2016年06月30日

病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(2)

◇諸行無常とは◇


この世に生きている限り、私たちが必ず従わなければならない法則があります。


宗教人種の違いも、貧富の差も、老若男女の別もなく、万人がいついかなる時も必ず従わなければならない法則、それは、諸行無常と言われるこの世の真理です。


諸行無常の理法(大法)を悟られ、仏教を開かれたのがお釈迦様ですが、「八万四千の法門」と言われる仏教を大木に譬えるなら、諸行無常の真理は、大木を支える根に相当すると言っていいでしょう。


「諸行」とは、この世に存在する一切のもの、つまり万物を意味します。ですから、諸行無常とは「万物は無常である」という意味ですが、万物が従わねばならない無常の真理とは何でしょうか?


よく「無常とは死ぬ事だ」と言われるお方がいますが、死ぬ事が無常ではありません。否、正確には「死ぬ事だけが無常ではない」と言った方がいいでしょう。


無常とは、文字通り移り変わる事、つまり変化する事です。


即ち、万物は一つの例外もなく変化し続け、それを否定する事も拒む事も曲げる事も逃げる事も出来ないこの世の決まり(法則)、これが諸行無常です。


◇死だけが無常ではない◇


菩薩様が、『道歌集』の中で、
  無常とは なくなるものと思うなよ
    春夏秋冬 めぐり来るのに

と詠っておられるように、ただ死ぬ事だけが無常ではなく、この世にオギャーと生まれてくる事も諸行無常です。


諸行無常と言う真理がなければ、私たちはこの世へ生まれて来れませんでした。生まれて来れたのは、諸行無常の真理のお陰です。


オギャーと生まれた赤ちゃんが、次第に成長していくのも、健康な人が病むのも、病んだ人が健康を取り戻すのも、老い、やがて死んでいくのも、すべて諸行無常という真理の中で生かされているからです。


生きとし生けるものはみな、諸行無常の真理の中で、この世に生まれる縁起によって生まれ、死ぬ縁起によって死を迎えますが、それで終わりではありません。


一度死んでも、再び生まれ変わる縁起によって生まれ変わり、死ぬ縁起によって死を迎え、その後も繰り返し訪れる生の縁起と死の縁起によって、果てしない生死の旅を続けているのです。


生まれてから死ぬまでの人生を「阿吽(あうん)の人生」と言いますが、「阿吽の人生」は、今生の一度限りではありません。


無始以来、幾多の「阿吽の人生」が繰り返され、今生に受け継がれ、更に果てしない未来へと引き継がれていくのです。


私が生まれてくる為には、私の両親がこの世に生まれて来なければなりません。私の両親が生まれる為には、更にその両親(四人の祖父母)が生まれて来なければなりません。


こうして十代遡れば、1024人の父母が、二十代遡れば、104万8576人の父母が、三十代遡れば、10億 7374万1824人の父母がいた事になりますが、そのすべての父母が、諸行無常の真理によってこの世に生を受け、「阿吽の人生」を生きてきたのです。


このように過去から悠久の未来にかけて、命の営みが一度も途切れる事なく脈々と受け継がれ、繰り返されているこの世の有り様を、諸行無常と言うのです。


◇在るのは流れる時間の変化だけ◇


諸行無常の真理の中で、過去から受け継がれ、未来へと受け継がれていく「阿吽の人生」は数知れませんが、「阿吽の人生」と言われる生から死までの人生の正体は一体何でしょうか?


例えば、私達は、四季折々の移り変わりを、春夏秋冬と呼んでいますが、春や夏と名付けられた実体を持ったものが存在する訳ではありません。


刻一刻と流れている時間のひとこま、季節のひとこまを切り取って、仮に春と名付け、夏や秋や冬と呼んでいるに過ぎません。


「季節が春から夏に変わりました」と言うと、いかにも春と言う実体のあるものから、夏と言う実体のあるものに変わったようにみえますが、春や夏と呼ばれているものはどこにも存在しません。


そこにあるのは、ただ時間の流れだけです。


その流れている時間のひとこまを、仮に春と呼び、夏と名付けているに過ぎませんから、春という実体を持ったものが死んで、夏という実体を持ったものが新たに生まれた訳ではありません。


