2016年05月30日

生きる目的を見失っているあなたへ(8)

◇人生の良きパートナー◇


自分自身の生き方や考え方を変えると言いましても、変える為には、変えるきっかけや動機がなければなりませんが、そのきっかけや動機となるのが、実は私達にとって甚だ不都合な迷いや苦しみなのです。


生きる目的を見失っているあなたに(5)」で述べたように、草花には迷いがありませんから、その生き様はたくましく、常に迷いの中にある我々人間から見れば、羨ましくさえ感じられます。


しかし、迷いや苦しみがないという事は、裏を返せば、進歩がなく、それ以上の成長がないという事です。


人間は、迷いも苦しみもしますが、迷い、苦しむからこそ進歩も成長もしてゆけるのです。迷いや苦しみがあるからこそ、お悟りの世界にも生まれ変われるのです。


菩薩様が、『道歌集』の中で、
  苦しみを 悲しむことより喜べよ
    深き悩みが 菩提(さとり)となるなり
  苦しみが あるから菩提(ぼだい)の花が咲く
    苦をもつ人こそ しあわせなりけり
 と詠っておられるのは、その為です。


「高原陸地に蓮華を生ぜず」と言われるように、み仏が、清らかな水の中にではなく、あらゆる汚物が流れ込む汚泥の中に根を張って育つ蓮華を台座としておられるのは、人生の迷いや悩み苦しみが大きければ大きいほど、悟りも深くなるみ仏の心を象徴しているからです。


確かに迷いや苦しみは、人間にとって厄介な存在ではありますが、同時に、自分自身を変えるきっかけを与えてくれる有り難い存在でもあります。


迷いや苦しみがなければ、お悟りもありませんし、彼岸・極楽へも行けません。迷いや苦しみがあるお陰で、人間の可能性は無限に拡がっているのです。


路傍の石や雑草にさえ、それぞれの役目があるように、迷いには迷いの、苦しみには苦しみの果たすべき役割があります。


それ故、迷い苦しみのマイナス面だけを見て忌み嫌ったり、避けたりするのではなく、自分を変えてくれる良きパートナーとして在るがまま受け入れ、悟りに変えていく知恵を身に付ける事が大切なのではないかと思います。


◇生活の道具に迷わされるな◇


お四国八十八ヶ所霊場を巡るお遍路さんが被っている菅笠に、「迷故三界城、悟故十方空、本来無東西、何処有南北」(めいごさんがいじょう、ごこじっぽうくう、ほんらいむとうざい、がしょうなんぼく)という言葉が書かれているのを、ご覧になった事があると思います。


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これは、「迷うが故に三界は城なり、悟るが故に十方は空なり、本来東西は無く、何れの処にか南北有らん」と読みますが、迷いと悟りの違いをよく現しています。


例えば、北の方角を向いている私から見れば、右に居る人は東に、左に居る人は西に居る事になりますが、私が右に居る人の右側に立てば、今まで東に居た人は、西側になり、自分の立ち位置によって、東に変わったり、西に変わったりします。


何故こんな事が起きるのかと言えば、方角と言う概念は、私の立ち位置が変わっても決して変わらない絶対的、普遍的なものではないからです。


方角は、地球上に生きる我々が、便宜上そう決めたものに過ぎませんから、地球上でしか通用しません。


赤道を緯度0度として、北側を北緯、南側を南緯で現し、更にイギリスのロンドンにあるグリニッジ天文台を通る子午線を経度0度(本初子午線)として、東側180度を東経、西側180度を西経で現すと決めたのも、起点を決めておかないと、地域や国によって位置の表示や時間がバラバラになるからです。


このように、私達が日常当たり前のように使っている方角や時間、暦などというものは、すべて本来はどこにも存在しない架空の概念であって、便宜上作られた謂わば生活の道具(生活の知恵)に過ぎません。


ところが、便宜上から生まれた生活の道具に振りまわされて、右往左往しているだけでなく、不幸な結果を招いているのが、私たち人間なのです。


勿論、方角、時間、暦という概念がなければ、人類が現在のような高度な発展を遂げる事は不可能だったでしょうから、無かった方がよかったとは言えません。


しかし、正しい使い方をすれば、人類に多大の恩恵をもたらす文明の利器である自動車が、一度その使い方を誤れば凶器にも変わるように、方角、時間、暦という概念を作って便利になった反面、それに振り回されて不幸を招いているのでは、何のために作り出した生活の道具なのか分りません。


