2019年01月14日

心安らかに生きる為に(6)

◇法徳寺の豆撒きー「福は内、鬼も内」◇


毎年二月三日の節分には、どこの家でも豆まきをしますが、古来豆撒きは、その年の縁起の良い方角(恵方)に向かって「福は内」と連呼しながら豆を撒き、次に恵方に背を向けて「鬼は外」と唱えながら豆を撒くのが習わしです。


しかし、法徳寺では、「福は内、鬼は外」ではなく、菩薩様の教えにより、「福は内、鬼も内」と唱えながら豆を撒くのが恒例となっています。


何故「福は内、鬼も内」なのか?理由は二つあります。


一つは、鬼も衆生の一人だからです。


衆生済度をしなければならない使命のある法徳寺にとって、救われなくてもよい衆生は一人もいません。


たとえ相手が鬼であっても悪魔であっても、法徳寺に救いを求めてくる者は、すべて救われなければならない衆生の一人です。鬼だ、悪魔だと言って分け隔てしていては、衆生済度の使命は果たせません。


それどころか、一刻も早く鬼や悪魔と呼ばれる身分から救われたいと願い、救いを求める心が誰よりも強いのが、鬼たちなのです。


お大師様が、
 虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば
  わが願いも 尽きなん
というお誓いを立てて御入定されたことは、先にお話しましたが、鬼も悪魔も衆生の一人ですから、鬼を追い出していては、お大師様の御誓願も成就いたしません。


菩薩様は常々、「鬼も悪魔も衆生の一人だから、分け隔てなくお寺に招き、仏法を施して、救ってあげなければいけない」とおっしゃっておられましたが、「福は内、鬼も内」の掛け声は、まさに菩薩様の深い慈悲心の現れと申せましょう。


◇吉凶禍福は表裏一体◇


二つ目は、先にも述べたように、都合のよい福の神(仏)と、不都合な疫病神(鬼、悪魔)は姉妹であり、一心同体だということです。


一体ですから、不都合な黒闇天を追い出せば、好都合な吉祥天も一緒に出て行ってしまいます。


吉も凶も禍も福も、仏も鬼も、生も死も、すべて表裏一体の関係にある以上、吉祥天を招きたければ、吉祥天の妹である黒闇天も一緒に招かなければなりません。福の神だけを招き入れる事は出来ないのです。


おめでたい吉だけを招きたいと思っても、吉の裏には、必ず凶が付いています。


吉は有り難いが、凶は嫌だというのが、世間一般の常識的な考え方でしょうが、吉も凶も分け隔てなく受け入れる心にならなければ、福の神を招くことは来ません。


凶と正反対の福が、本当の福ではなく、吉を招き、凶を遠ざけようとする分別心を超えたところに本当の福があるのです。


◇良寛さんのお悟り◇


良寛さんが、次のようにおっしゃっています。


災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候


「災難に遭わなければいけない時には、災難に遭いなさい。死ななければいけない時には、素直に死んでいきなさい。それが災難を逃れる不可思議な教えですよ」という意味ですが、良寛さんとて、災難に遭いたくはないでしょうし、死にたくはない筈です。


にも拘わらず、あえて災難や死を在るがまま受け入れなさいとおっしゃったのには、深い意味があります。


原因があれば、必ず結果となって現れます。いくら不都合なことであっても、それもまた自分が過去に作った縁起の結果ですから、不都合なことだけを避けたり逃げているだけでは、問題は何も解決しません。


不都合なことから目を背けるのではなく、先ず在るがまま受け入れ、不都合な因縁の裏に隠されている福の神の存在を知り、不都合な因縁を好都合な因縁に変えていくことが大切なのです。


そうすれば、自分の立っている場所が、不都合な地獄から、好都合な極楽に変わります。


◇味方につけるか、敵に回すか◇


誰もが福の神である吉祥天を味方につけようとしますが、吉祥天を味方につけたければ、一心同体の黒闇天も共に受け入れなければなりません。黒闇天を受け入れなければ、吉祥天を味方にすることも出来ません。


要するに、不都合な黒闇天を味方につけるか、敵に回すかです。


敵に回すということは、不都合な黒闇天を拒絶するということです。「不都合なあなたを受け入れることは出来ません。私にとって、あなたは敵です」と言っているのと同じです。


