳です。
「日本百名山」の著者で、登山家でもあった深田久弥が登山中に亡くなった山です。
八ヶ岳に似ているので「にせ八つ」とも呼ばれていますが、標高は1700メートルほどしかありません。
こうして見ると、まだ雪もほとんど積もっていないようですね。


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2016年11月28日

落ち葉の季節!

昨日からの雨が上がり、朝から強風が吹いています。
強風にあおられて、境内一面に落ち葉が堆積していますが、これを風情があると見るか否かは、意見の分かれるところでしょう。


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京都の寺院なら、「風情があっていいですね」と言われる風景ですが、山梨ではどうなのでしょうか?


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今朝の富士山と甲斐駒も綺麗に見えています。
雪を頂いた富士山は、いつ見ても美しいとしか言いようがありません。


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2016年11月26日

霜に覆われた今朝の境内!

今朝の山梨も、かなり冷え込みました。
ご覧のように、境内は霜に覆われて銀色に染まっています。


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太陽の光を浴びて輝く霜柱を見るのも、この季節の楽しみです。


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境内のガーデンライトも、お賽銭箱の屋根も、全身を霜に覆われて、心なしか寒そうです。


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富士山も、すっかり雪化粧を済ませ、朝日を浴びて輝いています。
写真では雪の積もり具合が分りにくいかも知れません。


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2016年11月24日

初雪の便りをお届けします!

山梨県北杜市も、予報通り、初雪が降りました。
午前8時現在、境内は約10センチの積雪です。


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午後から雨に変わるようですが、11月の積雪は山梨でも珍しいですね。
今年は雪が多くなるかも知れません。


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念のため、いつでも使えるよう除雪機の準備だけはしておきます。

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2016年11月16日

快晴の朝と紅葉!

今朝は少し冷え込みましたが、快晴の朝を迎えました。
真っ青に晴れ渡った青空を見ていると、やはり清々しい気分になりますね。


甲斐駒の稜線も、きれいに見えています。


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境内周辺の木々の紅葉も随分進みました。


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桜は紅葉を終え、落葉しています。
来年の春までしばらくのお別れです。


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2016年11月09日

菩提の種を蒔く日かな(4)

◇人間に生まれた事の意味◇


三途の川を渡って此岸から彼岸へ渡る上で、どうしても欠かせない条件が二つあります。


一つは、人間の身を与えられなければならないという事です。


皆さんは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六つの迷いの世界(六道)の中で最も彼岸に近いのはどの世界だと思われますか?


一見、人間界の上にある天上界の方が近いように見えますが、実は人間界の方が彼岸に近いのです。


天上界は苦しみがなく、楽ばかりの世界である為、苦しみを克服し、彼岸に渡りたいという心を起こす事が出来ません。


悩み苦しみがあればこそ、苦しみから救われたいという気持ちも、今よりもっと向上したいという心も起きるのですが、 天上界は楽ばかりの世界である為、道を求めて発心するのが非常に難しいのです。


他方、地獄、餓鬼、畜生、修羅の世界(四悪道)は、天上界とは逆に、楽がなく苦しみばかりの世界である為、こちらも発心するのが非常に難しいと言わざるを得ません。


要するに、苦もあり楽もある人間界が、発心するには最も優れた世界であり、六道の中では彼岸に最も近い世界なのです。


彼岸に渡る為には、どうしても人間に生まれてくる必要があると言ったのはその為ですが、残念ながら、人間に生まれてくる事は、そう簡単ではありません。


すでに人間の身を与えられている私たちにとっては当たり前の事実かも知れませんが、経典に「万劫(まんごう)にも得難きは人身なり」と説かれているように、人間以外の生き物たちから見れば、人間に生まれてくる事は決して当たり前ではないのです。