迷いや苦しみも同じで、迷い苦しみがなければ、人生はもっと豊かで幸せになっていたかと言えば、そうとは言えません。また、迷い苦しみがあるから幸せになれないのかと言えば、そうとも言えないのです。


要は、迷いを邪魔者扱いするのではなく、幸せの糧としていく知恵を磨き、悟りに変えていく事が大切なのです。


薬にもなれば毒にもなる可能性を秘めている迷いや苦しみを、人生を豊かにする為に使う事も出来れば、人生を貧しくする為に使う事も出来ます。


勿論、迷いや苦しみは、薬として人類の幸福に役立てられる為にこそあるものであり、そこに迷い苦しみの本来の役目がある筈なのですが、害を与える毒として使っている人々が少なくありません。


薬として活用する手立て(方法)は、仏法の中にしか説かれていませんから、仏法を知らなければ、迷い苦しみを薬として活かす事は難しいでしょう。


◇慈悲ゆえまたも思いまどいつ◇


判断に迷い、進むべき道に迷い、様々な事に迷うのは、自らが招いた結果であり、自業自得と言ってもいいでしょうが、実はそう言い切れない場合もあります。


『道歌集』の中に、
  思わねば よいと思えどみ仏の
    慈悲ゆえまたも 思いまどいつ
 と詠われているように、自ら迷うのではなく、み仏の慈悲心によって迷わされる場合があるのです。


み仏は、私達をお悟りの世界に生まれ変わらせたいと願い、因縁を解いて救われて欲しいと祈っておられます。しかし、それを実現する為には、どうしても動機付けとしての迷いや苦しみが欠かせません。


そこで、み仏は、あえて私たちを迷わせ、苦しめ、悶々とさせるのです。


迷い苦しみがなければ、お悟りの世界を求める心も起せませんし、救いの世界を見る事も出来ませんから、み仏は、私たちに迷い苦しみを与え、どうしても悟りの世界に進まざるを得なくなるよう、仕向けられるのです。


例えば、時として甚大な被害をもたらす台風ですが、同時に、大量のゴミによって汚されている海の大掃除をしてくれる存在でもあります。


台風によって海が荒れ狂うからこそ、海水が攪拌されて、海に漂っている様々なゴミが海岸に打ち上げられるのです。


人間も同じで、様々な迷いや苦しみがあるからこそ、知らぬ間に溜まっている心の汚れを洗い流させて頂けるのです。


迷い苦しみは、一見不必要で不都合なものに見えますが、私達がより良く生きていく為には欠かせないものでもあります。


◇迷いを悟りに変える智慧ー仏法◇


私達にとって欠かせない迷い苦しみではありますが、何もしなければ迷い苦しみは無くなりませんし、何も変わりません。


迷いは、私達の救いにとって欠かせない、より良きパートナーですが、より良きパートナーとするのも、悪しき邪魔者とするのも、私達自身の手にかかっています。


何もしなくても、迷いさえあれば、誰も彼もがみなお悟りの世界へ生まれ変われる訳ではありません。迷いがお悟りに変わって初めて救いの世界が見え、迷わされている事の意味も分かってくるのです。


迷っているだけでは、永遠にお悟りの世界(極楽浄土)へは行けませんし、迷いをお悟りに変えなければ、迷いは永遠に続いていくだけです。


迷い苦しみの世界を六道と言い、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上」という六つの世界がありますが、この六道は、円の世界ですから、終わりがありません。


その果てしなく廻り続ける六道輪廻の人生に終止符を打ち、円の外に飛び出す為には、どうしても迷いをお悟りに変える必要があり、迷いをお悟りに変えてくれる智慧の結晶とも言うべき仏法が欠かせないのです。


◇罪と功徳の岐れ道◇


何度もお話しているように、仏法には、左右どちらの道へ進めばよいのかという判断(判定)はありません。


判断しないのは、絡まった因縁(縁起)の糸を解きほぐさない限り、右へ行っても、左へ行っても、何も変わらないからです。


「どちらの道を選んだ方がいいのかではなく、先ず自分自身が背負っている因縁を解いて下さい」と、繰り返しお話しているのはその為です。


大切な事は、絡まった因縁の糸を解いて、在るべき本来の姿に戻してあげる事です。そうすれば、自分自身の立ち位置が分り、進むべき道も自ずと見えてきます。


因縁さえ解ければ、どちらへ進むべきかの判断が出来るようになります。


しかし、因縁を解かぬまま、どちらへ行けばいいのかを判断するだけなら、絡まった因縁は背負ったままですから、何も変わりませんし、確固たる判断も出来ません。


例えば、他人に貸したお金が返って来なかったら、皆さんはどう対処しますか?


