2016年07月18日

病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(6)

◇欠かせない信心◇


病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(4)」で、「み仏とご一緒なら地獄へさえも行かせて頂けるようになります」と言いましたが、何故そんな事が出来るようになるのでしょうか?


例えば、お大師様、菩薩様から「苦労をかけますが、私と一緒に地獄へ行ってくれませんか」と言われた時、殆どのお方が、「極楽へならお供しますが、地獄行きはお断りします」と答えるでしょう。


何故なら、苦しみに苛まれる地獄へなど誰も行きたくないからです。


そこで「はい、行かせて頂きます」と即答できるお方は、お大師様、菩薩様を信じておられるお方だけです。


何が言いたいかと言いますと、「お大師様、菩薩様とご一緒なら喜んで地獄へお供させて頂きます」という言葉は、お大師様、菩薩様に対する信心に裏付けられて初めて出てくる言葉だという事です。


勿論、その信心は、好都合な事だけを受け入れる自分本位の信心ではなく、不都合な事を在るがまま受け入れ、何があっても決して揺るぐ事のない不動の信心でなければなりません。


菩薩様が、「お大師様はただ信じるのではなく、信じ切らなければならない。み仏はただ信じるのではなく、信じ切らなければならない。」とおっしゃった意味が、そこにあります。


◇「救われたいが、信仰はしたくない」という考え方◇


世の中には、よく「死の恐怖や苦しみからは救われたいが、信仰はしたくない」と言われるお方がいます。


それも一つの考え方、生き方であり、信仰がなくても、死の恐怖や死の苦しみを克服できるお方は、それでも構わないと思います。


大切な事は、死の恐怖を克服し、死の苦しみから救われる事であり、不都合な死を在るがまま受け入れられる全肯定の心を成就する事です。


信仰はあくまでその目的を達成する一手段に過ぎません。


信仰しなければ死の苦しみを克服出来ない訳ではありませんから、信仰の力を借りなくても苦しみを乗り越えられるお方はそれでいいのです。


信仰しなければ死の苦しみを克服出来ない訳ではありませんから、信仰の力を借りなくても苦しみを乗り越えられるお方はそれでいいのです。


問題は、自分の力だけでは死の恐怖や苦しみを克服できないお方です。


その方たちにとって、信仰が、苦しみを克服する大きな力と勇気と安心を与えてくれる頼もしい味方となり得る事は間違いありません。


私の拙い体験から申し上げれば、死の恐怖、死の苦しみを克服する道と、信仰とは切っても切れない関係にあります。


死の苦しみを克服する上について、お釈迦様もお大師様も道元禅師も良寛さんも菩薩様も、みな同じ事をおっしゃっておられるのは、不都合な死を在るがまま受けいれられる全肯定の心を養う上で、信仰の果たす役割が非常に大きいからです。


信仰は、全肯定の不動心を養う上で、心の支えとなるかけがえのないものであると言っても過言ではないでしょう。


◇信じるに値する心の依りどころ◇


勿論、ここにいう信仰とは、ある特定の宗教宗派の信者になるとか、特定の御本尊を信じるという意味ではありません。


あくまで、「これは好いが、あれは嫌いだ。極楽には行きたいが、地獄には行きたくない」という分別心や執着心を離れ、何事も在るがまま受け入れさせて頂ける全肯定の心を作らせて頂く為の信仰です。


言い換えれば、自らが心の依りどころとするに値するものを持つという意味での信仰です。


先ほど、「信仰がなくても、死の恐怖や死の苦しみを克服できるお方は、それでも構わない」と言いましたが、実は信仰をしないと言われるお方も、すでに依りどころとなるものを持っておられる筈なのです。


違うのは、その依りどころが、神仏への信仰ではなく、それ以外の何かであるという点です。


例えば、「お金しか頼れない」というお方は、お金を依りどころとし、信仰の対象として拝んでいるのです。


「家族しか頼れない」お方は、家族が信仰の対象であり、「わが子だけが頼りだ」というお方は、子供を心の依りどころとしているのです。


「信じるものも、心の依りどころも何も持たない」と言われるお方もまた、「信じるものも、心の依りどころも持たない」事を自己の信条とし、自己の判断を信じて生きている事に変わりはなく、何も信じていない訳ではありません。


こうして見てくると、信じるものも、心の依りどころも何も持たないというお方は、一人もいないと言っていいでしょう


要するに、お金であれ、家族であれ、子供であれ、自分自身であれ、他の何かであれ、神仏以外の何かを信じ、心の依りどころとして生きている事に変わりはないのです。


◇世間虚仮、唯仏是真◇


そうだとすれば、残る問題は、「果たしてそれらが心の依りどころとして信ずるに値するか?信じるに値する心の依りどころとは何か?」という事ですが、残念ながら、いま挙げたものはいずれも、心の依りどころとして信じるに値するものとは言えません。何故なら、それらはみな、移ろい易く、崩れ易いものだからです。


諸行無常の世の中にあって、形あるものは、自分であれ、お金であれ、家族であれ、子供であれ、親であれ、すべて移ろい易いものであり、真に信じるに値するものとはなり得ないのです。


例えば、子供を心の依りどころとしていても、親より先に死ぬかも知れませんし、親の面倒を見てくれるという保証もありません。


日蓮聖人は、「父母は常に子を念(おも)えども、子は父母を思わず、親は十人の子を養えども、子は一人の母を養うことなし」と嘆いておられますが、現代においても、頼りとしていた子供に裏切られ、泣いている親は数知れません。


その逆もしかりで、親に虐待されて亡くなったり大けがをする児童が後を絶たない現状を見れば、肉親といえども、信じるに値しない事が分ります。


ましてやお金が信頼できる筈もなく、遺産相続をめぐって、家族同士が醜い争いを繰り広げたり、お金にまつわる殺傷事件が日常茶飯事である事を見ても明らかでしょう。


勿論、自分以外に何も信じるものを持たないと言われるお方も例外ではありません。その自分もまた、一寸先も分らない迷い人であり、ひとたび無常の嵐が吹けば、為す術もなく消え去る朝露のような存在に過ぎないのです。


聖徳太子が「世間虚仮、唯仏是真(せけんこけ、ゆいぶつぜしん)」とおっしゃっておられるように、諸行無常の中にあって変わらないものは、仏(仏法)しかなく、真に心の依りどころとして信じるに値するものは、仏(仏法)以外にはあり得ません。


◇病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し◇


菩薩様が詠まれた道歌に、
 病むも好し 生きるも死ぬもみんな好し
   弥陀の救いの 中なればこそ

という歌がありますが、何故「病むも生きるも死ぬもみんな好し」と頷けるのかと言えば、み仏の救いの中にいるからです。


今まで何度もお話しているように、地獄が地獄、極楽が極楽なのではありません。「極楽は好いが、地獄は嫌だ」という分別心が地獄を作り、「地獄でも喜んで行かせて頂きます」という不動の信心が、極楽を見せてくれるのです。


地獄が極楽になったり、極楽が地獄になったりするのは、幸不幸というものが、私たちの思い方、受け止め方一つにかかっているからです。


私たちの心をおいて他に、地獄も極楽もありません。


お経には、「十万億土(じゅうまんおくど)彼方に行かなければ極楽はない」と説かれていますが、何故そんな気の遠くなるような遥か彼方に行かなければいけないのでしょうか?