私たちは、ありとあらゆる生き物がいるこの地上に、人の身を与えられたという厳粛なる事実を当たり前と受け止めず、深く噛み締めなければなりません。


ここに言う「万劫」とは、時間の長さを現わす言葉で、四十里四方の大きな岩を百年に一度、天女様がこの世へ降りて来られ、薄い羽衣の袖で一回拭い、それを百年毎に繰り返し、巨大な岩が擦り切れて無くなるのに要する期間を一劫(注1)と言います。


人の身に生まれてくる事がいかに至難の業であるかが分かりますが、いま私たちは万劫にも得難い人の身を与えられているのです。


この事実だけを見ても有り難さが込み上げてきますが、人の身を与えられた本当の有り難さは、人間に生まれて来れたお陰で、六道輪廻の人生を終わらせる機会が巡ってきた事です。


六道輪廻の人生に終止符を打つ千載一遇の好機は、人の身を与えられた時にしか巡って来ません。


まさに私たちは、二度と巡ってくる事のない奇跡に遭遇していると言っても過言ではありませんが、それだけに、もしこの好機を逃すような事があれば、末代までの悔いを残す事は間違いないでしょう。


◇億劫にも遇い難きは仏法なり◇


もう一つは、仏法とのご縁を頂かなければならないという事です。


いまお話したように、道を求めて発心出来るのは、六道の内で、苦楽幸不幸のある人間界だけですが、では人間に生まれさえすれば、誰もが分け隔てなく彼岸へ渡れるのかと言えば、残念ながらそうではありません。


人間の身を与えられても、全ての人が彼岸へ渡れるとは限らないのです。


彼岸へ渡るには、此岸と彼岸の間を流れる三途の川を安全に渡してくれる乗り物と、彼岸へ導いてくれる水先案内人が必要ですが、全ての人が平等にご縁を頂ける訳ではないからです。


乗り物とは、法ぶねとなる仏法であり、水先案内人とは、法ぶねに乗せて彼岸へ渡して下さるみ仏です。


真っ暗闇の中で、灯りも持たずに歩いて行くほど、物騒なことはありません。何処に石ころが落ちているか、何処に穴が開いているか、分からない道を安心して歩いていけるのは、足元を照らしてくれる灯りがあるからです。


その灯りが仏法であり、灯りを持って足元を照らして下さるお方がみ仏です。


勿論、仏法に遇わせて頂けるのも、み仏にご縁を結ばせて頂けるのも、ただの偶然ではありません。


過去に積んだ善根功徳のお蔭で、この世に人の身を与えられたのみならず、億劫にも遇う事の難しい仏法に遇わせて頂けたのです。


み仏とのご縁は、まさに善根功徳の果報であり、「宿善の助け」と言えましょうが、だからこそ、今の世で善根功徳を積ませて頂いて来世の宿善とし、来世での仏法とのご縁を深めておかなければならないのです。この世での仏法とのご縁を、決して徒疎(あだおろそ)かにしてはならないのです。
(普門法舟)
  法縁に あえしわが身をよろこべよ
    あわずにすごす 人もあるのに
  法縁の 糸のむすびは神むすび
    徒疎かに 思うなよ人


◇福の神と疫病神◇


此岸と彼岸の話を聞かれた皆さんの中には、この二つの世界を別々の世界と誤解されているお方もおられると思いますが、此岸と彼岸は、決して別々に存在する二つの世界ではなく、一つの世界の見方の違いに過ぎません。


以前、或る家の主人が、家に入って来ようとする疫病神の黒闇天を追い出したら、先に入って来られた福の神の吉祥天も一緒に出て行かれたという話をしましたが、覚えておられるでしょうか?