それは人間の生死も同じです。


流れている時間のひとこまを捉えて、生と呼び、死と呼んでいるだけで、生と呼ばれ、死と呼ばれているものの実体がそこに在る訳ではありません。


そこに一貫して在るのは、絶えず流れている時間の変化だけです。


◇生死一如◇


よく「生は有限であるが、死は無限(永遠)である」と言われるお方がいますが、これは間違いです。もし生が有限なら、死もまた有限なものと言わねばなりません。


何故なら、仏教に「生死一如」(しょうじいちにょ)という言葉があるように、生と死は、切り離す事の出来ない表裏一体のものだからです。


別々のものが二つあるように見えますが、実は一枚の紙をどちら側から見ているかの違いに過ぎません。


生の裏には必ず死が、死の裏には必ず生があり、死の無い生も、生の無い死もありません。


生が流れる時間のひとこまなら、その裏にある死もまた流れる時間のひとこまに過ぎません。


ですから、仮にこの肉体が灰になっても、ただ時間の流れのひとこまを切り取って死と呼んでいるに過ぎません。


よく「肉体は土に帰る」と言われますが、まさにその通りで、肉体を組成していた縁起が、肉体を消滅させる縁起に変わって土に帰っていくだけです。


時間の流れが止まる事はありませんから、死んで土に帰っても、再び生の縁起によって、新たないのちが肉体を与えられ、この世へ生まれてきます。


◇有るようで無く、無いようで有る存在◇


私たち人間を含め、森羅万象を形作っている縁起は、諸行無常の真理の中で刻一刻と変化し続けています。


私たちは、固定的な実体を持った存在として生きているのではなく、様々な縁起によって変化し続け、「有るようで無く、無いようで有る」存在としてのみ生きる事を許されているのです。


般若心経の中に、「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」(注1)と説かれているように、万物は、固定的に存在しているように見えるけれども、実は絶えず変化しながら移り変わってゆく仮の存在として生きているに過ぎません。


例えば、一時間前の私と今の私は、外見上は全く変っていないように見えますが、私の肉体細胞は間違いなく変化し続け、一時間だけ老化し、死の縁起に近づいています。


刻一刻と変化している諸行無常の真理の中では、変わらないと言える固定的な実体を持ったものは、私を含め一切存在しません。


ですから、一時間前の私はもうここにはいません。ここにいる私は、一時間前とは別の私です。


否、一時間どころか、一秒前の私と、今の私と、一秒後の私でさえ、みな別人です。


別人と言われて驚かれたかも知れませんが、人間を形作っている約60兆個の細胞は、諸行無常という真理の中で、刻一刻と変化し続け、絶えず新陳代謝を繰り返しており、別人であるのが当然なのです。


こうしている間も、古い細胞は、常に新しい細胞と入れ替わっています。


胃の細胞は五日、肌の細胞は二十八日、筋肉や肝臓は六十日、血液は四ヶ月、骨は三年周期で新しく生まれ変わり、細胞レベルでは、五〜七年の周期で、すっかり生まれ変わっているのです。


◇宇宙生命の新陳代謝◇


目に見えないところで行われている為に気付いていないだけで、肉体を組成している細胞は、毎日一瞬の休みもなく新陳代謝(生死)を繰り返し、全体としての肉体を生かし続けているのです。


肉体の死によって、初めて死を迎えているように見えますが、肉体を形成している60兆個の細胞は、片時も休み無く生死を繰り返しています。決して、肉体の死によって初めて死を迎える訳ではありません。


宇宙の隅々にまで普く遍満し、果てしなく続く命の時間の流れ(宇宙生命)を、小宇宙と言われる私たちの肉体に譬えるなら、私たち一人一人は、肉体を形作っている一つ一つの細胞です。


60兆個の細胞が、肉体の中で絶えず変化しながら、新陳代謝(生死)を繰り返しているように、私たちもまた、果てしない命の時間の流れ(宇宙生命)の中で、絶えず変化してやまない細胞の一つとして生存しているに過ぎません。


私たちの生死は、宇宙全体から見れば、絶え間なく繰り返されている生命活動の現われであり、宇宙生命の新陳代謝そのものと言っていいでしょう。


これが、生死の正体であり、諸行無常の真理の下で生きる事を選んだ私たちが守らなければならない法則です。


◇刹那の中の人生◇


仮に一秒毎に今の私が新しい私に生まれ変わっているとすれば、僅か一分間の内にさえ、六十人もの私が生まれ、死んでいる事になります。


その六十人の私の内、どの私が本当の私なのでしょうか?