仮に宇宙の果てまで行けたとしても、残念ながらそこに極楽はありません。何故なら、極楽は、自分の中にあるからです。


お大師様が、『般若心経秘鍵』の中で、
 それ仏法 遥かに非ず 心中にして 即ち近し
 真如 外にあらず 身を棄てて 何んか求めん
   迷悟 我にあり 発心すれば 即ち到る
   明暗 他に非ず 信修すれば 忽ちに証す

と説いておられるように、わが身を棄てて、極楽(悟り、光明、救いの世界)を求めても、そんな理想郷はどこにもありません。   


自分の居る場所が、そのまま極楽になり、病気をしても、病気をしている六尺病床が、極楽になるのです。


地獄も極楽も、幸も不幸も、何処からもやって来ません。全て自分自身の中にあります。


菩薩様が代受苦行という苦しみの極みの中でおっしゃった「有り難い」というお言葉、そして、「お大師様は、ただ信じるのではなく、信じ切らなければいけない」というお言葉を見れば、何が地獄で、何が極楽であるかがよく分ります。


◇地獄極楽は己が心次第◇


「一緒に極楽へ行ってくれますか?」と言われたら、誰でも「はい」と答えます。極楽は好都合な所ですから、素直に「はい」と答えられるのです。


では、「一緒に地獄へ行ってくれませんか?」と言われたらどうでしょうか?誰も地獄へなど行きたくありませんから、素直に「はい」とは答えられません。


そこで「はい」と答えられるようになるには、誰も行きたくない地獄へ行ける心に変わらなければなりません。


つまり、「お大師様、菩薩様のお指図であれば、喜んで地獄へご一緒させて頂きます」と答えられるまで深く信じる心にならなければ、地獄へは行けないのです。


ここで大切な事は、「極楽へ行ってくれますか?」と言われ、「はい」と答えて行く極楽が本当の極楽ではなく、また「地獄へ行ってくれますか?」と言われ、「はい」と答えて行く地獄が本当の地獄ではないという事です。


何故なら、極楽へは、不動の信心がなくても行けますが、地獄へは、不動の信心がなければ行けないからです。


不動の信心を成就して行く地獄は、もはや地獄ではありません。譬え地獄の鬼であっても、不動の信心を成就したお方の心を苦しめたり、迷わせたりする事は出来ないからです。


お大師様、菩薩様の救いの御手の中にいれば、お大師様、菩薩様を信じ切っていれば、病む事も老いる事も、生きる事も死ぬ事もすべて好しと頷けるのはその為です。


「地獄へ行ってくれますか?」と言われて「はい」と答えられたあなたは、すでにみ仏と一体であり、極楽に居るお方です。


勿論、その反対もしかりで、お大師様、菩薩様を信じ切る心がなければ、極楽も地獄と何ら変わりありません。


地獄、極楽は私たちの心が作り出す世界であり、心と離れて地獄極楽がある訳ではない事がお分かり頂けたと思います。


地獄を見るか、極楽を見るかは、ひとえに私たちの心一つにかかっているのです。


◇かけがえのない糧◇


お大師様、菩薩様、み仏様のお指図に素直に従えるか否か、その心に到達しているか否かを自らの心に問い、その心が出来ていれば、あなたはすでに死の恐怖を克服しておられるお方と言っていいでしょう。


しかし、仮にまだその心に到達出来ていないとしても、がっかりする必要はありません。一日も早くその心に到達出来るよう、日々精進をしてゆけばよいのですから。


大切な事は、まず今の自分の姿を在りのままに知る事であり、それを認めた上で不動の信心を確立できるよう、自らを高めていく事です。


勿論、不動の信心を確立する道は、決して平坦な道のりではありません。


しかし、ただの原石が、磨き上げられて光り輝く宝石に生まれ変わるように、不動の信心も、様々な試練や、不都合な出来事に遭遇する中で培われていくものであり、ただ好都合な事だけを求め、不動の信心に到達できる日が来るのを何もせずに待っているだけでは、その日は永遠に訪れません。


不都合な不治の病も、不都合な出来事も、自らを高め、不動の信心を確立する為に与えられたかけがえのない糧であり、魂の研磨剤なのです。


菩薩様が、『道歌集』の中で、
 いつの日か 苦難な縁起にあうときは
   苦しむことが 菩提(ぼだい)への道
 苦しみを 悲しむことより喜べよ
   深き悩みが 菩提(さとり)となるなり
 人になれ 人になれよとみ仏は
   心苦しめ 人とならしむ
 苦しみに あいてこそ知るみ仏の
   法(のり)のみちびき 慈悲の深さよ
 苦しみが あるから菩提(ぼだい)の花が咲く
   苦をもつ人こそ しあわせなりけり

と詠っておられるように、好都合で楽な道からは、不動の信心も死の恐怖を克服する力も勇気も安心も生まれません。


不都合極まりない、様々な悩み苦しみが待ち受けている道にこそ、美しい菩提(信心、悟り)の花は咲くのです。


合掌



病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(1)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(2)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(3)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(4)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(5)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(6)


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2016年07月14日

「intel(R)energy checker energy serverは動作を停止しました。」という表示が出る現象について!

