2016年04月27日

生きる目的を見失っているあなたへ(6)

◇菩薩様のご説法◇


仏法による救済とはいかなるものか、占い・霊感による判断と何が根本的に違うのかについて、一つの事例を挙げてお話したいと思います。


もう二十五年以上も前になりますが、菩薩様が高知県窪川町にお住まいのご同行、S・Fさんのお宅にご説法に行かれた折の事です。


ご説法の後、菩薩様は、お参りされた皆様の様々な悩み事の相談に乗っておられましたが、その中に、若い女のお遍路さんが一人おられました。


四国霊場を巡拝している途中、たまたま善根宿のお接待をしておられたS・Fさんと知り合い、菩薩様が法話に来られる事を知り、悩み事の相談をしたいと、菩薩様が来られるのを待っておられたのです。


そのお遍路さんは、出家して尼僧になるべきか、出家を諦めて結婚すべきか、自ら決断出来ずに迷っておられ、どちらに進んだらよいかの判断をしてもらいたいと、菩薩様にご相談されたのですが、菩薩様の説法は、厳しさの中にも、その方を救わんが為の慈悲心あふれる非常に感銘深いものでした。


遍路─私は今結婚するべきか尼僧になるべきか分からなくて迷っているんです。


菩薩─結婚とか色々な問題は私が判定するんじゃなくて、行ってもいいでしょうか、この結婚はしてもいいでしょうか、そういう事の判定はいろいろありますが、そういう判定は仏法の中にはないという事です。

それは大きな大日如来のみ心の中にすべてがあるということです。その大日如来のみ心の中まで心が及ばないでしょう。人間というものは一寸先も分からないのです。

もしそれに対し判定を下したら、あなたの心が出来た心であれば、超えた心であれば私はいつでも判定を下してあげましょう。その結婚はやめておきなさいとか、その結婚はしてもいいとか、そこまでの心になっていれば、いくらでも判定を下してあげます。

でもあなたの心がまだ出来ていないから判定は出来ないんです。何故かというと、私が判定を下したときに、もしあなたが不幸になったら、何だという事になるでしょう。


遍路─いいえ、私は思いません。それがやはり仏さまの試練だと思います。


菩薩─試練というか何もかもが慈悲と思える心にならなければいけないのです。


遍路─そうでも。私もうそうなっています。


菩薩─交通事故にあってもこれが慈悲だと、寒い雪が降ってきても、その雪が人間に都合の悪い雪であっても、あーこれもあり難い、私はこの雪で悟らせていただけるんだと、その雪で悟っていくということです。そこまでの心が出来ていれば、あなたに対し…。


遍路─そう、私そこまで悟れています。


菩薩─そこまで悟れているのであれば、あなた自身で決められるはずですよ。


遍路─私自身が自分で決められると言われるのですか?


菩薩─そう。そこまであなた自身の心が出来ているのであれば、私に相談することはありません。


遍路─沈黙


菩薩─相談するということは、まだその心が出来ていないという事です。自分で即決出来ないという心は、私はそこまで行っていますと言っていても、まだ心がそこまで行っていないという事です。あなたはもう心が出来ていますと言われるが、出来ていれば自分で決められる筈でしょう。


遍路─そうですね。仏さまにお任せしているんですから。


菩薩─仏さまというより、自分の心の仏さまにね。そうしたら、その仏が答えを出すでしょう。その結婚はやめなさい、その結婚はよろしいという答えが出るでしょう。
 そうしたら私に聞く必要はないという事です。あなたがそこまでの心になっているなら私に聞く必要はありません。だからまだ 超えた心になっていないという事です。


遍路─長い沈黙



◇目の当たりにした仏法の厳しさ◇


「どんな不都合なお計らいであっても、み仏のお慈悲と思える心になっていれば、答えを出してあげましょう」という菩薩様の問いかけに対し、彼女は、「もうその心になっています」とハッキリ答えられましたが、その言葉は、「すでにその心は出来ています」と言わんばかりの自信に満ち溢れていました。


ところが、菩薩様から、「その心になっているのであれば、私に答えを求める必要はありませんよ。あなた自身で答えを出せる筈ですよ」と言われ、一言も返答出来なくなってしまったのです。


どんな結果になろうと、不都合なお計らいであろうと、み仏のお慈悲と思える心が成就出来ていれば、人に道を求める必要はありません。人にどうすればよいかの判断を求めなければならないという事は、まだその心が出来ていない何よりの証です。


返答出来なくなったのは、その事に気付いたからでしょう。それまで多弁だった彼女が急に寡黙となり、一回りも二回りも小さく見えたのがとても印象的でした。


菩薩様の説法を聞きながら、彼女を救わんが為には有無を言わせぬ仏法の厳しさと、菩薩様の大いなる慈悲心に触れ、深い感銘を受けた事は言うまでもありません。


仏法による救済とはいかなるものか、占い・霊感による判断と何が違うのかを、これほど分りやすく説かれた説法を聞いたのは初めてでしたので、私の心にも、非常に印象深く残りました。


たまたまこの時のご説法を、S・Fさんがテープに録音しておられたので、コピーして頂き、何度も何度も繰り返し聞いた事を、昨日の出来事のように思い出します。


◇何故前に進めなかったのか?◇


前回、極楽浄土を目指して旅をしている極楽望氏が、道が二股に分かれている所で出会った占い師の翁と霊感者の老婆から、それぞれ相反する事を言われて益々迷いを深め、一歩も前へ進めなくなったという例え話をしました。


極楽望氏が前に進めなくなったのは、右へ行けば、恐ろしい化け物に遭遇し、左へ行けば、落とし穴に落ちて命を落とすかも知れないと言われたからですが、何故彼はそう言われて一歩も進めなくなったのでしょうか?


二人の言った事が正しいとは限らず、その正否は、実際に行ってみなければ分りません。


また仮に正しかったとしても、それぞれに危険箇所のある事が前もって分っているのですから、細心の注意を払いながら先へ進めば、難を避ける事も出来ます。


極楽望氏が、本心から極楽を望んでいるのであれば、翁と老婆にそう言われたからといって立ち止まる必要はなく、むしろある程度の危険を覚悟してでも、一刻も早く極楽を目指すべきでしょう。


しかし、彼は、そう言われただけで一歩も前に進めなくなってしまったのです。何故でしょうか?