この二人は姉妹で、どこへ行くにも一心同体であるため、妹の黒闇天を追い出せば、姉の吉祥天も出ていかざるを得ないのですが、この話から分かるのは、福の神の背後には必ず疫病神が、疫病神の背後には必ず福の神がいるという事です。


つまり、自分にとって都合の好い福の神だけを招き入れる事は出来ないのです。


吉凶禍福(きっきょうかふく)、苦楽幸不幸というものは、紙の表裏ですから、物事をどちら側から見るかによって、吉にもなれば凶にもなります。


吉も凶も禍も福も、幸も不幸も苦も楽も、同じものを、どちら側から見るかの違いに過ぎません。


例えば、「病気をするのと、健康であるのとどちらがいいですか?」と問われたら、誰もが「健康の方がいいに決まっている」と答えられるでしょう。


しかし、だからと言って、健康な人がみな幸せで、病気の人がみな不幸だとは決まっていません。


健康でありながら、毎日不平不満の心で暮している人や、お互いに傷つけ合いながら生きている人もいれば、病気をしていても、感謝の気持ちを忘れず、心豊かに暮らしている人も大勢います。


何故かと言えば、吉凶禍福、幸不幸を決めるのは、健康か病気かではなく、自分自身だからです。


どちら側から見るか、どのように受け止めるかによって、健康が不幸になったり、病気が幸せになったりするのは、その為です。自分以外に幸不幸を決められる人など一人もいません。


病気という一つの出来事の中にさえ、疫病神の悪い面と福の神の良い面が共存しています。そのどちらの顔を見ていくか、それによって幸不幸がハッキリ分かれます。疫病神の顔だけを見ていては、福の神の顔は見えて来ません。


まず病気を在るがまま受け止め、病気の中に居る福の神の顔を観察する心(観の眼)を養わなければ、六尺病床が極楽に変わる事はありません。


◇地獄極楽の在り処◇


「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上」の六道は、心で作る世界ですから、自分が行く所にどこまでも付いてきます。


六道の世界は本来ありませんが、わが心で作る架空の世界だからこそ、何処にでも存在するのです。いま自分の座っている場所が、極楽にもなれば地獄にもなります。


苦しみだけしかない世界、救いしかない世界というものはありません。あるのは、苦しみと救いが共存する世界です。


仏教では、この世を「四苦八苦」(注2)の世と捉えていますが、この世が苦しみの世界であるなら、苦しみから救われる世界も必ずこの世にあります。


もしあの世に極楽(彼岸)があるなら、地獄(此岸)もあの世にあります。この世に地獄があるなら、極楽もこの世にあります。


この世は苦しみの世界だから、あの世へ行かないと救い(極楽)はないと言うお方もいれば、この世を此岸、あの世を彼岸と考えているお方もいますが、いずれも間違いです。


地獄も極楽も、自分の心の外に存在する世界ではなく、自らが迷いの心で作り出す架空の世界ですから、迷いの夢から目覚めない限り、地獄も極楽も自分と共に存在し続けます。


この道理が分かれば、迷いの夢から目覚める事が何より大切であると共に、迷いから目覚める為には仏法に頼る以外に道がない事も、自ずと分ってきます。


合掌



菩提の種を蒔く日かな(1)
菩提の種を蒔く日かな(2)
菩提の種を蒔く日かな(3)
菩提の種を蒔く日かな(4)
菩提の種を蒔く日かな(5)
菩提の種を蒔く日かな(6)

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2016年11月07日

菩提の種を蒔く日かな(3)

◇何をしなければいけないか◇


芽の出る春と散ってゆく秋にお彼岸が設けられているのは、諸行無常と諸法無我の真理を教え、真理に従って生きる事の大切さを教えんが為ですが、世の中には、「限りある人生だから、好き勝手に生きなければ損だ。自分が幸せになる為であれば、人を苦しめ、傷つけても構わない。自分さえよければいいのだ」と言わんばかりの生き方をしている人もいます。


生き方は人それぞれでしょうが、大切なのは、すべてが移り変わっていく限りある人生だからこそ、どのような生き方をしなければいけないのかという事です。


振り込め詐欺被害は一向に減少する気配を見せず、巧妙な手口による新たな振り込め詐欺被害も増えていますが、限りある人生だから、人を騙してお金を奪い取ってもいいという理屈にはなりません。