最近、Windows10にアップグレードしたVAIO L(VPCL13AFJ)を起動すると、
「intel(R)energy checker energy serverは動作を停止しました。問題が発生したため、プログラムが正しく動作しなくなりました。プログラムは閉じられ、解決策がある場合はwindowsから通知されます」
というメッセージが表示されるようになりました。


Windows7の時は一度も出なかった現象なので、「Windows10にアップグレードした影響か?」と思い、ネットで調べてみると、すでに同じ現象で困っている方が大勢おられました。


どうやら原因は、Windows10ではなく、VAIOにインストールされているアプリ「VAIO Care」が悪さをしているようです。


そこで、こちらのサイトを参考にしながら、「VAIO Careの設定」を変更しました。


設定は簡単です。

VAIO Careを起動し、「VAIO Careの設定」ボタン(VAIO Careの右上にある道具箱のアイコン)をクリックします。


01.jpg


「VAIO Careの設定」の中の「VAIOの状態チェック」にある「パフォーマンスモニターを有効にする」のチェックを外します。


02.jpg


更に「システム調整」の中のすべての項目のチェックを外します。


03.jpg


パソコンを再起動して終わりです。


同じ現象は出ませんので、VAIOに限って言えば、原因は「VAIO Care」と特定してもいいと思います。

ただ、Windows7の時には全く出ず、Windows10にアップグレードしても出ていなかった現象が、何故最近出始めたのでしょうか?
やはりPCの世界はよく分りません(笑)

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2016年07月12日

病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(5)

◇裸で生まれて裸で帰る◇


菩薩様は常々「無常の域という終着駅に到達しなければ救いはありません」とおっしゃっておられましたが、無常の域とは、真実の自己に目覚め、不都合な出来事を悟りに変え、死の恐怖や様々な人生苦を克服した大安心の境地と言い換えてもいいでしょう。


何故人は死ぬのか?何故私たちに死が与えられているのか?


これは非常に難しい問いですが、少なくとも、死が苦しむ為に与えられているのでない事だけは確かです。


何度もお話しているように、生も死も諸行無常の真理の中のひとこまに過ぎず、そこに苦の概念はありません。にも拘わらず、私たちはその死を苦しみと感じています。


死が、好都合な生を終わらせる不都合極まりないものだからですが、御法歌『無常教える花仏』の一番の歌詞に、
  どこから来るか 桜の花は
  春の縁で 咲くという
    裸で生まれて 裸で帰る
    無常教える花吹雪 花吹雪
と詠われているように、死は、地位や名誉や財産の有無に拘わりなく、万人平等に訪れ、すべてをリセットし、裸で生まれてきた時と同じ状態に戻してくれます。


この世で見上げるような財の山を築いても、所詮、無常の風が吹けば、たちどころに崩れ去る砂上の楼閣に過ぎません。


目に見えない様々な功徳や数々の罪業を除き、この世で築いてきた形あるものは何ひとつ持っていけないというこの厳粛な事実こそ、死が与えられている意味を象徴する何よりの証と言っていいでしょう。


◇死を知っている草花たち◇


それだけではありません。死は、表裏一体である生を輝かしいものとしてくれるかけがえのない存在でもあります。


例えば、野辺に咲いている草花や、仏壇にお供えしてある生花は、やがて何日かすれば萎れ、枯れてゆきます。


何故枯れるのかと言えば、いのちがあるからです。生きているから、萎れ、枯れ、散ってゆくのです。


しかし、この草花たちは、ただ咲いているのではありません。やがて萎れ、枯れ、散ってゆかなければならない事を知って咲いているのです。


自らの死を知っているからこそ、限られた一瞬一瞬のいのちを懸命に生き、その晴れ姿を見せてくれているのです。


もしこの草花たちが、造花だったらどうでしょうか?


造花は萎れも、枯れも、散りもしません。造花にはいのちがありませんから、当たり前です。ですから、いのちのない造花にとって、死は何の意味も持ちません。これも当たり前です。


それに対し、限りあるいのちを生きる草花たちは、やがて萎れ、枯れ、散ってゆかねばなりませんから、死は草花たちにとって、とても大きな意味を持っています。


◇生花と造花の違い◇


その違いは、生花と造花の美しさの違いを比べてみれば、よく分かります。


私たちが野辺に咲く草花や仏壇にお供えしてある生花を見て、その美しさに心を癒されるのは、やがて萎れ、枯れ、散ってゆかねばならない限りある刹那のいのちを、精一杯生きているからです。


その美しさは、単なる草花の美しさと言うより、生きとし生けるものが持ついのちの美しさと言ってもいいでしょう。


勿論、造花には造花の美しさがあります。しかし、造花が草花や生花に及ばないのは、いのちの美しさを持っていないという事です。


造花が持つ美しさは、あくまで人間が人工的に作った、いのちのないものの美しさに過ぎません。


いのちのない造花は、どれほど美しく作られていても、所詮、いのちのある生花の美しさにはかなわないのです。


その代わり、造花は、病気もしないし、萎れも枯れも死にもしません。命がないのですから当たり前です。


しかし、いのちある草花や生花は、生きているからこそ、萎れ、枯れ、散ってゆかねばなりません。私たち人間も、生きているからこそ、病み、老い、死んでゆかねばならないのです。


それが、生きとし生けるものが必ず従わねばならない諸行無常(万物流転)の大原則です。


◇いのちある者だけが生き方を選べる◇


いのちあるものと、いのちなきもののこの決定的な違いは、美しさだけでなく、その生き方にも大きく影響します。


いのちのない造花は、どのように生きようとか、どのように生きれば美しくなれるかという事を考える必要がありませんし、考えても意味がありません。もうこれ以上、変りようがないからです。


しかし、草花や生花や私たち人間は、いのちがある故に、どのような姿にも変わり得る可能性を秘めています。美しくなる事もできれば、醜くもなる事もできるのです。


そして、より美しく咲きたい、より好く生きたいと願うなら、限りあるいのちをどのように生きれば、より美しく咲かせる事が出来るか、この世に生まれてきた目的は何なのかを考え、そのように生きようと努力しなければなりません。


日々刻々と変化し続けるいのちだからこそ、より好く生きる道をさがし求めなければならないのです。


これは、いのちある者の宿命であり、避けて通れない道なのです。


生と死は表裏一体ですから、より好く生きる道を求める事は、より好く死ぬ道を求める事でもあります。


その逆もまた然りで、生きている者が避けて通れない死を見つめる事は、より好く生きる道を見出す事にも通じています。


「そんな難しい事を考えなくても、生きてゆく事は出来ますよ」と言われるかも知れませんが、確かに生きてゆく事は出来るでしょう。


しかし、かけがえのない人生をより好く生きたいと思えば、ただ時間の流れるままに身を任せているだけでは、より好く生きる事は出来ません。


いのちあるものには必ず死があるからこそ、限られたいのちをいかに生きるかが、常に問われているのです。


◇死刑囚と無期囚◇


いのちの生き方、生かし方を考える上で決定的に重要な事は何でしょうか?