貸したお金は、返ってくるのが当たり前です。予定通り、お金が返って来れば、腹を立てる必要もありません。


しかし、返ってこなければ、腹を立て、罵詈雑言を浴びせ、身と口と心で、悪しき様々な因縁を作るかも知れません。


折角人にお金を貸してあげて功徳を積んだのに、功徳どころか、腹を立てて罪を作っているのでは、何のためにお金を貸してあげたのか分かりません。


しかし、もし「貸したお金が返らないのは何故だろう?」と疑問を持ち、心を落ち着けてその真相を悟ってみれば、全く違う世界が見えてくるかも知れません。


◇天地の計算狂いなし◇


貸したお金が返らないのは、そこに何らかの因縁があるからです。その因縁とは何でしょうか?


御法歌『頼め彼岸へ法のふね』の中に、
  他人のために 損しても
    それで前生の 借り果たす
    天地の計算 狂いなし
 という歌があるように、人に貸したお金が返らないのは、もしかすると、前の世に借りたお金を返していなかったのかも知れません。


勿論、前の世の事は誰にも分りませんし、「借りていたかどうかも分らないのに何故そんな思い方をしなければいけないのか」と、いぶかしく思われる方もいるでしょう。


しかし、因縁を解く上で大切な事は、返らないという結果をどのように受け止め、どのように悟りに結びつけていくかという事です。


勿論、「お金が返らないのは、返さない相手が悪いからだ」と言って、相手に全責任を押し付け、腹を立て、非難する事も出来ます。世間的には、そうしたからと言って、誰からも文句を言われる事はありません。


しかし、返らない事には必ず因縁がありますから、もし因縁を知っていれば、「返らない責任は自分にもある。先ず自分が過去の因縁を解かなければ、返る筈のお金も返らない」と悟っていく事も出来るのです。


そして、前の世の借りをこの世で返す時が来たのかも知れないと納得出来れば、「 天地の計算狂いなし」という言葉が、心の奥底にストンと落ちてくる筈です。


そう悟る事が出来れば、相手を憎む心も消え、「前の世でお借りし、有り難うございました」という感謝の気持ちが湧いてきます。


「貸したお金が返らないのは、いまが過去の因縁を解く(過去の借りを返す)又とない機会なのだ」と悟らせて頂き、貸し借りを清算させて頂けば、絡まっている因縁が解けていくのです。


しかし、悟る事が出来なければ、いつまでも損をしたと言って、貸した相手を恨みながら、また新たな輪廻の業を作っていく事になります。


もし因縁が解けない内に、お金が返ってきたとすれば、幾らお金を返してもらっても、また形を変えた別の因縁によって苦しまなければなりません。


人生には様々な悩み苦しみが付いて回りますが、もし不都合な悩み苦しみを頂いた時は、「いまここで因縁を解きなさいというみ仏のお指図だ」と悟らせて頂き、更に精進させて頂けばいいのです。


合掌



生きる目的を見失っているあなたへ(1)
生きる目的を見失っているあなたへ(2)
生きる目的を見失っているあなたへ(3)
生きる目的を見失っているあなたへ(4)
生きる目的を見失っているあなたへ(5)
生きる目的を見失っているあなたへ(6)
生きる目的を見失っているあなたへ(7)
生きる目的を見失っているあなたへ(8)


高野山法徳寺Website『救いの扉』

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2016年05月16日

「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(7)

◇安全保障は一か八かの賭けではない◇


この運動の発案者の鷹巣さんは、「戦争放棄、非武装中立」を掲げてこの運動を始められたようですが、わが国を取り巻く厳しい現状を考えれば、この政策が、「相互の信頼関係の確立と国の安全保障は切り離せない」という前文と9条の根本精神に抵触している事は明らかでしょう。


「戦争放棄、武力放棄」という理想は、何度もお話しているように、相手に命さえも委ねられる強固な相互の信頼関係の上に成り立つもので、周辺国から様々な軍事的圧力や挑発を受けている現状では、絵に描いた餅に過ぎないばかりか、違憲の疑いさえある政策と言わねばなりません。


百歩譲って、「戦争放棄、非武装中立」政策が正しいとの前提で、これを実行に移したと仮定した場合、我々国民はどういう状況に置かれるでしょうか?