一度しかないかけがえのない人生を、末代までも続く悪業、罪業を作る為に費やすほど愚かな事はないでしょう。


前回も述べたように、私たちは、一人では生きていけません。どんな時でも、知らない誰かに助けられ、支えられているのです。


騙そうとしている相手が、ご縁の糸を辿っていけば、自分を支えてくれているかけがえのない一人かも知れません。その相手を騙し、お金を奪い取る事は、自分自身の首を絞めているのも同然です。


「人生はこだまなり」と言われるように、人を助け人に親切を施す事は、わが身を助け、人を騙し傷つける事は、わが身に唾し、傷つけているのと同じなのです。
 (普門法舟)
  お互いに 人のお蔭をうける身は
    人を忘れず 共に極楽
  極楽に 往くも地獄に堕つるにも
    己が所業が もととなるなり
  人の身は 死しても残る業のあと
    善悪報いは 後の世までも


◇蒔かねば実らぬ菩提の種◇


お彼岸を詠った有名な俳句があります。
  今日彼岸 菩提の種を蒔く日かな


作者は不明ですが、お彼岸の趣旨を非常に上手く表現しています。


菩提の種を蒔くとは、人を思う心(菩提心)を発しなさいという事です。


私たちはみな、生まれた時から例外なく、仏となるべき種(仏性)を授かっています。しかし、種を蒔かなければ、いくら肥料をやり、水をやり、お天道様の恵みを頂いても、果実は実りません。まず菩提の種を蒔き、仏性の扉を開く事が大切なのです。


人間は、誰しも自分が可愛いものですが、だからこそ、お互いが相手を思いやる心を忘れてはなりません。その心が、菩提の種である菩提心です。


こんな譬え話をご存じでしょうか。


ある人が、地獄と極楽の食事風景を見に行ったところ、極楽では、みんな和気藹々と笑いながら楽しそうに食事をしているのに、地獄では、誰もが腹を空かせてやせ細り、目を吊り上げて罵り合っていました。


どちらの食卓にも、美味しそうな食事と、1メートルもある大きな箸が用意されていましたが、同じ物を使っているのに、何故こんなに違うのだろうと不思議に思い、よく見ると、地獄では、その箸を使って自分の目の前に置かれた食物を挟もうとしているのに対し、極楽では、その箸で、自分の前に座っている人の前に置かれた食物を挟み、その人の口に入れてあげていたのです。


地獄と極楽を分けていたのは、1メートルの箸を自分の為に使うか、相手の為に使うか、その使い方の違いでした。


その1メートルの箸は、目の前にいる人の口に入れてあげるのに丁度いい長さだったのですが、何故地獄へ堕ちた人々は、その事に気付かなかったのでしょうか?


哀しいかな、地獄へ堕ちた人々には、相手の事を思いやる心(菩提心)も、お互いを信頼し合う心もありません。


極楽に居る人たちは、つねに菩提心を忘れず、相手の身になって考える心を持っていますから、目の前の箸を見て、すぐに前に座っている人の口に入れてあげようという心を起こせたのです。


お互いがお互いを支え合っている極楽の世界では、すでに信頼し合う関係が築かれていますから、そうする事が当たり前に出来たのです。


ところが、地獄へ堕ちた人々は、菩提心を忘れ、自分の事しか頭にありませんから、目の前に座っている人の事が全く目に入りません。前に置かれている1メートルの箸を見ても、自分の為に使うという発想しか浮かばないのです。


その箸は自分の口に入れるには長すぎて使えないのですが、菩提心を忘れている地獄の人たちには、箸の正しい使い方が分りません。当然、相互の信頼関係も築けていませんから、お互いに食べさせ合う事も出来ません。


結局、地獄と極楽を分けていたのは、住む世界の違いではなく、そこにある同じ物を誰のために使うか、たったそれだけの違いに過ぎなかったのです。


同じ箸であっても、使い方次第で、お互いを生かす箸にもなれば、お互いを傷つけあう凶器にもなり得るように、心もまた相手を思いやる心(菩提心)として使うか、自分さえよければ相手が苦しんでも傷ついても構わないという自我我執の心として使うかによって、人生は大きく変わっていくのです。