私は、いのちあるものには必ず死があるという当たり前の事実を自覚する事ではないかと思います。


菩薩様が、『道歌集』の中で、
 人よ人 死を見て悲しむことよりも
   死のあることを 忘れるな人
 
と詠っておられるのは、自己の死に直面する事が、より好く生きる上で何よりも大切だからです。


死がまだ漠然としている状態で生きるいのちと、死を自覚して生きるいのちとでは、生きる意味が根本的に違ってきます。


生だけを見つめていては、生きる事の意味も、いのちの本当の尊さも分かりません。


死を自覚して初めて、生きる事の意味も尊さも、生かされている事の有難さも、身に沁みて分ってくるのです。


よく、死期がはっきり見えている末期がん患者は死刑囚に、まだ死期が見えていない一般人は無期囚に譬えられますが、死刑囚と無期囚のどちらが刑務所の中で生き生きとした生活をしているかと言えば、意外にも死刑囚なのだそうです。


何故かといえば、死期が確実に迫っている死刑囚は、残されたいのちを精一杯生きようとするのに対し、刑務所へ何年入っていなければならないかが決まっていない無期囚は、どうしても緊迫感がないため、生き生きとした生活が出来ない為です。


この事実を見ても、自己の死を自覚する事が、より好く生きていく上においていかに大切であるかがよく分ります。


合掌



病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(1)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(2)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(3)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(4)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(5)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(6)


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2016年07月05日

病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(4)

◇生死の中に仏あれば生死なし


曹洞宗を開かれた道元禅師は、死の苦しみを克服する上で大切な事は何かについて、次のように述べておられます。


生死(しょうじ)の中に佛あれば生死なし。但、生死即ち涅槃(ねはん)と心得て、生死として厭(いと)ふべきもなく、涅槃として欣(ねが)ふべきもなし。この時初めて生死を離るる分(ぶん)あり。


つまり、「苦しみの中にみ佛がいれば、もうそこに苦しみはない。苦しみこそが救いだと悟る事が出来れば、もはや苦しみを厭ふ事も、救いを願う事もない。この境地に到達した時、初めて苦しみを乗り越える事が出来る」と言う事です。


私たちはみな、苦しみと救い、地獄と極楽、不都合と好都合を分別し、苦しみをもたらす不都合な地獄を恐れ、救いをもたらす好都合な極楽へ往きたいと願っています。


しかし、そのような分別心がある内は、地獄の苦しみを克服する事も、極楽の救いを手に入れる事も出来ません。


何故なら、地獄と極楽を分別し、自分にとって不都合な地獄を忌み嫌い、好都合な極楽を願うその心が、実は地獄、極楽を作り出している張本人だからです。


そうならない為には、不都合と好都合を分別する事を止め、いかなる出来事であっても、在るがまま受け止められる全肯定の心を養わなければなりません。


不都合な生死の苦しみを忌み嫌う心にも、好都合な涅槃の救いを願う心にも執着せず、すべてを在るがまま受け入れられる全肯定の心が確立出来た時、初めて不都合な生死の苦しみを克服する事が出来るのです。


◇災難をのがるる妙法◇


良寛和尚も、同じ事をおっしゃっておられます。


災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候。


「災難に遭う時は災難に遭いなさい。お迎えが来た時は、素直にお迎えに従いなさい。それが災難を逃れる唯一の方法です」とは、いかにも良寛さんらしい言い方ですが、要するに、災難や死そのものが災難ではなく、災難や死を恐れ、忌み嫌う分別心こそが、わが身に災いを及ぼす本当の災難であるという事です。


勿論、災難に遭いたい人など一人もいません。誰だって災難は避けたいし、死にたくないのです。これが人情であり、そう願ったとしても、誰からも責められる筋合いはありません。


誰もが災難に遭わずに暮らせたら、それに越した事はなく、それは良寛さんとて同じです。いくら良寛さんでも、自ら進んで災難に遭いたいとは思わないでしょう。


しかし、いくらそう思っていても、避けられないのが災難というものです。ましてや、必ずやってくる死は、避けようがありません。


良寛さんが説いておられるのは、もし不幸にして災難に遭ってしまった時や、死に直面した時の心構えです。


「無難に生きるのは良いが、災難に遭うのは嫌だ。長生きするのは良いが、死ぬのは嫌だ」という分別心があると、不都合な災難や死を前にして、在るがまま受け入れる事が出来ず、死の恐怖を克服する事も難しくなります。


私たちの思い方一つ、受け止め方一つで、地獄が極楽にもなれば、極楽が地獄にもなるからこそ、不都合な災難や不都合な死を、一切在るがまま受け入れられる全肯定の心を養い、思い方、受け止め方を変えてゆく事が大切なのです。


◇地獄の苦しみを克服された菩薩様の言葉◇


人々の罪や苦しみを代って背負う代受苦行(だいじゅくぎょう)は、様々な修行の中でも、難行中の難行と言われる修行で、お地蔵さまが、この代受苦行を誓っておられる事はよく知られていますが、その代受苦行の真っ只中で法舟菩薩様がおっしゃった言葉があります。


それは、「お大師様はただ信じるのではなく、信じ切らなければならない。み仏はただ信じるのではなく、信じ切らなければならない」「有り難い」という二つの言葉ですが、何故、地獄のような苦しみの中におられた菩薩様の口から、「有り難い」という言葉が出てきたのでしょうか?


このような状況に置かれた時、私たちの口から出てくるのは、「有り難い」という感謝の言葉ではなく、み仏に対する不信感や怒りの言葉です。


有り難い」という言葉は、そのような好ましくない状況からは、決して出て来ません。


では何故、代受苦行の真っ只中におられた菩薩様の口から、感謝の言葉が出てきたのでしょうか?