味方につけるということは、不都合な黒闇天を受け入れるということです。


「あなたを受け入れます。あなたは私の仲間です」と言われれば、災いをもたらそうとしている黒闇天の出る幕がありません。


誰からも嫌われている黒闇天を敵に回すより、味方に付けた方が得策なのです。黒闇天を味方につければ、吉祥天を味方につけることが出来ます。と言うより、味方につければ、黒闇天が吉祥天に変わるのです。


但し、都合の悪い黒闇天を受け入れると言っても、嫌々受け入れたのでは、受け入れたことになりません。


受け入れる以上は、納得して、感謝の気持ちで受け入れなければなりません。


「災難が来てもこれで好し。お迎えが来てもこれで好し。どんな不都合なことに遭遇してもこれで好し」と頷けるようになって初めて、良寛さんがおっしゃるように、一切を在るがまま感謝して受け入れられるようになり、そこに自ずと災難から逃れられる道理が具わってくるのです。


◇生死の中に仏あれば生死なし◇


曹洞宗の開祖、道元禅師が、次のように説いておられます。


生死の中に仏あれば生死なし。ただ生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべくもなく、涅槃としてねがうべきもなし。この時初めて生死を離るる分あり


「生死」を「地獄」と言い換えてみて下さい。


地獄の中に仏あれば地獄なし。ただ地獄即ち極楽と心得て、地獄として厭うべくもなく、極楽としてねがうべきもなし。この時初めて地獄を離るる分あり


誰も地獄へは行きたくないし、みんな極楽へ往きたいのです。でも、どうしても地獄へ行かなければいけなくなった時、皆さんはどうしますか?


「地獄でも何処でも行きましょう」という心にならなければ、本当の極楽には往けません。


つまり、極楽は好いが地獄は嫌だという分別心を捨てなければ、本当の極楽は見えてこないのです。


合掌


心安らかに生きる為に(1)
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2019年01月08日

心安らかに生きる為に(5)

◇分別心を離れよー吉祥天と黒闇天


二つ目の修行は、分別心を離れる修行です。分別心についても、こんな面白い話があります。


或る日、一軒の家に、美しい女性が訪ねてきたので、家人が「どなたですか?」と尋ねると、「私は吉祥天と言う福の神です。お宅に福を授けにまいりました」と言ったので、家人は大喜びし、「それは有り難いことです。どうぞ中へお入りください」と言って、吉祥天を招き入れました。


すると、その後から、見すぼらしい姿をした女性が入って来ようとするので、「あなたはどなたですか?」と尋ねると、「私は黒闇天という疫病神です」と言ったので、家人は、「疫病神に入ってもらっては困ります。どうかすぐにお帰り下さい」と言って追い出そうとしました。


すると、黒闇天は大笑いして、「先ほど入っていった吉祥天は私の姉です。私たちは姉妹で、どこへ行くにもいつも一緒なのです。もし私を追い出せば、姉の吉祥天も出ていかなければなりません」と言って、黒闇天を追い出したら、折角入って下さった吉祥天も一緒に出て行かれたというのです。


何故この家人が黒闇天を家の中に迎えられなかったのかと言えば、疫病神は自分にとって不都合だという分別心が働いたからです。


人間は、好都合と不都合を分別して、福は好都合、災厄は不都合と色分けしますが、「吉凶禍福はあざなえる縄の如し」と言われるように、吉凶は、表裏一体ですから、吉祥天だけを招きたいと思っても、その裏には常に黒闇天が一緒に付いてくるのです。


もし福の神を招きたければ、妹の黒闇天も一緒に招く以外に道はありません。


◇維摩居士の病気見舞い◇


在家の身でありながらお釈迦様の弟子たちも太刀打ちできないほどの智慧を持つ在家の信者・維摩居士を主人公にした『維摩経』にも、分別心を離れることの大切さが説かれています。


或る日、維摩居士が病気になります。病気と言っても肉体の病気ではなく、苦しむ衆生を救わずにはいられない大悲の疾いなのですが、お釈迦様は、それを承知で、弟子たちに「誰か、維摩居士の病気見舞いに行ってくれませんか?」と尋ねました。