これを見れば、極楽も、地獄、餓鬼、畜生の世界も、決してあの世の事ではない事が分かります。


◇相互供養、相互礼拝◇


「相互供養、相互礼拝」という言葉があります。


「お互いを供養し、拝み合って行きましょう」という意味ですが、いまお話した極楽の食事風景は、まさに相互供養、相互礼拝の世界をよく現わしていると言っていいでしょう。


供養とは、文字通り、養ったものを供える事ですが、養い供えるものは、菩提心以外にはありません。この事から、「相互供養、相互礼拝」とは、菩提心を養い、お互いに供え合いましょうという意味である事がお分かり頂けると思います。


お彼岸はご先祖様を供養する日というイメージを抱いておられるお方も大勢おられると思いますが、菩提心を養い供える事が供養ですから、供養すべき相手は、決して亡くなったご先祖様だけではありません。


生きている者同士が、お互いに菩提心を養い、供え合う事も立派な供養であって、むしろ生きている人の供養こそが、真の生き供養と言っていいでしょう。


要するに、相手に親切な心を供え、優しい言葉を掛け、お互いが相手を労わり合い、言行想(身口意)、言葉と行いと思いを養って供え合う事が、生き供養なのです。


お彼岸は、ご先祖を供養する為だけの日ではなく、自分の中にある仏性に目覚め、菩提心を養い、相互に供え合う日でもあるのです。


「今日彼岸 菩提の種を蒔く日かな」と詠われている所以ですが、そうだとすれば、お彼岸中の一週間だけ菩提心を養い、あとは知らぬ顔では本末転倒であって、一年365日毎日が、菩提心の種を蒔くお彼岸でなければなりません。


み仏が、私たちに教えて下さっているお彼岸の心をしっかり心に刻み、お互いが怖い顔をして角を突き合わせ、睨み合うのではなく、和顔愛語で暮らしていけるよう、家庭でも、職場でも、地域社会でも、お互いが相互に供養し、礼拝し合っていかなければならないのです。


◇三途の川を渡るとは◇


お彼岸の反対側を此の岸と書いて、此岸(しがん)と言いますが、昔から、「亡くなった人は、三途の川を渡ってあの世へ行く」と言われるように、此岸から彼岸へ行くには、三途の川を渡らなければなりません。


しかし、三途の川とは譬えであって、この世とあの世の間に、三途の川と名付けられた川が流れている訳ではありません。


三途とは、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上」(六道)の中の「地獄、餓鬼、畜生」の事で、三悪道とも言います。


「地獄、餓鬼、畜生」の三途は何処にあるのかと言いますと、私たちの心の中にあります。あると言いましても、心で作る架空の世界ですから、本来はないのですが、迷っている内は、間違いなく夢の中に存在し、私たちを苦しめ続けます。


その為、六道は、よく夢に譬えられます。恐ろしい怪物に襲われる夢を見ている人にとっては間違いなく現実であっても、夢から目覚めた人にとっては、夢の中にだけ存在する架空の怪物に過ぎません。


それと同じように、六道の世界も、夢の中にだけ存在する世界ですから、目覚めれば、いつでも消えてなくなるのです。


つまり、三途の川を渡るとは、迷いの夢から目を覚まし、「地獄、餓鬼、畜生」の世界を作らない本来の自分に戻る事なのです。


◇心で作る迷いの世界◇


御法歌『頼め彼岸へ法のふね』の中に、
  六つの道を めぐるから
    しあわせばかりと 思うなよ
    人生廻り舞台なり
 と詠われているように、六つの世界(六道)を作って輪廻しているのが、此岸に居る今の私たちです。


この此岸から三途の川を渡って彼岸へ行く事を、「解脱する」「成仏する」「往生する」「到彼岸」等と言いますが、要するに、一切の分別心と執着心から自由になり、「涅槃寂静」の境地に到達する事です。