その疑問を解く鍵が、「お大師様はただ信じるのではなく、信じ切らなければならない。み仏はただ信じるのではなく、信じ切らなければならない」というもう一つの言葉です。


菩薩様がおっしゃった「有り難い」という言葉と、「お大師様はただ信じるのではなく、信じ切らなければならない」という言葉は表裏一体であり、どちらかが欠けても、菩薩様の真意を理解する事は出来ません。


菩薩様は、この言葉によって、「み仏を信じ、お大師様を信じ切っていれば、たとえ地獄のような苦しみであっても、どんな不都合な状況であっても、在るがまま受け入れさせて頂ける」事をはっきり示されたのです。


この言葉を見れば、菩薩様が、すべてを見抜き見通しておられるみ仏のお計らいに全幅の信頼を置き、在るがままを受け入れておられた事がよく分ります。


み仏を信じ切っておられたのは、み仏のお計らいに万が一の狂いも間違いもない事を確信しておられたからです。


ですから、お大師様と一体であった菩薩様にとっては、たとえ地獄のような苦しみの中にあっても、そこはもう地獄ではなく、極楽だったのです。


良寛さんが、「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候」と喝破されたのも同じで、ただの痩せ我慢でおっしゃった言葉ではありません。


逆に言えば、お大師様を信じ切る心も、み仏を信じ切る心もなければ、たとえ極楽であっても、そこはもはや地獄と何ら変わりないという事です。


◇分別心を無くせ◇


何度もお話しているように、死そのものは、生と表裏一体の関係にある大自然の摂理であり、諸行無常の真理のひとこまに過ぎません。


にも拘わらず、私たちが、その死を苦しみと感じるのは、好都合な生と不都合な死を分別し、好都合な生に執着しているからです。その分別心、執着心がある内は、本当の極楽は決して見えてきません。


例えば、もしみ仏から、「一緒に地獄へ行って、苦しむ人々を救う手助けをしてくれませんか」と言われたら、あなたはどうされますか?


「はい、分りました。み仏とご一緒なら、喜んで地獄へお供させて頂きます」と答えますか?それとも、「極楽ならお供しますが、地獄はどうかご勘弁下さい」と答えますか?


もし前者であれば、み仏と共に行く地獄は、もはや地獄ではありません。


道元禅師がおっしゃった「生死の中に佛あれば生死なし。地獄の中に佛あれば地獄なし」です。


しかし、心の中に「極楽へは行きたいが、地獄は嫌だ」という分別心がある限り、み仏のお指図には素直に従えないのです。


ここで私たちに必要なのは、幸不幸、好都合と不都合を色分けする分別心ではなく、み仏に対する信仰心なのです。


◇地獄・極楽の在り処◇


「み仏を信じれば、あの世の極楽浄土へ往生出来ます」と説く宗派もありますが、そんな理想郷を未来の彼方に描いてみても、極楽の扉は開かれません。


何故なら、地獄、極楽は一体であり、紙の裏表ですから、極楽があるところには、必ず地獄もあるからです。


もしあの世に極楽があれば、地獄もあの世にあります。この世が地獄なら、極楽もこの世にあります。


この世が地獄の世界だから、あの世に行かないと極楽の世界がないなどという事は断じてありません。


この世であろうと、あの世であろうと、地獄、極楽は、私たちの居るところにあります。何故なら、地獄も極楽も、自らが作り出す世界だからです。


この世にいる内は、この世の自分が地獄にもなれば、極楽にもなります。あの世へ行けば、あの世の自分が地獄にも極楽にもなるのです。


『道歌集』の中に、
 問うてみよ 己が心の奥底に
   仏もいれば 鬼もいるなり
という道歌があるように、己が心が地獄(鬼)を作り、極楽(仏)を作るからこそ、その心を変えなければ、この世に居ても、あの世へ行っても、何も変わらないのです。


すべては自分次第であり、思い方、受け止め方ひとつにかかっているのです。


合掌


病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(1)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(2)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(3)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(4)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(5)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(6)


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2016年07月02日

成功!Windows10へのアップグレード(VAIO・Lシリーズ)

Windows10への無料アップグレードを躊躇していたわが家のVAIOですが、残り期間が一か月余りとなったので、思い切ってアップグレードにチャレンジする事にしました。


アップグレードするPCは、平成20年6月に発売されたWindows7のVAIO・Lシリーズ(VPCL13AFJ)ですが、発売時期は古いものの、今でもわが家では主力PCとして活躍している現役です。


しかし、SONYのサイトを見ると、アップグレード対象機種から外れていますので、自己責任でするしかありませんが、自己責任でやるには、それなりの勇気と、自分でもやれるという見通しが必要です。


幸いネット上には、Windows10の無料アップグレードに挑戦された皆さんの体験談が数多く投稿されており、それを参考にすれば、余りPCに詳しくない私でも何とかやれそうに思えてきたので、思い切ってアップグレードに踏み切りました。


勿論、万が一の時の為に、バックアップを取った上で、チャレンジしましたが、結論から言えば、完全とはいかないまでも、ほぼ成功し、VAIOが新たに生まれ変わりました。


アップグレード手順


アップグレードは、次の三つの段階を経て行いました。


第一段階は、Windows7のWindowsUpdateによる「更新プログラムの完全インストール」です。
この作業を完了させてからでないと、Windows10のアップグレードは途中から進まなくなるので、この作業は欠かせません。
第二段階は、Windows10へのアップグレードの実行です。
第三段階は、VAIO特有の問題を解決する作業です。


◇更新プログラムの完全インストール◇


「更新プログラムの完全インストール」は、次の三段階を経て行いました。


1、「Windows Update」のコンポーネントの初期化


素人考えですが、初期化とは、最初から全ての更新プログラムをインストールし直すために、今までインストールした更新プログラムを全て削除する作業なのだろうと思いますが、確かに全て削除してしまえば、Windows Updateが途中から先に進まないという、いまWindows Updateで起きている問題を回避する事が出来ます。


現にこの方法を採用するまでは、何度Windows Updateをやってみても成功しませんでしたが、初期化してからは、アップグレードが出来るようになりました。


初期化する方法は、「コントロールパネル」→「管理ツール」→「サービス」と進み、その中にある「Windows Updateサービス」を右クリックして「停止」を選択します。


画面をそのままにした状態で、Windows がインストールされているローカルのハードディスク(通常はCドライブ)を開き、「Windows」→「SoftwareDistribution」と進み、その中にある「DataStore 」フォルダー内のすべてのファイルとフォルダーを削除します。


次に 「戻る」ボタンをクリックし、「SoftwareDistribution」フォルダ内の「Download」フォルダーを開き、フォルダー内のすべてのファイルを削除します。


開いたままになっている「サービス」の「Windows Updateサービス」をもう一度右クリックして、「開始」を選択します。


以上で初期化は終わりですが、念のため「Windows Update」を見てみると、今までインストールされていた更新プログラムは何もありませんから、初期化された事が分ります。