成否の行方は、覇権主義的野望に燃え、領土拡大を目論み、南シナ海や東シナ海で度重なる挑発を繰り返す共産党一党独裁政権の意向と、国際世論の動向にかかっていますが、この政策は、 武力をもって威嚇し、挑発してくる独裁政権に我々の命を委ねるに等しい行為ですから、最後に頼りとなるのは、国際世論しかありません。


つまり、1億2000万人の国民は、憲法前文に謳われている「平和を愛する諸国民の公正と信義」だけが頼りという、まさに薄氷を踏むような状況に置かれる事になります。


覇権主義的野望に燃える共産党一党独裁政権がわが国を侵略しようとする場合、世界中の世論を敵に回すか否かの選択を迫られる訳ですが、同時にわが国も、国際世論(平和を愛する諸国民の公正と信義)が信頼するに足るか否かの判断を迫られる事になります。


これはまさに一か八かの賭けで、吉と出るか凶と出るかは、蓋を開けてみないと分りません。


問題は、国際世論(平和を愛する諸国民の公正と信義)を、どこまで信頼していいのかという事ですが、そうなるとやはり、中国に侵略されたチベット出身のペマ・ギャルポさんが、衆議院憲法調査会の公聴会で述べられた次の証言が、我々の肩に重くのしかかってきます。


◇重い体験者の証言◇



憲法9条の一方的な戦争放棄に対して何らかの国際社会においての保証もなければ、それを尊重するような環境もないのが現実です。

私が生まれた祖国チベットは、7世紀以来仏教を信仰し、生命の尊重を願って他に危害を加えない平和を一方的に信じてきたが、残念ながら、1950年代にはその平和な生活は、中国によって一方的に侵略され、固有の価値観を否定され、約600万人の5分の1の人たちが、尊い命が奪われた。

国連の機関である国際司法裁判所は、これを大量虐殺(ジェノサイド)と判定し、国連総会において3回にわたって非難決議がされたが、結局、チベットは侵略されたまま、何の救済にもならなかった。

敬虔な仏教国チベットでは、指導者である僧侶達が殺生を禁じ「仏を拝んでいれば平和は保たれる」と主張し抵抗を禁じたが、その結果チベットは地獄になってしまった。中共軍が本格的に進入してきた時、チベット軍はすでに解体させられていた。

「インドに頼もう」とか「国連に訴えよう」とチベットは行動をおこしたが、インドは動かなかった。

そして95%の僧院が破壊され、120万人のチベット人が虐殺された。

日本人に言いたい事は、自分でいくら平和宣言をしても他国を縛る事はできない。泥棒を中に入れてから鍵をかけても遅いという事だ。



残念ながら、これが、鷹巣さんや実行委員会の方々が頼りとする国際世論(平和を愛する諸国民の公正と信義)の正体と言っていいでしょう。


「私が生まれた祖国チベットは、7世紀以来仏教を信仰し、生命の尊重を願って他に危害を加えない平和を一方的に信じてきた」というペマ・ギャルポさんの証言を見ると、鷹巣さんや実行委員会の方々、そして集団的自衛権行使容認に反対し、平和安保法案を戦争法案と言い換えて批判している方々の言う「戦後70年間、わが国の平和が保たれてきたのは憲法9条があったからだ。他国に武器を向けなかったのも、9条があったからだ」という証言と余りにも似ている事に気付かれると思いますが、決定的に違う点があります。


それは、ペマ・ギャルポさんの証言が、侵略された体験者の言葉であるのに対し、実行委員会や安保法案を戦争法案と言い換えて批判している人々の言葉は、一党独裁政権に侵略された経験のない人々のただの思い込みに過ぎないという事です。


どちらの発言が説得力を持つかは言うまでもないでしょうが、鷹巣さんたちが最後の頼みとする国際世論(平和を愛する諸国民の公正と信義)が、ギャルポさんの証言通りだとすれば、「戦争放棄、非武装中立」政策が吉と出る可能性は、皆無とは言いませんが、限りなく低いと言わなければなりません。


つまり、戦争放棄と武力放棄を実行に移しても、戦争の無い世界の実現はおろか、独裁政権の暴走を食い止める事さえ不可能で、この案が伝家の宝刀となる事は、万が一にもありえないという事です。