それは、最終的な判断を下す事が出来なかったからです。


彼が前へ進むためには、先ず二人の言葉を信じるか信じないかの判断をしなければなりません。どちらへ進むか迷っている彼には酷かも知れませんが、二人の言葉を信じるか否かを彼自身が判断しなければ、一歩も先には進めないのです。


その判断をしてようやく先に進めても、それで終わりではありません。


彼が二人の言葉を信じる道を選んだとすれば、化け物に遭遇するか、落とし穴に落ちるかの危険性を覚悟しなければなりません。


また信じない道を選んだとしても、その道を選んだ自分の判断が正しかったか否かという新たな不安を抱きながら、前に進まなければなりません。


つまり、いずれの道を選んでも、彼の前には、自ら判断しなければ解決出来ない難問や、乗り越えなければならない様々な試練が待ち構えているのです。


問題は、人に道を尋ねなければならない彼に、その判断が出来るのかという事ですが、今の彼には難しいと言わざるを得ないでしょう。だから、進めなくなったのです。


◇彼が目指す極楽浄土の正体◇


彼が、化け物が出る右の道へも、落とし穴のある左の道へも進めなくなってしまったのは、二人の言葉を信じるか否か、そして先へ進むべきか否かの判断が出来なかったからだと言いましたが、その心の裏に潜んでいるのは、「自分にとって好都合な道はどちらかを知りたい。不都合な出来事に遭遇する恐れのある方には行きたくない」という思い(分別心)です。


実を言えば、不都合な事を避け、拒否し、排除したいというその思いが、進むべき道の判断を誤らせ、化け物や落とし穴を乗り越える勇気を奪い去り、極楽浄土を遠ざけている張本人なのですが、彼はその事に全く気付いていません。


何故なら、彼が目指す極楽浄土とは、自分にとって不都合な事の一切起らない、不幸も苦しみも悲しみもなく、いかなる難問もない幸せばかりの世界だからです。


つまり、彼は、幸せになりたいという願いが叶えられ、その願いを妨げるいかなる障害も難問も試練も苦難もない理想郷を、極楽浄土としてイメージしているのです。


勿論、これは彼だけではなく、世間の大多数の人々が思い描いている極楽浄土のイメージでもありますが、少なくとも私が考える真の極楽浄土とは、彼がイメージしているような何もかも自分の思い通りにいく世界でもなければ、美しい蓮の花が咲き乱れ、透き通るような小川が流れ、清々しい香りに満たされ、清らかな調べが聞えてくる理想郷でもありません。


勿論、私自身、まだ一度もそのような理想郷へ行った事も見た事もないので、そんな世界が有るのか無いのか分りません。


ただ仮に有ったとしても、その世界へ行けば、全ての悩み苦しみから解決されるとは思いません。


少なくとも仏法が説く極楽浄土は、そのような世界でない事だけは確かです。何故なら、仏法で説く極楽浄土は、私たち自身の中にあるからです。


極楽望氏が、自分の中にある極楽浄土に気付けないのは、化け物も出ず、落とし穴もなく、自分にとって不都合な事が何も起らない理想郷を思い描き、その世界が自分以外のところにあると思い込んでいるからです。


「灯台下暗し」とはまさにこの事で、彼自身が変わらなければ、目指している極楽浄土へ到達する事は非常に難しいと言わねばなりません。


◇迷う人・迷わせる人・迷わされる人◇


もうお気付きだと思いますが、極楽望という人物は、幸せを願い、理想郷としての極楽浄土を目指し旅をしている私たちの姿であり、迷える人々の代表者でもあります。


ご承知のように、この世で幸せを願わない人は一人もいません。万人が万人ともみな等しく幸せな人生を望み、極楽浄土へ行きたいと願っています。


にも拘らず、万人がみな平等に極楽浄土へ行ける訳ではありません。


どの道を行けば極楽へたどり着けるのか、どう生きれば幸せになれるのかを知らなければ行ける筈もありませんが、そう言う私自身も、かつてはその一人でしたので、偉そうな事は言えません。


最初にご紹介した女のお遍路さんも同じで、彼女は、尼僧になるべきか、結婚するべきかで迷い、菩薩様に進むべき道を尋ねたのですが、それは、真の幸せ、本当の極楽がどこにあるかを知らなかったからです。


いずれにせよ、人間という生き物は、幸せになりたいと願い、救われる事を望み、極楽を目指して旅をしている生き物でありながら、同時に、どう生きれば幸せになれるか、どの道を行けば極楽へ到達できるかを知らない生き物でもあるという事です。


そのジレンマを抱えながら生きていかなければならないところに、人間の悩み苦しみの原因があると言ってもいいでしょうが、そのジレンマを解決しようと、多くの人々が、幸せになる最良の道を占って貰うため、占い師や霊感者を尋ね歩いている姿をよく見かけます。


しかし、尋ねたのはいいけれど、返ってくる答えがみな違うため、益々迷いを深め右往左往している人々の姿を見ていると、真の極楽の在り処を知る事がいかに大切かを痛感いたします。


◇真の極楽浄土の在り処◇


ここまで読まれたお方は、どうすれば無事に極楽へ到達出来るのという難問を解決するヒントが、先ほどの菩薩様の説法の中に示されている事にお気付きだと思いますが、菩薩様はこう説いておられます。


何もかもが慈悲と思える心にならなければいけないのです。交通事故にあってもこれが慈悲だと、寒い雪が降ってきても、その雪が人間に都合の悪い雪であっても、あーこれもあり難い、私はこの雪で悟らせていただけるんだと、その雪で悟っていくということです。


何故彼女が菩薩様に進むべき道を尋ねたかと言えば、尼僧になった方が幸せか、それとも結婚した方が幸せかを知りたかったからですが、菩薩様は、そうではないとハッキリ釘を刺されました。