しかし、見舞いに行こうと申し出る弟子は一人もいません。何故なら、以前維摩居士から、修行の在り方や説法の内容について、やり込められた経験があるため、見舞いに行けば、また同じ目に逢うのではないかと思い、行きたくても行けないのです。


釈迦十大弟子の中で「智慧第一」と言われる舎利弗(しゃりほつ)は、悟りを開くには心を鎮めて瞑想するのが最も優れた修行だと信じていたので、座禅して静かに瞑想していると、そこへ維摩居士が通りかかり、「舎利弗さん、何をしているのですか?本当の坐禅とは、ただ一人座って瞑想する事ではありませんよ。本当の座禅は、日常生活の中にあるのですよ」と諭された経験があり、素直に「病気見舞いに行きます」とは答えられないのです。


また「論議第一」と言われた迦栴廷(かせんねん)や、その他の弟子たちも、舎利弗と同様、維摩居士にやり込められた経験があるため、「そのようなお方のお見舞いはとても荷が重すぎます」と言って、みんな病気見舞いに行こうとしません。


そこで、お釈迦様は、文殊菩薩を名代として見舞いに行かせることにしたのですが、文殊菩薩が訪ねていくと、維摩居士は、「文殊菩薩、よく来てくれました。去るものにも来るものにも執着することなく、また見るものにこだわることなく、在るがままを観ずる不動の境地におられる文殊菩薩に来ていただいて、有り難く思います」と言って、礼を言います。


文殊菩薩が、「丁重にお見舞いするようにというお釈迦様の心遣いを伝えるため、私が代表してお見舞いにまいりました。ところで、居士の病の原因は何ですか?」と尋ねると、維摩居士は、「愚痴により道に迷い、愛着のために病は生じます。世間の人々が執着のために道に迷い、病んでいるために私も病むのです。人々の病が消滅すれば、私の病も消滅します。菩薩道を歩む者は、人々をこの愚痴から救い出すために生死の輪廻の世界へ生まれてきました。生や死にこだわれば病になります。人々が生死の病から離れることができれば、菩薩もまた病を離れられます。子供が病気になれば、両親も病むようなものです。その病気の原因は何かと言われれば、菩薩道を歩む者の病とは、大悲のもたらすものです」と答えるのですが、維摩居士はここで、「病気の原因は二つある」と言っています。


一つは、煩悩から来る分別と執着(愛着)、もう一つは、衆生を救いたいという大慈悲心で、菩薩は、衆生を救わずにはいられないという大慈悲心に病むのですが、代苦者となられた菩薩様も、同じ境地を詠まれた道歌をいくつも残しておられます。

 代苦者と なりて衆生の苦を背負う
    これぞ菩薩の 悲願なりけり
 衆苦をば 背負う病の身なれど
    己が心を 知る人ぞなし
 人思い 汝が疾めばわれも疾む
    われ疾むゆえに 汝疾むなり


◇舎利弗尊者と花びら◇


この後、舎利弗尊者が、凡夫の病の原因である煩悩(分別と執着)について天女に諭されますが、六道(迷いの世界)の中の天上界に住む天女は、お釈迦様の弟子の中の最高位である阿羅漢となった舎利弗よりも低い位にいますから、本来なら、上の位にいる舎利弗が天女から諭される筈がありません。


ところが、天女は仮の姿で、本当の正体は、人々を救う為に姿を変えた菩薩なので、阿羅漢に過ぎない舎利弗は、天女の前にたじたじとなってしまいます。


この菩薩は、いつでも維摩居士の教えが聞けるようにと、以前から天女に姿を変えて維摩居士の家に住み着いていたのですが、文殊菩薩と維摩居士の問答を聞いて感動し、天空から蓮の花びらを撒いたのです。


ところが、この時、不思議な事が起こります。


撒かれた花びらは、文殊菩薩や維摩居士の体には一枚も付着せず、そのまま地面に落ちていくのに、舎利弗をはじめとするお釈迦様の弟子たちには、体に付着して離れないのです。


文殊菩薩や維摩居士に付着しなかった花びらが、自分たちの体に付着し、どんどん増えていくため、舎利弗たちは花びらを振り落とそうと焦り始めます。その光景を見ていた天女が、笑いながらこう尋ねるのです。