勿論、どの私も正真正銘の私であり、私でない私は一人もいません。


しかし、その六十人の中で同じ私は一人もいないのです。


これが、諸行無常という真理の下で、「有るようで無く、無いようで有る」存在としてのみ生きる事を許されている私たちの姿です。


言い換えれば、そこに居る私は、私であるように見えて、どの私も私でない私であり、同時に私でないように見えて、どの私も私である私なのです。


いま「一分間の中にさえ六十人もの私が居て、しかも、同じ私は一人も居ません」と言いましたが、諸行無常という真理の中では、一秒どころか、一瞬(刹那)の中に私の生死があり、「阿吽の人生」があります。


変化するものには、一瞬という刹那の中にさえ必ず生死があります。生死がないものには、変化も命もありません。


変化こそが、生きている何よりの証なのです。


生まれてから死ぬまでの七十年、八十年余りの人生を、「阿吽の人生」と呼ぶなら、「阿吽の人生」は、一瞬(刹那)の中にあると言っていいでしょう。


まさに「一瞬(刹那)の人生」です。


今の一瞬(刹那)の中にも、次の一瞬(刹那)の中にも、その次の一瞬(刹那)の中にも、違う私の「刹那の人生」があります。


こうして私たちは、無始以来、一瞬一瞬の生死を繰り返しながら、数限りない「刹那の人生」「阿吽の人生」を生きてきたのです。


合掌


病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(1)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(2)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(3)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(4)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(5)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(6)


高野山法徳寺Website『救いの扉』

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2016年06月26日

毎年恒例の訪問客オオムラサキ!

今年も、オオムラサキがやってきました。


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八ヶ岳南麓一帯は、国蝶オオムラサキの日本一の生息地となっており、毎年この時期になると、境内を飛び回るオオムラサキを目にする事が出来ます。


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天候の影響や環境の変化に敏感なので、去年は余り見かけませんでした。今年はどうでしょうか!


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2016年06月12日

雑木と雑草の刈り取り!

境内の一角にある雑木と雑草の刈り取り作業が、今日ようやく終わりました。


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一週間ほど前から始めた作業ですが、年をとってからの肉体労働は、やはり堪えます。


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雑木も雑草も、放置しておくと、どんどん大きくなって、業者の方にお願いしなければならなくなるので、そうならないよう、早め早めの作業を心がけてはいるのですが…。


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奈良にいる時は、一度も持った事のなかったチェンソーと草刈り機ですが、今や無くてはならない相棒です。


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2016年06月04日

病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(1)

◇スピリチュアルケアの必要性◇


先日、末期がんで闘病中のご住職を紹介するビデオが、某テレビで放映されていました。


このお方は、真言宗豊山派に属する栃木県益子町にある西明寺(さいみょうじ)のご住職で、東京都中央区築地にある国立がん研究センターで、進行がんの専門医を務めておられた田中雅博さんというお方です。


前住職が亡くなられた後、がんセンターを退職して西明寺の住職となられ、「普門院診療所」という名前の診療所を寺内に開設して、地域医療に携わってこられましたが、昨年10月、末期のすい臓がんが見つかり、余命宣告を受けられました。


現在、抗がん剤治療を受けておられますが、来年3月の誕生日を迎えるのは、非常に厳しい状況にあるとのお話でした。


長年、僧侶と医師の一人二役で、末期がんの患者さんの心のケアにも取り組んでこられ、その体験を活かしながら、ご自身の末期がんとも向き合いつつ、患者さんの心のケアを続けておられますが、国立がんセンターに務めておられた時、よく患者さんから「私は治りますか?」と尋ねられたそうです。


進行がんは治すのが非常に難しく、「残念ながら治す事は出来ません」と答えるしかない虚しさ、悔しさを味わうと共に、モルヒネなどで痛みは抑えられても、死の恐怖や死の苦しみを取り除く事の出来ない医学の限界を思い知らされたそうです。