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2、一部の更新プログラムのインストール


更新プログラムを全て削除したので、改めて全ての更新プログラムをインストールし直さなければなりませんが、その前に一部の更新プログラムをインストールしました。


初期化したので、すぐ「Windows Update」に取り掛かってもよさそうですが、ネットを見ると、一部の更新プログラムをインストールしておいた方がよいという意見が多かったので、私もそれに倣いました。


以下の更新プログラムを、それぞれのサイトからダウンロードして、自分のPCに合ったプログラムをインストールしますが、わが家のVAIOは64ビットですので、すべて64ビット版をインストールしました。


但し、わが家のVAIOはこれでうまくいきましたが、他のPCでうまくいくかどうかは分りません。インストールする更新プログラムがこれだけでいいのかも分りません。PCの状態によっては、別の更新プログラムが必要になるかも知れませんが、いずれにせよ、いつでも元の状態に戻せるよう、バックアップだけは取っておいた方がいいでしょう。


(1)「Windows Update」エージェントプログラム


https://support.microsoft.com/ja-jp/kb/946928


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インストールが終わったら、再起動します。


(2)更新プログラム「KB947821」


https://www.microsoft.com/ja-jp/download/details.aspx?id=3132


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インストールが終わったら、再起動します。


(3)更新プログラム「KB3050265」


https://www.microsoft.com/ja-jp/download/details.aspx?id=47351


インストールが終わったら、再起動します。


(4)更新プログラム「KB3138612」


https://www.microsoft.com/ja-JP/download/details.aspx?id=51212


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インストールが終わったら、再起動します。


(参考にさせて頂いたサイト)

http://www.japan-secure.com/entry/measures_method_in_the_case_of_confirmation_of_the_Windows_Update_does_not_end.html


http://blog.treedown.net/entry/2016/04/04/001500


http://blog.treedown.net/entry/2016/01/11/010000


https://support.microsoft.com/ja-jp/kb/958046


3、「Windows Update」による更新プログラムの完全インストール


一部の更新プログラムのインストールが済むと、いよいよ「Windows Update」で、残り全ての更新プログラムをインストールします。


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更新プログラムの確認だけでも、1時間以上の時間を要しますが、焦らずに待ちましょう。


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確認が終わると、更新プログラムの数が表示されますが、数が多いだけに、こちらもインストールにはかなりの時間がかかりますので、辛抱強く待つしかありません。


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全ての更新プログラムの完全インストールが済むと、ようやくWindows10へのアップグレードが実行出来るようになりますが、アップグレードした後で思わぬ不具合が起こる事もあり得ますので、アップグレードする直前のハードディスクイメージのバックアップだけは、必ず取っておいて下さい。


◇Windows10へのアップグレード実行


アップグレードは、タスクバーの「Windows10を入手する」を使う方法、「Windows Update」から行う方法、インストールメディアを作ってから行う方法など色々ありますが、更新プログラムの完全インストールが済んでいるので、どの方法でも大丈夫だと思います。私は、「Windows10を入手する」からアップグレードしました。


アップグレードは思ったより簡単で、指示に従って進んでゆけば、再起動を繰り返しながらインストールされていきます。


最終段階で、「次へ」ボタンをクリックしなければならない場面が出てきますが、そのままクリックしても何の問題もありませんでした。多くの方々が、画像入りで、インストール手順をネットに投稿しておられるので、それを参考にすれば簡単に出来ると思います。


(参考にさせて頂いたサイト)


http://kurofune-blog.at.webry.info/201508/article_10.html


http://freesoft.tvbok.com/win10/yoyaku_upgrade.html


◇VAIO特有の問題の解決◇


Windows10へのアップグレードが無事に済んでも、VAIO特有の問題が残っていますので、それを解決しないといけません。


1、ディスプレーの解像度問題


これが一番大きな問題で、Windows7の時は、フルハイビジョン解像度(1920×1080)でしたが、アップグレード直後は、1024×768になり、画像が荒くて見られたものではありませんでした。


その理由は、VAIOのディスプレイドライバーが、NVIDIAの「GeFoce GT 330M」から、「Microsoft基本デイスプレイドライバー」に置き換わってしまった為です。


NVIDIAのサイトに、「GeFoce GT 330M」用のWindows10ドライバーが公開されているので、それをダウンロードして更新してみましたが、駄目でした。


相変わらず、デイスプレイドライバーは「Microsoft基本デイスプレイドライバー」のままで、「GeFoce GT 330M」がどこにも見当たりません。これでは、「GeFoce GT 330M」用のWindows10ドライバーも役に立ちません。


そこで色々調べてみると、同じような現象に見舞われたお方がおられたので、そのお方のブログを参考にしながら試してみたところ、見事に「GeFoce GT 330M」が復活し、解像度も元のフルハイビジョン解像度(1920×1080)に戻りました。


手順は、「コントロールパネル」→「デバイスマネージャー」→「ディスプレイアダプター」と進み、「Microsoft基本デイスプレイドライバー」を右クリックすると、「ドライバーソフトウェアの更新」が表示されるので、クリックします。


ドライバーソフトウェアの検索画面で、下にある「コンピューターを参照してドライバーソフトウェアーを検索します」をクリックします。


次の画面で「参照」ボタンを押し、ドライバーがインストールされているフォルダを指定しますが、それまでは、Cドライブの「Windows」→「System32」の中にある「drivers」フォルダを指定していたので、「GeFoce GT 330M」ドライバーは復活しませんでした。


理由は、VAIOにプレインストールされているドライバー類が、「System32」の中の「drivers」フォルダではなく、Cドライブの「Windows」フォルダの中の「Drivers」の中にある事を知らなかったので、指定するフォルダを間違えていた為でした。


そこで、改めてこの「Drivers」フォルダーを指定して、更新を終え、再起動してみたところ、見事に、ディスプレイの解像度が元のフルハイビジョン解像度に戻りました。


「デバイスマネージャー」の「ディスプレイアダプター」を見ると、「Microsoft基本デイスプレイドライバー」から「GeFoce GT 330M」に変わっていました。


2、GigaPocketDigitalが起動しない問題


地デジやBS放送を見るのに欠かせないGigaPocketDigitalも、アップグレード直後は、起動すらしませんでした。


SONYのサイトからは、Windows8/8.1用のアップデートプルグラム(Ver5.xx)が配布されていましたが、Windows7のわが家のVAIOはGigaPocketDigitalのバージョンが「Ver4.xx」なので、対象外となっていました。