それは、彼女が求める本当の幸せ(真の極楽浄土)は、彼女が迷っているどちらかの道にではなく、彼女自身の中にある事を悟って欲しかったからです。


尼僧の道に進んでも、結婚する道を選んでも、そこには様々な試練が待っています。不都合な事にも遭遇します。楽しい事ばかりではなく、苦しい事や悲しい事や辛い事も多々あります。苦楽幸不幸があるのは、どちらの道を選んでも同じなのです。


尼僧の道が幸せばかりの道で、結婚する道が不幸ばかりの道でもなければ、その逆でもありません。どちらの道に進んでも、その現れ方が異なるだけで、幸せもあれば、不幸せも必ずあるのです。


「何故そんな事が言えるのか?もしかすると右の道より左の道の方が幸せかも知れないし、その逆もあり得るではないか。先の事は誰にも分らない」と言われるかも知れませんが、確かに将来の事は誰にも分りません。


しかし、どちらへ行っても同じである事に間違いはありません。その理由については次回お話したいと思います。


◇自己を変えられるか◇


大切な事は、どちらの道へ進めば極楽に行けるかではなく、どちらに進もうかと悩み、迷っている今の自分自身が変わらない限り、極楽へは行けない事に気付くという事です。


道に迷っている彼女が尼僧になる道を決断したとしましょう。彼女の未来には、バラ色の人生が約束されているのでしょうか。


残念ながら、そうではありません。やがていつか自分の思い通りに行かない事や、苦しみや悲しみにも遭遇します。その時、今のままの彼女なら、結婚する道を選んでおけばよかったと後悔するでしょう。


また結婚する道を選んだとしても、やはり違った苦しみや試練に遭遇します。その時もきっと、尼僧になっていれば違う人生があったに違いないと、結婚した事を後悔するに違いありません。


何故なら、尼僧になるにせよ、結婚するにせよ、彼女自身が変わらなければ何も変わらないからです。


菩薩様は、どちらに進めば幸せになれるか迷っている彼女自身が変わらない限り、どちらの道を選んでも、結果は同じである事を見通しておられたのです。


だからこそ、「今のあなたの心では、進むべき道を判断し、答えてあげる事は出来ません」と厳しい口調でおっしゃったのです。


占い師や霊感者のように、ただ進むべき最善の道を占い、判断するだけでは、彼女を救うどころか、益々迷いを深めるだけである事が分っていたから、敢えて「そこまであなた自身の心が出来ているのであれば、私に相談することはありませんよ」と厳しく突き放されたのです。


合掌



生きる目的を見失っているあなたへ(1)
生きる目的を見失っているあなたへ(2)
生きる目的を見失っているあなたへ(3)
生きる目的を見失っているあなたへ(4)
生きる目的を見失っているあなたへ(5)
生きる目的を見失っているあなたへ(6)
生きる目的を見失っているあなたへ(7)
生きる目的を見失っているあなたへ(8)


高野山法徳寺Website『救いの扉』

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2016年04月23日

ジョンキル水仙!

庭先に、黄水仙の仲間の「ジョンキル水仙」が咲いています。


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とてもよい香りがします。
一本の茎に花を数輪つけるので、立っているのが大変だろうなあと、つい余計な心配をしてしまいます。
葉っぱも細いので、支えてあげないと倒れてしまいます。
この辺りは、人間とよく似ているかも知れません。


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2016年04月21日

満開のシバザクラ!

今日は朝からどんよりとした曇り空です。甲斐駒にも雲がたなびいています。


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参道の花壇に植えてあるシバザクラは、いまがほぼ満開です。


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2016年04月20日

生きる目的を見失っているあなたへ(5)

◇判断を求める人々◇


法徳寺のWebsiteをご覧になった皆様から、よく人生相談メールやお電話を頂きますが、それらの皆様にほぼ共通している事があります。


それは、何らかの判断を求め、答えを期待してメールやお電話をして来られるという事です。


先日も、進むべき幾つもの選択肢に迷われ、電話をして来られた女性がおられましたが、若い頃の私も同じでしたので、迷いに迷った挙句、藁にもすがる思いでメールや電話をして来られるお気持ちはよく分ります。


しかし、仏法には、幾つもの選択肢の中から最良の道を選び、どの道を進めばよいかを判断するという概念がありません。何故かと言えば、進むべき道を指し示してもその方を救う事は出来ず、根本的な解決にはならないからです。


その事が分っていながら、あえて判断を下す事は、その方の迷いを更に深め、救いから遠ざける事になります。


道に迷っている方に、進むべき道を示す事がその方の救いにつながるなら、喜んでそうしたいといつも思いますが、その方の根本的な救いにつながらない以上、幾ら判断を求められても、判断を下す事は出来ないのです。


◇迷いがない草花◇


何故人は道に迷うのでしょうか?それは、進むべき道が幾つもあるからです。

先日電話をして来られた女性も、進むべき道が一つしかなければ迷わなかったでしょうし、電話もして来られなかったでしょう。


様々な事に迷う人間と対照的なのが大自然の草花たちです。


草花は、どんなに厳しい冬であっても、春になれば忘れずにちゃんと芽を出します。一見可憐でひ弱そうに見えますが、その生き方はたくましく、筋が通っています。


何故ひ弱そうに見える草花が、たくましく生きていけるのかと言えば、草花には生きる事への迷いが一切ないからです。


草花たちは、生まれながらにして、生きるべき道を知っています。


ご承知のように、草花には、太陽の光に向かおうとする「向日性」(こうじつせい)と言う本能的性質が具わっています。この性質がないと草花たちは生きていけません。


今日は太陽に顔を向けようか、それとも背を向けようか、どちらに向こうかと迷っている草花は一つもありません。


どんな暗闇の中に置かれても、必ず光を探し、光が射す方向へ顔を向けようとします。光の方向に顔を向ける事にかけては、一切の迷いがありません。


どんなにひ弱く見える草花でも、たくましく生きてゆけるのは、その本能のお陰ですが、それに比べ、人間はどうでしょうか。


今日はどう生きようか、明日はどう生きようか、あっちにフラフラ、こちらにフラフラと絶えず揺れ動き、迷いっぱなしです。


心が定まらず、様々な計らいや分別をして自ら作らなくてもよい不安を作り、迷いの輪を際限なく拡げているのが、人間という生き物なのです。


◇迷いを深める占いや霊感の判断◇


先日電話して来られた女性も、進むべき道が幾つもあり、自分では答えが出せないため、判断を求めて電話をして来られたのですが、先ほどもお話したように、仏法には、進むべき道を判断するという概念がありません。