自宅で死を迎えるのが当たり前だった昔とは違い、現在は病院で死を迎えるお方が大勢おられ、死と向き合わざるを得ない患者さんの心のケアが求められているにも拘らず、医学的知識だけでは、死に直面している人たちの心を和らげられないばかりか、医師や看護師の仕事が余りにも多忙なため、「いのちの苦しみ」「死の苦しみ」を緩和する「スピリチュアルケア」に時間を割いている余裕も無いのが現状で、長年その事に疑問を抱いてこられました。


確かに今までの医学は、いのちをどう延ばすかという延命治療ばかりに関心が集まり、いのちをどう生き、死とどう向き合うかという心のケアには全く無関心であったような気がします。


そんな中、自らも末期がんを患い、今まで取り組んでこられた「死の苦しみ」「死の恐怖」を緩和する「スピリチュアルケア」を一層推し進める必要性を痛感しておられるというお話は、僧侶の一人として深く考えさせられるものがありました。


◇健康な内にこそ心の準備を◇


死とどう向き合い、「死の苦しみ」「死の恐怖」をどう乗り越えるかは、お釈迦様が2500年以上も前に出家を決意された動機(注1)の一つですが、お釈迦様ならずとも、この世に生を受けた者にとって、「死の苦しみの克服」は永遠に付いて回る人生最大の課題と言っていいでしょう。


お釈迦様の時代とは比較にならないほど驚異的な発展を遂げている現代ですが、残念ながら、私たちの前に立ちはだかる「死の苦しみ」「死の恐怖」という巨大な壁は、今も2500年前も全く変わっていません。


当たり前と言えば当たり前かも知れませんが、「死の恐怖の克服」は、一人一人が自らの問題として、一刻も早く解決の道を見出しておかなければいけない喫緊の課題である事は言うまでもありません。


「善は急げ」と申しますが、誰もが遅かれ早かれ必ず向き合わなければならない死という現実に、一日も早く取り組んでおいた方がいいに決まっています。


しかし、末期がんにでもならない限り、自己の死と向き合う事は、口で言うほど簡単ではありません。


ご承知のように、シリアやイラクでは、毎日のように無差別テロで多くの人々が犠牲になっていますが、テレビに映し出される映像を見ていても、まるで戦争映画でも見ているような錯覚さえ覚えるのは、死というものが、自己の死と直結せず、まだどこか他人事のようにしか感じられないからかも知れません。


必ずやってくる死と向き合い、その苦しみを克服する道を模索しておかなければいけない事はみんな分っている筈ですが、頭で分っているからと言って、現実に死と向き合える訳ではなく、健康な人にとっては、まだまだ遠い未来のいつかに過ぎないのです。


しかし、余命あと数ヶ月と言われてから、死と向き合い、死の恐怖を克服する道を模索していては、やはり遅いと言わざるを得ません。


死の恐怖の克服は幾ら早くても早すぎる事はありませんし、決して無駄にはなりません。


まだ健康だからではなく、いま健康だからこそ、健康な内に、その日の為の心の準備をしておく事が肝要ではないかと思います。


◇仏縁を頂く有り難さ◇


有難い事に、私は、僧侶という立場上、常に死というものについて考えさせられる仏縁を頂き、また死について法話をする機会も少なくありません。


先ほどもお話したように、お釈迦様が出家を決意されたのは、死を前にして為す術もなく翻弄され、「死の苦しみ」「死の恐怖」に慄いている人々の有様をご覧になった事が動機の一つだと言われています。


菩薩様の『道歌集』の中に
 人よ人 死を見て悲しむことよりも
   死のあることを 忘れるな人

という法歌がありますが、死が必ず有る事の現実を直視され、死の恐怖や苦しみを克服する道を求め、あらゆる難行苦行に挑まれたのが、お釈迦様でした。


そして、ついに「死の苦しみ」「死の恐怖」を克服する道を悟られ、当時としては宗教革命と言っても過言ではない仏教を開かれたのです。


仏縁を頂くという事は、取りも直さず、死の苦しみを克服されたお釈迦様のお悟り(仏法)に触れるご縁を頂くという事であり、まだ仏縁を頂いておられないお方に比べ、死の問題と向き合える機会も、死の苦しみを克服する機会にも恵まれている事を思えば、これほど有り難い事はありません。