鷹巣さんや実行委員会の方々が、この証言をどのように受け止めておられるのかは知る由もありませんが、それでもあえてこの運動を推し進めようとされるのであれば、国際世論(平和を愛する諸国民の公正と信義)によって独裁国家の暴走を食い止められると確信している根拠を国民の前に明らかにしなければなりません。


勿論、国際世論(平和を愛する諸国民の公正と信義)の力を過小評価するつもりはありませんし、国際世論にも侮れない力があるのかも知れません。


しかし、大切な事は、1億2000万人もの国民の生命財産を、一か八かの賭け事のような天秤にかける事は出来ないという事です。


◇国民に覚悟を問わねばならない責任◇


鷹巣さんや実行委員会の方々が、「憲法9条があったから日本は平和だったのだ」と言われるなら、どうしても避けて通れない道があります。


それは、戦争放棄と武力放棄を行動に移した結果、起こり得るであろう最悪の事態を甘んじて受け入れるだけの覚悟があるか否かを、全国民に問わなければならないという事です。


つまり、鷹巣さんや実行委員会には、1億2000万人の国民に対し、平和実現のために武力を放棄し、独裁政権に命を委ねた為に侵略を許し、すべてを失ったチベットやウイグルのようになってもよしとする覚悟があるのか否かを問う責任があるという事です。


もしその覚悟を全国民が共有している事が明らかになれば、もはや躊躇する必要はありません。


全てを失ってもよしとする覚悟が出来ているのですから、あとは「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信頼して、天命に委ねるだけです。


しかし、それを実行しようと思うのであれば、その覚悟があるか否かを、まず全国民に問わなければなりません。


そして、あらゆる疑問や不安と真摯に向き合い、全国民が納得出来るよう根拠を示して説得しなければなりません。


安保法案を戦争法案と言い換え、危機感を煽る野党議員がよく言う「説明責任」を果たす必要があるという事です。その責任を放棄しては、この運動に不安を抱く大多数の国民との溝は深まっても、賛同は得られないでしょう。


これは、ただ「私達はそう信じているから、何も言わず黙って後へついて来て下さい」と言って済まされる問題ではありません。


わが国を取り巻く厳しい安全保障の現状や、ISILによる無差別テロと、国を追われヨーロッパに押し寄せるシリア難民問題などをはじめ、今の世界情勢を見れば明らかなように、真の平和の実現は、わが国だけが戦争放棄、武力放棄を実行して実現できるほど、生易しいものではありません。


また一口に国際世論(平和を愛する諸国民の公正と信義)と言っても、それぞれの利害関係によって左右され、流動化するのが人の心の常であり、決して一枚岩ではありません。


そんな中で、わが国だけが高い理想論を掲げて先頭を突っ走っても、ペマ・ギャルポさんが証言しているように、国際世論はおろか、1億2千万人の国民の納得さえ得られないでしょう。


ましてや、わが国が一方的に、戦争放棄、武力放棄を実行し、独裁政権に国民の生命を委ねる道を選択するとなれば、国民の生命財産を危険に晒すだけでなく、祖国を失う恐れさえ出てきます。


そうなれば、子々孫々に顔向けができません。


前にもコメントしたように、真の平和とは、相手にわが命を委ねられるまでの相互の信頼関係の確立の上に立って初めて実現出来るものですが、その相互の信頼関係が崩壊している状況の中で、もし鷹巣さんや実行委員会の方々が、国際世論(平和を愛する諸国民の公正と信義)を信じてこの運動を続けようとしておられるのであれば、1億2000万人の国民は、かけがえのない命をその手に委ねる事になります。


その覚悟を問わねばならない全国民を受賞対象としながら、様々な疑問や不安に対し、真摯に向き合う姿勢が見られぬばかりか、世界中が共産党一党独裁政権の挑発と暴走に脅威を感じ、警鐘を鳴らしているにも拘らず、わが国政府の行動を一方的に批判するだけで、独裁政権の暴走と脅威には何も言わず黙認しておられる現状を見ると、平和を願う国民の一人として、この運動が目指している方向性に不安と疑問を抱かざるを得ないのが、偽らざる気持ちです。



「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(1)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(2)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(3)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(4)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(5)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(6)
「憲法9条にノーベル賞を」運動に思う(7)


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2016年05月09日

生きる目的を見失っているあなたへ(7)