地獄とは、怒りの心で作る世界です。怒りの心を起こすと、地獄の世界に堕ちなければなりません。


餓鬼とは、貪りの心で作る世界です。貪りの心を起こすと、餓鬼の世界に堕ちなければなりません。


餓鬼にも二種類あり、無いから欲しい貪りの心を「無財餓鬼」と言い、有り余るほど財が有るのに人に施すのが惜しいという物惜しみの強い心を「有財餓鬼」と言います。


畜生とは、自我我執の心で作る世界です。自我我執とは、他人が苦しもうが傷つこうが、自分さえ幸せになれればそれでいいという利己主義の心で、この心を起こすと、畜生の世界に堕ちなければなりません。


修羅とは、愚痴嫉妬の心で作る世界です。妬みの心を起こすと、修羅の世界に堕ちなければなりません。


人間界は、苦もあれば楽もある世界、天上界は、苦しみを知らない楽ばかりの世界です。


貪欲(貪り)、瞋恚(怒り)、愚痴嫉妬の三つは、三毒煩悩と言って、身も心も滅ぼす恐ろしい猛毒に譬えられますが、心がこの三毒煩悩に侵されると、三途の世界へ真っ逆さまに堕ちてゆかなければなりません。


だからこそ、三毒煩悩の毒牙にかからないよう、日々、菩提心を養い、供養し合い、仏性を覚醒しておかなければいけないのですが、その心を教えているのが、まさに春と秋のお彼岸なのです。


合掌



菩提の種を蒔く日かな(1)
菩提の種を蒔く日かな(2)
菩提の種を蒔く日かな(3)
菩提の種を蒔く日かな(4)
菩提の種を蒔く日かな(5)
菩提の種を蒔く日かな(6)

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2016年11月01日

菩提の種を蒔く日かな(2)

◇決まっている事と決まっていない事◇


彼岸花は、秋のお彼岸が近づいてくると、まるでそれが自分の役目と自覚しているかのように、真っ赤な花を咲かせ、お彼岸の到来を知らせてくれますが、何故彼岸花は、自分の咲くべき時を忘れないのでしょうか?


それは、桜が春になると咲くのと同様、彼岸花にとっての約束事だからです。


決まっている事ですから、去年は咲いたけれど、今年は忘れて咲かなかったという事は決してありません。


時には、春先に咲くべき桜の花が、晩秋に開花したという珍現象が起きたりしますが、それは、春のような陽気が続き、春が来たと思い違いをするからで、春のような陽気が続けば咲くという決まり自体が変わった訳ではありません。


彼岸花が秋のお彼岸にしか咲かないのは、春のお彼岸に咲くという決まりがないからであり、春に咲く桜が秋に咲かないのも、秋に咲くという決まりがないからです。


もし桜の人生に秋に咲くという決まりが加われば、桜は春だけでなく秋にも咲くようになるでしょう。一年中咲くと決められていれば、一年中、桜の花を楽しむことができます。


大自然の中で生きている草花たちはみなそうして、決まりに従って咲くべき時に咲き、散るべき時に散っているのです。決まりに逆らっている草花は一つもありません。


◇三法印◇


すでに決まっている事ですから、そのこと自体には、幸不幸の概念も吉凶禍福も、縁起の良し悪しもありません。


春に咲くと決められている桜は幸せで、秋に咲くと決まっている彼岸花は不幸などという事は決してありません。


決まり事である以上、私たちは、ただそう決まっているものと受け止め、素直に頷くしかありません。大自然の草花たちはみな、そうした生き方をしているのです。


勿論、この世には、すでに決まっている事だけでなく、まだ決まっていない事も多々あります。


すでに決まっている事は何をしても変える事は出来ませんが、まだ決まっていない事は幾らでも変える事が出来ます。


大切な事は、変えられる事と変えられない事をしっかり見極め、生き方を間違えてはならないという事です。


例えば、大乗仏教の根本思想である「三法印」(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)は、この世の真理としてすでに決まっている事ですから、お釈迦様といえども、変える事は出来ません。