ところが、ネットを調べてみると、「Ver4.xx」でも、Windows8/8.1用のアップデートプルグラム(Ver5.xx)にアップデートすれば、GigaPocketDigitalが見られるようになったという情報があり、早速、SONYのサイトからダウンロードしてインストールしたところ、こちらも見事に復活してくれました。


一つだけ残念なのは、電源オフからの録画予約が出来なくなった事ですが、全く録画できなくなった訳ではなく、休止状態かスリープにしておけば、今まで通り、録画予約もできるので、それで好しとしていました。


ところが、先ほどのサイトの投稿欄に、「Windows10のスタートアップにGigaPocketDigitalの番組表のショートカットを登録したら、電源オフからの録画予約も出来るようになった」との情報があり、それを試してみたところ、電源オフからの録画予約も出来るようになりました。


Windows10にアップグレードした直後は起動すらしなかったGigaPocketDigitalが、すべてアップグレードする前の状態に戻ったのですから、喜ばしい限りです。


スタートアップに登録するには、「ローカルディスク(Cドライブ)」→「ユーザー」→「ユーザー名」→「AppDate」→「Rorming」→「Microsoft」→「Windows」→「スタートメニュー」→「プログラム」→「スタートアップ」と進み、スタートアップフォルダにGigaPocketDigitalの番組表のショートカットを貼り付けるだけです。


3、BD/DVDドライブが認識されない問題


Windows10にアップグレードした直後は、BD/DVDドライブが認識されず、どこにも見当たりませんでした。


これはVAIO特有の問題ではなく、他の機種でも起きているようですが、こちらの方も解決された方のサイトを参考にさせて頂き、解決する事が出来ました。


手順は、「スタート」ボタンを右クリックし、表示される項目の中から「コマンドプロンプト(管理者)」をクリックします。


表示されたプロンプト画面に、下の二つのテキストをコピーして貼り付けます。


reg.exe add "HKLM\System\CurrentControlSet\Services\atapi\Controller0" /f /v EnumDevice1 /t REG_DWORD /d 0x00000001


reg.exe add "HKLM\System\CurrentControlSet\Services\atapi\Controller0" /f /v EnumDevice1 /t REG_DWORD /d 0x00000002


作業はこれだけで、再起動すればBD/DVDドライブが認識されるようになります。


因みに、サブとして使っているlenovoのノートパソコン(IdeaPad Z575)も、アップグレード対象外ですが、こちらもVAIOとほぼ同じ手順でWindows10へのアップグレードに成功し、新しく生まれ変わりました。


この場を借りて、皆様に感謝したいと思います。

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2016年07月01日

病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(3)

◇法則に有る事と無い事◇


諸行無常(万物流転)の真理の下では、すべてが移ろいゆく仮の存在に過ぎず、咲いた花が散り、生まれた者が滅するのも、散った花が再び咲き、滅した者が再び生まれるのもすべて約束事(決まり)であり、何の不思議もありません。


太陽が東から昇って西に沈み、水が高きから低きに流れるのと同じで、すでに決まっているこの世の法則なのです。太陽が西から昇り、水が低きから高きに流れないのは、この世の法則にないからです。


真理(天地の法則)というものは、全体の調和を保つ為にあります。


この世に諸行無常という天地の法則があるのは、その法則が人間を含め森羅万象にとって最も好都合だからです。


四季の移り変わりや、天候の移り変わりのない方が好都合なら、真理は必ずそうなっています。その代わり、移り変わりのない世界には、生も死もありませんから、私たちもこの世には生まれていません。


私たちが今こうして生きていられるのは、諸行無常という真理のお陰です。その代わり、その真理は、同時に死をも併せ持っています。


生だけでは、すべての調和を保つのに不都合だから、そうなっているのです。


諸行無常の真理は、すべての調和を保つ為に最も都合良く作られている法則ですから、例えば不老不死の仙薬を求めた秦の始皇帝のように、法則にない永遠の命を願っても、法則に逆らって死を拒絶しようとしても、そのような調和を乱す行為は、一切認められません。


それどころか、諸行無常の真理に逆らえば逆らうほど、どうにかしたいという気持ちと、どうにもならない現実の狭間で、自らを苦しめる事になります。


所詮私たちは、お釈迦様の掌から一歩も抜け出せなかった孫悟空と同じで、諸行無常の真理に逆らって生きられる者など一人もいないのです。


すでにそうなると決まっている以上、好むと好まざるとに拘らず、その法則を在るがまま受け入れ、有る事は有る、無い事は無いとうなづく他はありません。


◇死に苦しみの概念はない◇


この当たり前の事実から分る事が一つあります。


それは、生死そのもの、諸行無常の真理(変化の法則)そのものには、いかなる苦しみの概念も含まれていないという事です。


決められているのは、「全ては変化する」という天地の仕組みだけであって、「全てが変化する事は苦しい」という感情ではありません。


もし生死そのもの、諸行無常の真理そのものに苦しみの概念が含まれ、死が苦しみを伴うものであるなら、死を苦しいと感じているのは、私たち人間だけではない事になります。


果たしてこの世界に生息するあらゆる生き物たちもみな、死を迎える時、人間が感じているのと同じ苦しみを感じているのでしょうか?


陸海空に生きる犬や猫や野生の動物をはじめ、鳥や魚に至るまで、死を苦しみと感じているのでしょうか?


私たちが毎日頂いているお野菜や、野に咲く草花はどうでしょうか?


もし生死そのもの、諸行無常の真理そのものに苦しみの概念が含まれているなら、野菜や草花たちもみな、死を迎える時、私たちと同じ苦しみを感じている筈です。


勿論、お肉であれお魚であれお野菜であれ、いのちあるものを頂く以上、感謝の念をもって頂くのは当然ですが、人間と同じように、死に対し苦しみを感じているとすれば、今までのように何の抵抗もなくお肉やお魚やお野菜を頂く事は難しくなります。


雑草を引いたり、除草剤や防虫剤を散布する事も出来なくなるでしょう。


それだけではなく、もし諸行無常の真理そのものに苦の概念が含まれているなら、苦しみから救われる道は絶たれ、人類をはじめ、生きとし生けるものはすべて、永遠に死の苦しみを受け続けなければならなくなります。


お釈迦様やイエス・キリストといえども、諸行無常の真理を曲げたり、そこに含まれている死の苦しみを取り除く事は不可能ですから、お釈迦様やイエス・キリストが人類を救済する為にこの世に出られた事も無意味になってしまいます。