◇一切諸法は因縁より生ず◇


前々回と前回、進むべき進路に迷い、判断を求める電話をしてこられた女性の話や、二つ道のどちらへ行くべきか迷っている極楽望氏の例え話、そして出家すべきか結婚すべきかで悩んでいる女のお遍路さんの事例を挙げ、「自分自身が変わらない限り、右へ行っても左へ行っても、出家しても結婚しても、何も変わらない」「将来の事は誰にも分らないが、苦楽幸不幸があるのは、どちらの道も同じだ」と申しました。


また「仮に理想郷としての極楽浄土が有ったとしても、そこへ行けば、全ての悩み苦しみから解放される訳ではない」とも言いました。


何故そんな事が言えるのかと言いますと、私たちはみな、一人の例外もなく、過去に作ってきた様々な因縁を背負っているからです。


お釈迦様が「一切諸法は因縁より生ず」と説いておられるように、私たちが作ってきた因縁は、私たちの人生において、様々な結果となって現れてきます。


因縁生起(いんねんしょうき)とも、略して縁起(えんぎ)とも言いますが、一口に縁起と言っても、自分にとって都合の良い縁起もあれば、不都合な縁起もあります。


しかし、自分が作った因縁は、わが身に付いたものですから、好都合な因縁も不都合な因縁もすべて、自分が行くところへ持っていかねばなりません。


右へ行けば右へ、左へ行けば左へ、出家しても結婚しても、自分が行くところへどこまでも付いてくるのです。


例えば、東京から大阪へ引越しをする際、不都合な因縁だけを東京に置いて来るという訳にはいきません。


もしそれが可能なら、自分に都合の良い因縁だけを持って引っ越せばいいのですから、これほど好都合な事はありませんが、そうはいかないのです。


◇外の相に迷ってはならない◇


古歌に、
  浪の音 嫌じゃと思うて山ごもり
    声色変えて 松風ぞ吹く
 と詠われているように、海岸の近くへ家を建てたら、打ち寄せる波の音が喧しくて眠れないので、海岸から離れれば静かだろうと山奥へ移ったら、今度は松を吹き抜ける風の音が騒がしくてやはり眠れないのです。


要するに、場所を変えても、進むべき道を変えても、相手を変えても、不都合な何かを変えても、自分自身が変わらない限り、何も変わらないという事です。


しかし、世間には、自分以外の不都合な何かを変えれば人生が好転すると考え、益々迷いを深めている人々も大勢おられます。


ご承知のように、手相、人相、家相、骨相、印相、墓相、風水、四柱推命、六星占術、易、姓名判断、西洋占星術、水晶占い、霊感占い等々、ありとあらゆる占いに関する解説書が巷に溢れていますが、私自身もかつて、仏法を知るまでは、自分が背負っている因縁に気付かず、自分以外の不都合な何かを変えれば救われるだろうと考え、占いの世界に興味を持った時期がありました。


菩薩様を通じて仏法の真髄に触れてからは、いかに自分の考え方が短絡的で浅はかだったかを知り、占いへの興味もなくなりましたが、もし仏法というものに触れていなければ、益々迷いを深め、どこまで行っても先の見えない真っ暗闇の中を当てもなく彷徨っていたに違いありません。


菩薩様の『道歌集』の中に、
  相(そう)相と 外の相にと迷うより
    変えてうれしや わが心(うち)の相
  さとりなき 人の霊感はからいは
    衆生(ひと)も己れも 破滅にみちびく
  外面(そとづら)を 変えて人生変わるなら
    この世に苦しむ 人なきものを
 と詠われているように、自分の心が変わらない内に人生が好転したとすれば、それは大難、大病の前兆と言っていいでしょう。


道歌集.jpg


家相や墓相はお金を出せば変えられますし、人相は整形手術をすれば何とか変えられるかも知れませんが、世相という相はどうして変えるのでしょうか?


世相を変えようと思えば、人の心を変える以外に方法はありません。


そして人の心を変える道を説くのが仏法であり、心の外にある不都合なものを変えれば人生も好転すると考える占いや霊感とは根本的に違うところです。


◇変わらない縁起の法則◇


自らが作った因縁は、死によっても消滅する事はありません。結果となって現れるまでは、後の世までも相続していかなければならないのです。


因縁の現れ方について、道元禅師は、「善悪の報に三時あり。一つには順現報受(じゅんげんほうじゅ)、二つには順次生受(じゅんじしょうじゅ)、三つには順後次受(じゅんごじじゅ)、これを三時と言う」と説いておられます。