「諸行無常」とは、一切は絶えず変化し続け、変わらないものは何一つないというこの世の真理ですが、無常の中にいる以上、私たちもその真理に逆らう事は出来ません。


例えば、一秒前の私と今の私と一秒後の私は、外見上は何も変わっていないように見えますが、今の私から見れば、一秒前の私は常に一秒だけ若い私であり、一秒後の私は常に一秒だけ老いた私です。


自分と思っている私は、常に変化し続けていますから、変わらない固定的な私というものは存在しません。


これが、二つ目の「諸法無我」で、私は固定的な存在ではなく、常に流動的な私としてのみ存在しているに過ぎないのです。


まさに「有るようで無く、無いようで有る」存在と言っていいでしょうが、「諸法無我」には、流動性の他に、相互依存性という意味も含まれています。


相互依存性とは、自分ひとりで存在しているのではなく、他のすべてとつながって生きているという意味です。


私は自立して生きているように見えますが、実は他とつながって生かされている存在でもあります。


例えば、食べているもの、着ているものなど、私の周囲にあるものは、他の誰かの手によって作られ、運ばれてきたものです。


私はただそれらを譲ってもらい、食べたり、身に着けたり、利用したりしているに過ぎません。それらのすべてを、私一人の力で作らなければならないとすれば、私は生きていけません。


要するに、私は、私以外のすべての存在と密接につながって生きており、そのつながりを否定しては生きていけない相互依存的な存在でもあるのです。


この「諸行無常」「諸法無我」の真理を在るがまま受け入れて生きてゆくか、逆らって生きていくかは、人それぞれですが、真理に従って生きていくところに開けるのが、三つ目の「涅槃寂静」の世界です。


◇変えられない世界と変えられる世界◇


「涅槃寂静」も決まりですから、在るがまま真理に従って生きていくところに、自ずと開かれる世界ですが、だからと言って、誰も彼もがその境地に到達できる訳ではありません。


誰もが、真理を在るがまま受け入れ、従って生きていけるとは限らず、真理に逆らって生きようとする人々もいるからです。


真理に逆らって生きようとする人々が到達する世界が、お釈迦様の説かれた四苦八苦の世界です。


四苦八苦とは、生老病死苦(しょうろうびょうしく)の四苦に、愛する人と別れなければならない愛別離苦(あいべつりく)、会いたくない人と会わねばならない怨憎会苦(おんぞうえく)、求めても得られない求不得苦(ぐふとっく)、限りない煩悩から沸き起こる様々な苦しみである五陰盛苦(ごおんじょうく)の四苦を加えたものですが、これらはすべて、変えられない真理に抗おうとして作り出された苦しみの世界です。


つまり、四苦八苦の人生は、逆らえない真理でも、避けられない運命でもなく、この世の決まりに逆らい、在るがまま受け入れようとしない心が作り出した架空の産物に過ぎませんから、苦しみの人生はいくらでも変える事が出来るのです。


それに対し、諸行無常、諸法無我の真理は、この世での約束事ですから、幾ら老いたくない、死にたくないと願い、どれほど生に執着しても、逆らう事は出来ません。


中国全土を統一した秦の始皇帝が、徐福という道士に命じて、不老不死の仙薬を探し求めたと言う話は有名ですが、徐福はついに始皇帝の下に帰りませんでした。


帰らなかったのは、不老不死の仙薬を独り占めしたかったからではありません。不老不死の仙薬など有る筈がなく、もし手ぶらで帰れば命のない事が分っていますから、徐福は帰りたくても帰れなかったのです。


生に執着し、不老不死の仙薬を探し求めた秦の始皇帝は、結局、自らが作った生老病死の苦しみを乗り越えられぬまま亡くなりました。


万里の長城を築き、頂点に上り詰めた権力者でさえ、真理の前には、朝露よりも儚い存在に過ぎなかったのです。


合掌



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