今わが国では、29秒に一人が生まれ、26秒に一人が亡くなっています。


少子化が加速度的に進んでいる事はこの数字を見ても明らかですが、いずれにしても、29秒の中に入っている私たちにとって、死は決して他人事ではありません。


今まで医師であり僧侶でもあるという立場から、多くの末期がんの患者さんの死と向き合い、心のケアを続けてこられた西明寺のご住職も、いまご自分の死が間近に迫ってきている状況の中で、「死の苦しみ」をどう克服するかと言う人生最大の難問に直面しておられる訳ですが、これは、ご住職だけの問題ではなく、私たち一人一人が克服しなければならない問題でもある事を深く心に刻んでおいて頂きたいと思います。


◇臨死体験から得た結論◇


ジャーナリストの立花隆氏は、医師から死を宣告されたにも拘らず、再び息を吹き返した数多くの臨死体験者を取材され、死後の世界の解明に挑まれましたが、その結果、「あの世が有るのか無いのか結局のところはよく分からないという結論に到達した」と、その著書『臨死体験』に書いておられます。


しかし、同時に分った事が二つあるとも書いておられます。


一つは、死ぬ事が怖くなくなった事、もう一つは、死はいつか必ず来るのだから、生きている内はそんな事を考えずに、いかに生きるかを考えなければいけないという事です。


その境地に到達されたのは、体験者の取材をつづけ、体験者がほとんど異口同音に、死ぬのが恐くなくなったと言うのを聞いている内に、死というものの正体が、それほど恐怖に満ちたものではない事が分ってきたからですが、これは、死に対する恐怖心を克服する上で、非常に興味深い話ではないかと思います。


何故なら、結局、死への恐怖心を克服する為には、死の正体を見極め、その上で自分自身を納得させる以外にない事を示唆しているからです。


立花氏が「いつの間にか私も死が恐くなくなってしまった」と書いておられるのは、数多くの臨死体験者の体験談を聞いている内に、自らもその体験談に納得出来たからに他なりません。


言い方を換えれば、死に対する恐怖心を克服する為に書いたのが『臨死体験』であり、この書は、立花氏が死の恐怖を克服するまでに辿った道のりを綴ったものと言ってもいいでしょう。


勿論、立花氏が納得出来たから、私たちも『臨死体験』を読めば納得出来るようになるのかと言われれば、そう簡単に「死の恐怖」を克服出来る訳ではありません。


しかし、少なくとも同氏の体験が、死を克服する上で、一つの示唆を与えてくれている事だけは間違いありません。


◇死とは何か?◇


お釈迦様は、「人生は苦である」と説かれ、その苦を「四苦八苦」という言葉で表現されました。


「四苦八苦」の「四苦」とは、「生・老・病・死」という四つの苦しみの事です。


「八苦」とは「八つの苦しみ」ではなく、生老病死の「四苦」に、愛する人と別れなければならない愛別離苦(あいべつりく)、会いたくない人と会わなければならない怨憎会苦(おんぞうえく)、欲しても思うように得られない求不得苦(ぐふとっく)、様々な欲望に縛られて生きなければならない五陰盛苦(ごおんじょうく)を加えたものです。


この中で最大の苦しみが、自分と言う存在が無くなる死の苦しみで、お釈迦様が出家を決意をされた動機の一つでもあります。


しかし、「では人生最大の苦しみである死の正体について、どこまで知っておられますか?」と問われ、即座に答えられるお方が果たして何人おられるでしょうか?


恐らく殆どの方が、肝心の「死の正体」を知らないまま、ただ漠然と「死に対する恐怖心」を抱き、「死とは怖いものだ」と思い込んでおられるのではないでしょうか?


化け物の 正体見たり枯れ尾花(注2)


この俳句のように、怖い、恐ろしいというイメージを持っていると、何でもない事まで恐ろしいものに見えてきます。


死も同じで、その正体を知らないまま、「怖い、恐ろしい」というイメージだけが先行してしまっているような気がしてなりません。


勿論、臨死体験者を除き、死は一度きりの体験であり、その正体は体験してみなければ分りませんが、いずれにしても、死の正体が分らなければ、死の恐怖を克服する道も見えてきません。


そこで先ず、お釈迦様のお悟りから見えて来る「死とは何か」「死の正体」について考えてみたいと思います。


合掌


病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(1)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(2)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(3)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(4)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(5)
病むも好し、生きるも死ぬもみんな好し(6)


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