順現報受とは、この世で作った行いの結果(果報、業報)を生きている間に受けなければならない場合、順次生受とは、この世で報いを受けなくても、次の世で受けなければならない場合、順後次受とは、この世や来世で受けなくても、更に後の世で報いをうけなければならない場合を言います。


あの世や次の世と言っても抽象的で分り難いので、菩薩様は、「行いの結果がすぐに現れてくるのが順現報受、徐々に現れてくるのが順次生受、忘れた頃に現れてくるのが順後次受と考えればよい」とおっしゃっておられましたが、例えば、電車の中でお年寄りに席を譲ってあげた時、すぐに「有り難うございます」というお礼の言葉が返ってきたり、譲った自分も清々しい気持ちになれるのは、結果がすぐに現れる順現報受業を積んだからです。


また、昨年、ノーベル医学生理学賞を受賞された北里大学の大村智栄誉教授や、ノーベル物理学賞を受賞された東京大学宇宙線研究所長の梶田隆章氏は、長年続けてきた研究が徐々に実を結び、大きな成果となって現れた順次生受業と言えましょう。


いずれにしても、自ら作った因縁は、善悪の結果となって実を結ぶまでは永遠永劫、相続していかなければならないのです。


極楽望氏が、占い師の翁の言葉を信じて右の道へ行こうが、霊感者の老婆の言葉を信じて左の道へ進もうが、また女のお遍路さんが、出家の道を選ぼうが、結婚の道を選ぼうが何も変わらないのは、背負っている因縁がどこまでも付いてくるからであり、因縁を解かない限り、何も変わらないのです。


ですから、右の道を選んで不幸になったとしても、結婚して不幸になったとしても、その道を選んだから不幸になったのではありません。また右の道や出家の道を選んでいれば、幸せになった訳でもありません。


自分が背負っている因縁が、右の道を選べば右へ、左の道を選べば左へ、結婚の道を選んでも、出家の道を選んでも、選んだ方へ付いてくるから、自ら背負っている因縁が幸不幸の結果となって現れてきたに過ぎません。


左と右、出家と結婚とでは現れ方が違うだけで、幸不幸の結果となって現れてくるという縁起の法則自体は何も変わらないのです。


◇「因縁を解く」と「因縁を切る」の違い◇


先ほどお話したように、自らが蒔いた種である以上、自分に都合の良い果実だけを収穫し、不都合な果実を排除したり拒否したりする事は出来ませんが、不都合な結果を運命と受け止め、幸せになる事を諦めなければならない訳ではありません。


何故なら、一旦結果となって現れた不都合な因縁であっても、悟りによって幾らでも都合の良い因縁に変えていく事が出来るからです。


つまり、絡まった糸を解きほぐすように因縁を解き、汚れた泥の中から清らかな花を咲かせる蓮華のように因縁を清める事が出来るのです。


縁起とは変えられるものであり、この点が、変えられない運命と根本的に違うところですが、自分にとって不都合な縁起を好都合な縁起に変えていく事を、「因縁を解く」「因縁を清める」と言います。


この「因縁を解く」「因縁を清める」という仏法の考え方と似て非なるものが、占い師や霊感者がよく使う「因縁を切る」と言う考え方です。


仏法では、因縁は切るものではなく、解くもの、清めるものと考えます。何故なら、因縁を切る事は出来ず、切る必要もないからです。切ってよい因縁も、切らなければならない因縁もありません。


「因縁を切る」という考え方の根底にあるのは、都合のよい因縁はそのままに、都合の悪い因縁だけを断ち切ってしまえばいいという心(分別心)ですが、そもそも都合のよい因縁と、都合の悪い因縁を、何を基準にして分けるのでしょうか?


例えば、自分は、どうしてもお天気になって欲しいと思っていても、他方で雨が降らなければ困る人もいます。自分の立場から言えば、お天気になる縁起は好都合で、雨を降らす縁起は不都合になりますが、雨が降って欲しい方の立場に立てば、不都合な雨が好都合に変わるのです。


そうなれば、好都合と不都合が立ち位置によって、めまぐるしく変わる事になり、何が好都合で何が不都合なのか、分からなくなってしまいます。


また仮に善悪縁起の判断が出来たとしても、今度は、不都合な縁起だけをどのようにして断ち切るのかという新たな難問が出てきます。


例えば、死という因縁は、生という因縁があって初めて生まれたものです。生という因縁がなければ、死という因縁もありません。


死という因縁は、私たちにとって甚だ都合の悪い因縁ですが、不都合だからと言って、生という因縁と一体である不都合な死の因縁だけを断ち切る事など不可能です。


ここに言う不可能とは、もちろん、断ち切る事が出来るのに断ち切れないという意味ではありません。生と死がそうであるように、元々断ち切れない不可分の関係にあるから断ち切れないのです。