この点が占い、霊感と根本的に違うところと言っていいでしょうが、何故仏法では、占いや霊感のような判断をしないのか、例を挙げてお話しましょう。


極楽浄土を目指して旅をしている「極楽望(ごくらくのぞむ)」という名の男がいました。ふと前方を見ると、道が二つに分かれています。右へ行くべきか、左へ行くべきか、迷っていると、そこに占い師の翁と霊感者の老婆がやってきました。


極楽望氏が、二人に、どちらの道を行けば極楽へたどり着けるかと尋ねたところ、占い師の翁は、「極楽へ行きたければ、右の道を行きなさい。左へ行けば、大きな落とし穴があるから止めた方がよい」と教えてくれました。


ところが、霊感者の老婆に尋ねると、「いや、極楽へ行きたいなら、左の道を行きなさい。右へ行けば、恐ろしい化け物がいるから、命を落とすかも知れん」と教えてくれました。


翁の言葉を信じて右へ行けば、落とし穴に落ちる危険性はない代わりに、化け物に遭遇する恐れがあり、老婆の言葉を信じて左へ行けば、化け物には遇わないものの、落とし穴に落ちて命を落とすかも知れません。


どちらの言葉を信じても、落とし穴に落ちるか、恐ろしい化け物に命をとられるか、道は二つに一つしかありません。


落とし穴に落ちたくありませんし、化け物に命を取られるのも嫌です。しかし、極楽浄土への道も諦めたくありません。


結局、極楽望氏は、どちらへ行けばよいのか益々分からなくなり、以前にも増して迷いを深める結果になってしまったのです。


◇大切な事は何か◇


この例え話は、幾つかの選択肢の中から最良の道を選ぼうとする占いや霊感による判断が、真の救い(極楽浄土)につながらぬばかりか、一層迷いを深める恐れがある事を示唆しています。


先日電話をして来られた女性も、実は極楽望氏と同じ状況におられたのです。


私が求められた判断をしなかったのは、極楽望氏と同じように、迷いを更に深める恐れがあったからですが、仮に私がその女性の求めに応じて進むべき道を判断したとしたら、どうだったでしょうか?その女性は私の判断に納得されたでしょうか?


恐らく納得されなかったでしょう。


極楽望氏が前に進めなくなったのは、翁の占いが正しいという確証もなければ、老婆の霊感が正しいという確信もなかったからです。


それと同様、私の判断が正しいという確証もありませんから、その女性は私が出した判断に納得出来る筈がありません。


ましてや、私の判断に従った結果、思い通りにゆけばいいけれども、思い通りにいくとは限りません。


思い通りにいかなかった時、この女性は、きっと私の判断に従った事を後悔されるでしょう。それだけでなく、神仏を仇に思い、益々迷いを深めていかれるに違いありません。それでは、その女性にとって「百害あって一利なし」です。


そもそも、他人の判断に納得出来るお方なら、最初から相談の電話などしてきておられません。


納得出来るお方は、すでに求める答えを持っておられ、自分で判断出来るお方だからです。


判断してその女性が迷いから救われるのであれば、幾らでも判断させて頂きたいと思いますが、そうならない事が明らかである以上、薄情のようですが、その救いを妨げるような判断をして迷いを深めさせる訳にはいきません。


ですから、敢えて判断をしなかったのです。


大切な事は、他人の私が女性の進むべき道を判断する事ではなく、その女性が迷いの夢から目覚める事であり、救われる事です。


◇毒矢の喩え◇


お釈迦様の弟子の中に、マールンクヤというお弟子さんがいました。


前々から、お釈迦様が様々な疑問に対しハッキリした答えを出して下さらない事に不満を抱いていたマールンクヤは、「今日こそ、私が思っている疑問にハッキリお答え下さい。疑問が晴れない限り、これ以上修行を続ける事は出来ません」と、お釈迦様に疑問をぶつけました。


お釈迦様は、次のように説いてマールンクヤを諭されました。


マールンクヤよ。よく聞くがよい。ここに毒矢に射られて今にも命を落とそうになっている男がいるとしよう。
その男が、毒矢を射た者はどこの出身で何と言う名前か、背丈は高いか低いか、肌の色は何色か、弓の材質は何か、弓の弦や矢の羽は何で出来ているのか、矢じりは何で出来ているのか。自分が疑問に思っている事が明らかにならない内は治療をしてはならないと言ったら、その男の命はどうなるであろうか。
恐らく疑問が一つも解けないうちに、その男は毒が回って死んでしまうであろう。いまお前が私に尋ねようとしていることは、それと同じなのである。お前が私に問い掛けている疑いの一つも分からないうちに、お前のいのちが尽きてしまう。
お前がいま考えなければならない事は、人生の苦しみから解脱するにはどうしたらいいか、自分の悩み苦しみを解決するにはどうしたらいいか、その手立てを知る事である。私はその手立てをお前に説いているのである。
だから、私の言う事だけを信じて精進をしなさい。私が言わない事は言わないままにしておきなさい。


これは、『箭喩経(せんゆきょう)』というお経に出てくる有名な「毒矢の喩え」というお話ですが、お釈迦様があえて明らかにされなかった事を「無記」と言い、明らかにされた事を「授記」と言います。


例えば、この宇宙は有限なのか無限なのか、霊魂があるのか無いのかというような疑問には、一切答えられませんでした。何故なら、救いにとって全く意味のない事だからです。


宇宙が有限か無限か、霊魂は有るのか無いのかが仮に明らかになったとしても、悩み苦しみから救われる訳ではありません。


多くの皆様からご相談を受ける度にいつも脳裏に浮かぶのが、この毒矢の喩えです。


どの道を進めばよいのか知りたいと判断を求めて来られる皆様も、煎じ詰めれば、このマールンクヤと同じなのです。


お釈迦様が、救いに関係のない事には一切判断を示されなかったように、救いにつながらない判断をしないのは、その為です。


と言うより、判断すれば益々その方の迷いを深める恐れがあるから、そのような判断は出来ないのです。


合掌



生きる目的を見失っているあなたへ(1)
生きる目的を見失っているあなたへ(2)
生きる目的を見失っているあなたへ(3)
生きる目的を見失っているあなたへ(4)
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2016年04月18日

シバザクラとヤマザクラの競演!