勿論、これは仮定の話で、お釈迦様やイエス・キリストが人類を救済する為に出世された事が無意味である筈がありません。


つまり、お釈迦様が、四苦八苦の人生から救われる道を示され、イエス・キリストが、自ら十字架を背負い、人類の罪をあがなわれたのは、死そのもの、諸行無常の真理そのものに苦しみの概念が含まれていないからです。


お釈迦様やイエス・キリストの出世は、救いの道が絶たれる事は決してない何よりの証と言っていいでしょう。


◇死の苦しみは作られたもの◇


多くの人々はみな、死に対し恐れや苦しみを抱いていますが、お気付きのように、恐れを抱かせたり、苦しめたりしているのは、死そのものではありません。


お釈迦様が四苦八苦として説かれた、生きる事、老いる事、病む事、死ぬ事、そして愛する人と別れる事、会いたくない人と会う事、求めても得られない事、欲望が盛んである事と苦しみとは何の関係もありません。


生まれた者が、やがて老い、病み、死んでゆくのは、諸行無常の世の決まりであり、大自然の摂理に過ぎません。生老病死は、諸行無常の真理の中に組み込まれている仕組みに過ぎませんから、本来、そこに苦というものはありません。


にも拘らず、人間は、それを苦と感じるのです。


まさに、ここが最大の問題と言っていいでしょうが、何故でしょうか?


しかも、苦と感じる生老病死は、肉眼には見えない細胞レベルでは、日常茶飯事に行われているにも拘らずです。


もし人間が、細胞レベルの死に対し恐怖を感じるようになれば、安らかな日常生活を送る事は不可能になるでしょうが、幸いな事に、恐怖を感じているのは、肉体と言う目に見える表面的な部分の死に対してだけです。


何故、目に見える肉体の死には恐怖を感じるのに、目に見えない細胞レベルの死には恐怖を感じないのでしょうか?


恐らく、眼に見えない細胞レベルでの死は、肉体を維持し、健康を維持していく為に欠かせない新陳代謝であるのに対し、肉体そのものの死は、自分という存在そのものの消滅を意味するからでしょう。


つまり、健康を維持する為の新陳代謝としての死は好都合であるけれども、自分という存在そのものの消滅は不都合だから、その生を終わらせる肉体の死だけを恐れ、忌み嫌うのです。


◇死は忌み嫌うべきものか?◇


お葬式から家に帰り、玄関先に撒かれた塩を踏み、身を清めてから家の中に入る光景をよく見かけますが、何故そんな事をするのかと言えば、死を汚れたものと考えているからです。


しかし、この考え方は矛盾しています。


もし死が汚れたものなら、死と表裏一体である生も汚れたものとなり、赤ちゃんが生まれた時も、玄関先に塩を撒いて清めなければならなくなります。


勿論、そんな事をする人は一人もいません。赤ちゃんが生まれる事は好都合ですから、誰もそんな事はしないのです。


こうして私たちの周囲を見渡すと、至る所で、人間にとって好都合と不都合を分別する心が暗い影を落としているのが分ります。


本来、死そのものは、汚れた事でも、不幸な事でも、忌むべき事でもありません。何度もお話しているように、生ある者が滅するのは、当たり前の事であり、生まれてきた時からの約束事に過ぎません。


この世に生まれてくる時、私達は、「老いる事も、病む事も、死んでゆく事もすべて受け入れる事を誓います」と宣誓してきたのかどうかは知りませんが、その事を承知してこの世に生まれてきたのです。


天地は、人間を苦しめる為に、老いや病や死を与えているのではありません。それが、人類にとって一番よい方法だから、そういう法則を作っているのです。


ところが、私たちは、いつしか天地との約束を忘れ、好都合な生に執着し、不都合な死を忌み嫌い、自らの手で苦しみの原因を作っているのです。


死を恐れるのも、死を汚れたものと見なすのも、結局、好都合な生に執着し、不都合な死を忌み嫌う心によって作り出された架空の産物に過ぎません。


◇分別心の罠◇


もうお気付きのように、死に対する恐れや苦しみは、死そのものによってではなく、死を受け入れようとしない私たち自身の心によって作り出されたものです。


何故老いや病や死が不都合なのかと言えば、いつまでも若くありたい、いつまでも健康でいたい、いつまでも生きていたいという思いに執着しているからです。


若さや健康や生への執着心が強ければ強いほど、それと相反する老いや病や死を不都合と感じる心も強くなります。


自分の立場から、物事を好都合と不都合に色分けする分別心と、好都合な事がいつまでも続くようにという執着心が、老いや病いや死を苦と感じさせているのです。


四苦八苦に数えられる、愛する人と別れなければならない苦しみ(愛別離苦)や、会いたくない人と会わなければならない苦しみ(怨憎会苦)も同じで、愛する人といつまでも一緒にいられる事や、会いたくない人と会わなくていい事は、甚だ好都合です。ですから、苦しみにはなりません。


その反対に、愛する人と別れる事や、会いたくない人と会わなければいけない事は不都合ですから、苦しいのです。


死も同じで、長く生きたいと思っている人にとって、これほど不都合なものはありません。一日でも長く生きられる事は好都合ですから、好都合な生を終わらせる死は、不都合極まりない存在という事になります。


この好都合と不都合が逆転するのが自殺で、生きていく事が大きな苦しみとなり、その苦しみを終わらせてくれる死が好都合となった人は、不都合な生を捨て、好都合な死を選ぼうとします。


いずれにしても、好都合と不都合を分別し、好都合な出来事に執着し、不都合な出来事を忌み嫌う心が苦しみの元凶である事は間違いありません。


生も死も、諸行無常の真理そのものですから、避ける事も逃げる事も、拒絶する事も出来ません。


死の苦しみは、死そのものに付随したものではなく、その死を在るがまま受け入れられない心が作り出した架空の産物ですから、作り出した本人以外にその苦しみを取り除ける者はいません。

死を不都合だと感じるのも、苦しいと感じるのもみなわが心ですから、その心を変える以外に苦しみを乗り越える道はないのです。


勿論、その道は決して平坦ではありませんが、有り難い事に、すでにお釈迦様をはじめ、先覚者と言われる方々が、その道を歩まれ、心を変える手本を示して下さっています。


次回は、叡智の結晶とも言うべき先人の教えをご紹介しながら、どうすれば死の苦しみを克服出来るのかについて、お話ししたいと思います。


合掌


病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(1)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(2)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(3)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(4)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(5)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(6)


高野山法徳寺Website『救いの扉』

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