要するに、「不都合な悪因縁だけを断ち切る」という発想そのものが矛盾しており、この世の真理に反していると言わざるを得ないのです。


◇吉祥天と黒闇天◇


以前、吉祥天と黒闇天のお話をしたのを覚えておられるでしょうか。


或る日、気品ただよう美しい女性が訪ねて来られ、「私は吉祥天という福の神です。お宅に、福徳を授けにまいりました」と言って、家の中に入って来られました。


ところが、吉祥天の後から、見るからにみすぼらしい女性が入って来ようとしているので、家人が「どなたですか?」と尋ねると、「私は黒闇天(こくあんてん)という疫病神です」と名乗ったので、「疫病神に入ってもらっては困ります。どうぞお帰り下さい」と言って、追い返そうとしました。


すると、黒闇天は大笑いして、「先ほど入って行った吉祥天は、わたしの姉です。わたしたちはいつも一心同体ですから、わたしを追い出せば、姉の吉祥天も一緒に出て行かねばなりません」と言って、黒闇天を追い出したら、せっかく入って来られた吉祥天も黒闇天と一緒に出て行ってしまったのです。


「吉凶禍福はあざなえる縄の如し」という諺があるように、幸不幸というものは、紙の裏表のようなもので、同じものをどちら側から見るかの違いに過ぎません。


表裏一体の関係にありますから、不都合な悪因縁を断ち切ろうと思えば、都合のよい善因縁も一緒に断ち切らなければならなくなります。


死という因縁が嫌なら、生という因縁も断ち切らなければなりません。


ましてや自分にとって不都合な因縁もみな、自分が作ってきたものですから、因縁を作った自分自身が変わらない限り何も変わらないし、変わりようがないのです。


合掌



生きる目的を見失っているあなたへ(1)
生きる目的を見失っているあなたへ(2)
生きる目的を見失っているあなたへ(3)
生きる目的を見失っているあなたへ(4)
生きる目的を見失っているあなたへ(5)
生きる目的を見失っているあなたへ(6)
生きる目的を見失っているあなたへ(7)
生きる目的を見失っているあなたへ(8)


高野山法徳寺Website『救いの扉』

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2016年05月08日

若神子諏訪神社の御柱祭2016!

去る5月4日(水)、山梨県北杜市須玉町若神子(わかみこ)の中心街において、若神子諏訪神社の御柱祭が盛大に催されました。


若神子/諏訪神社の御柱祭は、寅年と申年に行われる七年に一度のお祭りで、長野県の諏訪大社の御柱祭の流れを汲む由緒ある伝統行事です。


お稚児行列を先頭に、御神木の里曳き、男衆による長持ち行列、婦人舞踊が、町の中心街を練り歩きました。


御神木の里曳きは、地元の須玉小学校と須玉中学校の子供達が中心となり、威勢のよい木遣りの掛け声と共に、「一之御柱」と「二之御柱」が諏訪神社まで運ばれ、五穀豊穣、無常息災、家内安全、地域の発展と団結、そして熊本地震からの一日も早い復興を願い、「一之御柱」は拝殿に向かって右側に、「二之御柱」は向かって左側に建てられました。


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2016年05月01日

モグラ避け風車!

最近、境内のあちこちで、土が盛り上がっているので、よく見ると、どうもモグラの仕業のようです。


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特にソメイヨシノの根元付近が酷いので、モグラ避けに何かいいものはないかと、ネットで調べたところ、ペットボトル風車を作っている人が大勢いました。


風車が廻る音で、土の中にいるモグラを追い払おうという計画です。


そこで早速、ペットボトル風車を作ってみました。作り方は、思ったより簡単でした。


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今日は風がかなりあるのでよく廻ります。成功です。


0501-3.JPG


音もそこそこするので、かなり効果が期待出来そうです。


景観を考えると、お寺の境内には余り似合わないかも知れませんが、背に腹は変えられません。


しばらくこれで様子を見て、効果が確認出来れば、少しずつ増やしていこうと思います。

posted by カンロくん at 14:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記