ソメイヨシノが散った後は、シバザクラとヤマザクラの競演です。


境内のシバザクラは、雑木林から風に乗って飛んできた枯葉が葉っぱの上に堆積して、春になっても咲かなくなってきたので昨年処分し、境内の花壇のシバザクラだけを残したのですが、今年も綺麗に咲いてくれました。


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ヤマザクラは例年通り、ソメイヨシノが終わってから開花し始め、満開に向けて徐々に花を開いていきます。
ソメイヨシノに比べ、木が大きい分、やはり迫力が違いますね。


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2016年04月17日

涅槃について(7)−常楽会に寄せてー

◇地獄と極楽を見た奥野大阿闍梨◇


五分足らずという僅かな時間の中で、体験した事の真髄を人々に伝えるという事は至難の業であり、奥野大阿闍梨の講演は、それを実現した稀有な事例と言っていいでしょうが、何故このような前代未聞の講演が生まれたのでしょうか?


思うに、奥野大阿闍梨ご自身が、九日間の「堂入り」を通じ、地獄と極楽を体験されたからではないでしょうか。


奥野大阿闍梨にとって、口を漱ぐはずの水が喉を通ってしまった事は、痛恨の極みであり、地獄に堕されるほどの衝撃を受けられたであろう事は容易に想像出来ます。


勿論、喉を通った水は、たった一滴に過ぎません。その気になれば、「一滴くらいいいだろう」と妥協し、自分を納得させる事も出来ます。


しかし、奥野大阿闍梨は、妥協しませんでした。否、妥協出来なかったと言った方がいいでしょう。


三回も千日回峰行を成満なさった程のお方ですから、自己に対する厳しさも、行に対する真剣さも尋常ではありません。


だからこそ、僅か一滴の水が喉を通ってしまった事にさえ妥協出来ず、悔やみ、生涯をかけて、お不動様にご懺悔していくと言い切られたのです。


しかし、喉を通った一滴の水の味わいが、極楽の味と言ってよいほどの味わいだった事も、想像に難くありません。


「そのお水の味わいは、生涯忘れる事はないでしょう」と言い切られた言葉は、決して誇張ではないでしょう。


「一滴くらいいいだろう」と妥協する気持ちがあれば、お不動様に対するご懺悔の心も、水の味わいも、生涯忘れられないほどにはならなかったでしょうが、喉を通った僅か一滴の水にさえ、自責の念を覚え、生涯をかけて懺悔する事を自らに課す厳しさを持っておられるお方だからこそ、僅か一滴の水の味わいが、生涯忘れられない極楽の味わいにまで高められていったのです。


恐らく、奥野大阿闍梨は、九日間の「堂入り」で、地獄を体験すると同時に極楽(涅槃)をも体験されたのではないでしょうか。


地獄を体験されたからこそ、極楽が見えてきたと言ってもいいでしょうが、そうだとすれば、地獄と極楽を同時に味わった稀有な体験が、僅か五分足らずの言葉の中に凝縮され、言葉を超えた言霊(真言)となって、聴衆の心に飛び込んできたとしても、何ら不思議はありません。


まさにこの講演は、生まれるべくして生まれ、語られるべくして語られ、奥野大阿闍梨だからこそ為し得た講演だったのです。


◇無常悟れば涅槃に帰る◇


菩薩様の『道歌集』の中には、三百首余りの法歌(道歌)が収められていますが、私がいつも心に念じている歌があります。


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 生死(しょうじ)なく 欲も苦もなく我(われ)もなく
   無常悟れば 涅槃に帰る


お釈迦様のお悟りも、お大師様のお悟りも、道元禅師のお悟りも、菩薩様のお悟りも、そして、奥野大阿闍梨のお悟りも、すべてこの法歌の中に込められていると言っても過言ではないでしょう。


無常の域に到達すれば、そこにはもはや生も死もありません。欲も苦も、個としての我の存在すらありません。


移り変わり行く森羅万象の姿を在るがまま受け止め、当たり前と頷く事が出来れば、自他を隔てている垣根もありません。


もはやそこには、場所という空間的概念もなければ、過去、現在、未来という時間的概念もありません。


在るのは、ただ「一切が我である」と悟り切った涅槃の境地であり、「今ここ」に開かれている極楽(真相)の世界です。


勿論、その世界は今まで存在していなかった訳ではありません。無始以来、ここに存在し続けていたにも拘らず、私たちは、今までその世界に気付かなかったのです。否、気付けなかったのです。


何故なら、心の眼が様々な計らいによって曇らされていたからです。

私たちは、何かを見たり、判断したりする時、知らず知らずの内に計らいや執着、分別などという色眼鏡をかけて見ています。


私たちが見ているのは、物事の在りのままの姿(真相)ではなく、心の色眼鏡を通して見た偽りの姿(仮相)に過ぎません。


お悟りを開かれるまでお釈迦様が見てこられた明けの明星も、お大師様が虚空蔵求聞持法を成就するまで見てこられた室戸岬も、宋へ行くまで道元禅師が見てこられた眼や鼻も、奥野大阿闍梨が今まで口にしてこられた一滴の水さえも、すべて様々な思いや計らい、執着、分別という色眼鏡(フィルター)を通して見たり味わっていたものに過ぎなかったのです。


ところが、六年間に及ぶ苦行、お四国での虚空蔵求聞持法の修行、宋での禅修行、そして九日間に及ぶ断食・断水・断眠・断臥の行によって、その色眼鏡が外れ、今まで見えていなかった物事の真相が在りのままに見えてきたのです。


お釈迦様が、明けの明星と一体であると悟られ、お大師様が、「有為の波風」も自分も同じだと悟られ、道元禅師が、「伝える仏法など何もありません」と喝破され、奥野大阿闍梨が喉を通った一滴の水の中に地獄と極楽を味わったのは、その為です。


◇何のための信仰か!◇


よく「信仰とは何の為にするのですか?」と尋ねられる事があります。


世の中には、「信仰は願いを叶える為にするものだ。願いが叶えられなければ信仰する意味がない」と考えておられるお方もおられます。


その方にとって信仰とは、何か満たされないものがあるから、それを神仏の力によって叶えてもらう為の手段に過ぎないのでしょう。


しかし、奥野大阿闍梨の八万枚の護摩行(堂入り)がそうであるように、また私の拙い断食体験がそうであるように、信仰とは、何かを手に入れたり、願いを叶える為の手段ではありません。神仏との取引でもありませせん。


信仰の真髄は、神仏のみ心とわが心を通わせ、神仏に一歩でも二歩でも近づかせて頂きたいと願い、不断の努力を積み重ねながら神仏と合一していくところにあります。


そこにあるのは、神仏に何かを求める心ではなく、神仏のみ心を悟り、その願いに応えてゆく姿勢であり、神仏への懺悔と感謝と祈りの心です。


奥野大阿闍梨が、わずか一滴の水が喉を通った事を悔い、生涯かけてお不動様にご懺悔していくと誓われた背景にあるのは、まさにお不動様へのご懺悔と感謝と祈りの心であり、この言葉を見れば、何かを求めて始められた行ではなく、お不動様にすべてを捧げ、そのみ心に応えんが為の修行だった事が分かります。


一滴の水でさえ「申し訳ない」と悔い、生涯かけてご懺悔していくと誓われたのは、お不動様のみ心に応えんが為の行であったにも拘らず、そのみ心に応えられなかった事への痛恨の思いからなのです。


しかし、その思いが、一滴の水の味わいを極楽の味わいにまで高めた事も間違いありません。


奥野大阿闍梨は、その稀有な体験を通して、我々が願ってやまない極楽とは何か、涅槃(悟り)の境地に通じる道とは何かを示唆してくれているのかも知れません。


合掌



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2016年04月15日

頑張れ、ムスカリの花!

青紫色の可愛らしい壷状の花をつけたムスカリが、境内の片隅でひっそりと咲いています。


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沢山の花が付いているので、かなり重いのではないかと思いますが、細い茎でバランスをとりながら立っている姿を見ると、こちらも頑張らなければと励まされます。


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2016年04月14日

山桜が開花しました。

ソメイヨシノが桜吹雪となって散った後は、いよいよ山桜の出番です。
山桜が開花しました。


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花と若葉が同時に出る山桜は、花が散った後に若葉が芽生えるソメイヨシノとはまた違った趣があります。


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ソメイヨシノも綺麗ですが、山桜も負けていませんね。


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2016年04月12日

自然の流れに逆らわず在るがままに!

満開のソメイヨシノも、花吹雪となって舞い散り、その後から、新緑も鮮やかな若葉が次々と芽生えています。


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一切の計らいや執着、分別を離れ、自然の流れに逆らわず、ただ在るがままに生きている草木のたくましさを感じます。
人間も見習わなくてはいけませんね。


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2016年04月11日

ソメイヨシノの主役交代!

開花十二日目となりましたが、桜吹雪となった花びらが、境内を淡いピンク色に染めています。


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ピンク色の花びらと、鮮やかな新緑の若葉が、少しずつ入れ替わり、主役交代の時期を迎えています。


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2016年04月10日

コモンセージの苗木を頂きました!

今日お参り下さった千葉県銚子市のご同行E・Uさんが、庭に植えておられるコモンセージというハーブを持ってきて下さいました。


「薬用サルビヤ」という別名があるように、古来、薬用として親しまれてきたハーブです。


コモンセージには、抗菌、抗ウイルス作用があり、セージティーでうがいをすると、風邪の予防や喉の痛みにもいいそうですから、私にはうってつけです。


古代ヨーロッパには、「長生きしたければ庭にセージを植えなさい」とか、「セージを植えている庭から病人はでない」という諺があるそうです。


Uさんのご好意に感謝し、早速庭の片隅に植える事にしました。


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花言葉は、「幸福な家庭」「家庭の徳」「家庭的」だそうで、中々いい花言葉です。


12月18日と12月24日の誕生花でもあるそうですが、12月18日は納め観音、12月24日は納め地蔵ですので、お寺にもご縁があるのかも知れません。


コモンセージの学名の「Salvia」は「救う」という意味ですから、やはりご縁があるのでしょうね。
ご縁がなければ、お寺へ嫁いでくる事もなかったでしょうから、大切に育てたいと思います。
E/Uさん、有り難うございました。


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2016年04月09日

散り初めし桜!

満開を過ぎ、少しずつ散り始めている桜もまた風情があっていいものです。


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2016年04月08日

開花九日目!

開花九日目になり、丁度見ごろを迎えています。


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昨日からの雨と強風で、少し散り始めていますが、まだまだ大丈夫です。


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境内の水仙も満開で、タヒチやスノーフレークが黄色や白の花を咲かせています。


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2016年04月07日

満開のソメイヨシノを撮った動画!

昨日の天気予報で今日が雨になる事が分っていたので、昨日の内に、満開の桜をビデオカメラに収めておいたのですが、予想通り、今日は生憎の雨になりました。
撮っておいて正解でした。


BGMは、自作してもよかったのですが、以前使わせて頂いた事のある「甘茶の音楽工房」さんの楽曲を使わせて頂く事にしました。


我ながらうまく撮れたと思いますが、いかがでしょうか。


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2016年04月06日

開花七日目!

今日で開花七日目を迎えますが、温かい日差しを浴びて一気に満開となりました。


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昨年より開花が一日早かったため、満開の時期も少し早くなりました。
今月十三日が春の大法要なので、それまで花が残っていてくれればいいのですが、お天気や気温にも左右されますので、すべてお任せです。


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2016年04月05日

涅槃について(6)−常楽会に寄せてー

◇体験を超えるものはない◇


何万冊の書物を読もうが、どれほどの知識を得ようが、どうしても伝えられない事があります。例えば、真夏の暑い日差しの中で口にした一杯の水の味わいです。


古歌に、
 いっぱいの 飲みたる水の味わいを
   問う人あらば 何と答えん
と詠われているように、「どんな味わいでしたか?」と尋ねる相手に対し、答えられるのはせいぜい「こんな味わいでした」という感想だけです。


そして、「どうしても知りたければ一度飲んでみて下さい。飲めばすぐに分ります」と答えるしかありません。


体験は、未体験者には、いかなる知識や言葉を以てしても絶対に伝える事の出来ない未知なる領域であり、知りたければ、自ら体験してみる以外に方法はありません。


その代わり、体験の世界は、体験した全ての人に、その答えを平等に与えてくれます。水を飲んだ十人の内、五人しか水の味わいが分らないというような事はなく、水を飲んだ十人全員が水の味わいを知る事が出来ます。


一口飲めば、天才も凡才も、老若男女、上下貧富の隔てなく、全ての人が平等に理解し合え、水の美味しさを分かち合えるのです。


残念ながら、知識の世界では、そうはいきません。天才と凡才の間には、知識量や理解力の点で大きな差があり、十人の内、五人にしか理解出来ないという事は決して珍しくありません。


当然、知識の量と質による優劣関係や情報格差も生まれます。


体験の世界には、そのような優劣関係や情報格差はありません。体験した人に与えられる情報は、すべて平等です。


また、知識は知識を超えられますが、体験を超える事は出来ません。


知識は、人から聞いたり自ら学べば得られますが、体験は、人から聞いても、自ら学んでも得られません。自ら体験して知る以外にはないのです。


勿論、知識には、その持てる力を存分に発揮できる分野があり、その分野では、その力を最大限に発揮します。知識の果たす役割を過小評価すべきではありません。


しかし、知識には限界がある事も事実で、知識は体験を超えられない事も知っておく必要があります。


◇千日回峰行◇


天台宗に伝わる千日回峰行と言われる修行があります。


千日回峰行とは、七年の間に千日、ひたすら比叡山の峰々を歩きながら、二百六十ヶ所余りに祀られている仏様を拝み続ける修行です。


30キロの道のりを、平均6時間かけて廻るそうですが、一年目から三年目までは一年に百日、四年目と五年目は一年に二百日、つまり五年間で七百日かけて、30キロの比叡の峰々を歩き続けるのです。


それが終わると、九日間にわたる断食・断水・断眠・断臥の苦行「堂入り」に入ります。


六年目は、京都までの道のりが加わり、60キロの道のりを百日間歩き続けなければなりません。


七年目は倍の二百日になり、前半の百日間は、「京都大廻り」と呼ばれる84キロの道のりを、後半の百日間は、再び比叡山中の30キロの道のりを歩き続けます。


こうして、七年かけて千日間歩きながら、み仏を拝み続けるのが千日回峰行ですが、その中で最も苦しく厳しい修行が、九日間に及ぶ「堂入り」です。


九日間ぶっ通しで、昼夜の別なく護摩を焚きながら、ただ黙々とお不動様を拝み続けるのですから、まさに死を覚悟した決死の修行と言えましょうが、何日目かに口を漱ぐだけのお水が頂けるそうです。


勿論、飲めませんし、飲んではいけません。ただ口を漱ぐだけのお水です。


今日まで四十七名の方が、千日回峰行を成し遂げられ、戦後は、酒井雄哉というお方が二回成満しておられますが、実は昭和の初めに、千日回峰行を三度成満なさったお方がおられるのです。


◇伝説となった講演◇


奥野玄順というお方で、いまや伝説上のお方と言っていいでしょうが、ある時、奥野大阿闍梨の講演会が催されたのです。


集まった聴衆が見守る中、奥野大阿闍梨が、しずしずと講演会場に入って来られると、体の小さなお方なのに、とても大きく見えたそうですが、千日回峰行を成満なさったお方の第一声を聞き逃すまいと、聴衆の誰もが固唾を呑んで見守っていたに違いありません。


演壇の前に立たれた奥野大阿闍梨は、暫く瞑目して合掌し、心静かに祈っておられましたが、おもむろに口を開かれ、こう仰ったそうです。


「私は今、お不動様にご懺悔(さんげ)の気持ちで一杯です」


九日間に及ぶ八万枚の護摩行(堂入り)を成満され、お不動様を拝み抜かれたお方が、開口一番、「お不動様にご懺悔の気持ちで一杯です」と仰ったのですから、誰もが唖然とした事でしょう。「何があったのだろう?」と、次の言葉を待っていると、おもむろにこう仰ったのです。


九日間、不眠不休で八万枚のお護摩を焚いている最中、たまたま口を漱ぐのに頂いたお水の一滴が喉を通ってしまいました。飲もうと思って口に含んだお水ではありませんが、喉を通ってしまいました。その事を私は今でも悔やんでおります。お不動様に申し訳ないと、今でもご懺悔しております、これから一生かけてお不動様にその事をご懺悔し続けていくでしょう。
しかし、その時、喉を通ったお水の味わいは、今でも忘れません。その味わいは、一生忘れる事がないでしょう。それではこれで私の話を終わります


そう言って僅か五分足らずの講演を終え、しずしずと会場を出ていかれたそうです。


聴衆の誰もが、ただ呆然と奥野大阿闍梨を見送っている様子が目に浮かぶようですが、まさに前代未聞の講演と言っていいでしょう。


先ず驚かされるのは、僅か五分足らずという講演時間の短さです。


僅かな時間の中で、伝えたい事のすべてを、余すところ無く語り尽くす事は、まず不可能でしょうが、奥野大阿闍梨は、その不可能とも思える難行を見事に成し遂げられたのではないでしょうか。


京仏師の松久朋琳師は、『仏の声を彫る』の中で、次のように書いておられます。


雑物を払う、煩悩を払うといういき方は、いきおい、もうこれ以上削ったらみ仏の頬辺(ほっぺ)に傷がつく、み仏の肌に傷がつくという所まで鑿を入れてゆくことになります。とことんまで押しつめてゆきます。そして余分を全部払って、一つも残しまへん。余分というものを全部取ってしまいます。そして、そのエキスだけを残す──という手法になるのですな。
目方でいきますと、出来上がったみ仏は、原木の四分の一から五分の一位になってしまうのですな。もうこれ以上減らせないという、ギリギリのところまで取ってしまわないことには、無垢な仏性はあらわれないのです。そこまで推し進めないと、拝む対象にはならしません。煩悩や俗心を残した仏なんて、いやはらしまへんのです。仏師の彫りまいらせるみ仏は、そういう生粋のところまでいかな、礼拝の対象にならんのやないか、わたしは、そない思うていますのや。


松久師の言葉を借りれば、奥野大阿闍梨にとって五分足らずの時間は、究極の体験を、これより多くても少なくてもその体験を正しく伝えられないギリギリのところまで削り取り、余分な言葉をすべて取り払うのに必要にして十分な時間だったのではないでしょうか。


奥野大阿闍梨の講演は、聴衆に強烈な印象を与え、魂の奥底にまで刻み込まれたに違いありません。


恐らくこの講演を聞いた人々は、極限まで削り取られた言葉の中に、奥野大阿闍梨の深い信仰心や懺悔の心、喉を通った一滴の水の味わいまでも汲み取ろうと、何度も何度もその言葉を反芻し、咀嚼し、熟考した事でしょう。


◇言葉を超えた言葉の力◇


それは、お護摩を焚く火の熱気が全身を覆い、体内から滲み出た汗が流れ落ち、飲まず食わず休まず眠らず、一心にお不動様を拝み続けている護摩行の真っ只中で起きた予期せぬ出来事でした。


体内から水分が失われ、断食・断水・断眠・断臥という、まさに肉体的極限状態に置かれた奥野大阿闍梨の喉を通ったのは、たった一滴の水でした。


奥野大阿闍梨にとっては痛恨の一滴ですが、その一滴が、全身の活力をみなぎらせるほどの味わいだった事も、想像に難くありません。


奥野大阿闍梨のこの体験は、体験した者にしか分らない、言葉では絶対に伝えられない究極の体験である事は言うまでもありません。


しかし、松久師が言われるように、もうこれ以上は減らせないというギリギリのところまで削り取られた言葉が言葉以上の力を持ち、言霊(ことだま)として新たな命が吹き込まれたとすれば、奥野大阿闍梨の講演は、奇跡を起こした稀有な事例と言っていいでしょう。


奇跡とは、言葉では伝えられない筈の体験が、言葉を超えた言葉の力によって聴衆に伝えられた事を意味しますが、今までお話してきたように、言葉や知識には限界があり、体験を在るがまま伝える事は出来ません。


しかし、私が初めてこの話を聞いた時、まるで自分が同じ体験をしているかのような不思議な感覚に包まれたのを、今でも覚えています。


この逸話は、平成九年八月に御遷化された信貴山(しぎさん)玉蔵院の野澤密厳管長猊下が、玉蔵院の浴油講の集まりで話されたご法話を通じて知ったのですが、九日間にも及ぶ断食・断水・断眠・断臥の行の中で喉を通った一滴の水の味わいが、私にも伝わってきたのです。


勿論、奥野大阿闍梨が、「一生忘れない」と言われた味わいが分った訳ではありません。しかし、分らない味わいである筈なのに、分ったように感じたのです。


そう感じたのは、私が断食をした経験があるからかも知れません。


奥野大阿闍梨の断食・断水・断眠・断臥の行にはとても及びませんが、断食を終えて、最初に口にした重湯の味わいは、とても言葉にはなりません。


カラカラに乾き切ったスポンジが見る見る内に水分を吸収していくように、細胞という細胞が瞬時に目覚め、体中に活力がみなぎってくるのが、手に取るように分るこの感覚は、やはり体験してみなければ分りません。


しかし、幾ら断食の体験があるからと言って、奥野大阿闍梨の体験した一滴の水の味わいまで分るものではありません。


にも拘らず、分ったような感覚に包まれたのは、やはり奥野大阿闍梨が講演で述べられた、極限にまで削り取られた言葉の力(言霊)によるものと考えざるを得ません。


お大師様が開かれた真言宗は、言葉に大いなる霊力を認め、真言と名付けられた、極限まで削り取られたエキスとしての言葉を読誦する事により、言葉では超えられない体験世界に合一しようとする教えですが、体験した事のない私が、一滴の水の味わいまで分ったような不思議な感覚に包まれたのは、奥野大阿闍梨が述べられた言葉の一つ一つに、奥野大阿闍梨の仏性が乗り移り、これ以上は削れないというギリギリのところまで削り取られた言霊となり、真言と化していたからかも知れません。


合掌


涅槃について(1)−常楽会に寄せて−
涅槃について(2)−常楽会に寄せて−
涅槃について(3)ー常楽会に寄せてー
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2016年04月04日

開花五日目!

開花五日目です。


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今日は朝から生憎の雨模様で、開花も一段落といったところです。


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先月二十三日に開花した甲府市のソメイヨシノが昨日満開になったそうです。
開花から満開まで十一日かかった事になりますが、そうすると一週間遅れて開花した法徳寺のソメイヨシノは、今月十一日前後が満開日という事になります。


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さて、どうでしょうか?
境内のソメイヨシノは現在六分咲きから七分咲きですので、満開はもう少し早いかも知れません。


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2016年04月03日

開花四日目!

開花四日目の模様です。


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昨日の時点で三分咲きほどでしたが、開花が一気に進み、五分咲きから六分咲きほどになりました。
この分では、あと数日で満開になるかも知れません。


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2016年04月02日

開花三日目!

開花三日目の模様です。


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昨夜の雨はあがりましたが、朝から曇っています。
四分咲きの桜もありますが、全体を見ると、まだ三分咲き止まりです。


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満開になるのは、今月十日前後でしょうか。


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2016年04月01日

開花二日目!

開花二日目です。
三月二十三日に開花した甲府市内のソメイヨシノは、今見ごろを迎えていますが、昨日開花したばかりの法徳寺では、まだ一分咲きから二分咲きと言ったところです。


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日当たりや土壌の関係でしょうか、境内にあるソメイヨシノ四十三本の内、毎年開花の早い木が、三、四本ほどあります。


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成長の遅い木は遅い木なりに、早い木は早い木なりに、一生懸命咲こうと頑張っています。
自然界も人間社会も同じです。


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