 天女─舎利弗尊者、いかがなさいましたか?
 舎利弗─いや、この花びらがくっついて離れないのです。
天女─なぜ、花びらを振り落とそうとなさるのですか?
 舎利弗─出家者に花びらは相応しくありません。出家者は身を飾ってはいけないのです。
 天女─舎利弗尊者、それはおかしいですね。
 舎利弗─なぜですか。出家者は身を飾らぬのが戒律です。
 天女─舎利弗尊者、この花びらは花びらに見えますが、真理そのものなのです。飾りではありません。
 舎利弗─この花びらが真理そのもの?
 天女─そうです。この花びらは真理そのものです。花びらは、あなたにくっつこうなどとは考えていません。ただ在るように在るだけです
 舎利弗尊者、あなたの方が「この花びらは出家者に相応しいか相応しくないか」などと分別をしているだけなのです。
 あなたたちが、勝手に良し悪しを判断しているから、花びらがくっつくのです。
 ただ在るがままに在るだけの世界を勝手に判断し、勝手に分類し区別することを、分別といいます。
 分別は妄想です。したがって、分別は真理から外れた行為です。そんな分別は捨てるべきです。見てごらんなさい。分別を捨て去った菩薩には花びらはつきませんよ。
 花びらだけではありません。恐怖は、ありもしない不安を抱えている人につくものであり、苦しみを恐れる人ほど快楽におぼれます。
 分別から離れれば、美しいも醜いもなく、恐怖も安心もなく、苦も快楽もなく、おいしいもまずいもありません。すべては平等です。
 すべてを受け入れられれば、何の禍も恐怖もありません。
 この花びらは、物事を在るがままに見られず、分別し、執着する人にくっつき離れないのです。
 分別を去り、在るがままに物事を見ることができる人には、くっつかないのです。


◇欲も苦もなく我もなく◇


こう言って天女に姿を変えた菩薩は、あれこれと分別している舎利弗を諭し、分別や執着から離れる事の大切さを説いたのですが、分別するという事は、自分の立場から好都合と不都合を区別し、好ましくないものを否定し排除することです。


それに対し、悟りの世界は、在るがままの世界ですから、あれが良い、これが悪いというような分別が一切ありません。


そこにあるのは、苦もなければ楽もなく、生もなければ死もなく、一切を超越した世界です。


菩薩様が、
 生死なく 欲も苦もなく我もなく
   無常悟れば 涅槃に帰る
と詠っておられるように、分別を離れた世界には、一切の執着がありませんから、病んでいても、どんな不都合な状況にあっても、そのままが極楽の世界となるのです。


合掌


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2019年01月01日

新年明けましておめでとうございます!

新年明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。
平成最後の元旦となりましたが、快晴に恵まれ、美しい初日の出を拝むことが出来ました。
今年も平穏な一年でありますことをご祈念申し上げます。


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我が家の素朴な、昔ながらのおせち料理です。
最近はおせち料理も高級志向だそうですが、おせち料理は、素朴さが一番です。


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2018年12月29日

正月用の鏡餅づくり!

12月29日は、法徳寺恒例の鏡餅づくりの日です。
朝から、「もちっこ」二台がフル稼働、孤軍奮闘しています。
搗き終わった餅を丸めるのは、手作業です。
これで新年を迎える準備が整いました。


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「何故、9(苦)の付く29日に御餅つきをするのか、「苦餅」になるじゃないか、縁起でもない?」
そう思われたお方もおられるでしょうが、本当に縁起が悪いんでしょうか?
そうとは言い切れませんよ。(^-^)
http://www.takanoyama-houtokuji.com/6,houwa/houwa/105.html


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北海道や東北、日本海側は今年最強の寒波到来で、大雪に見舞われていますが、帰省の皆さまは、くれぐれも事故などのないよう、お気を付けてお帰り下さい。
山梨は今のところ雪もなく、穏やかな快晴の空が広がっています。


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これが今年最後のブログ更新となります。
一年間、ありがとうございました。来年も宜しくお願い申し上げます。
来たる年が皆様にとって、より良き年となりますよう、ご祈念申し上げます。


合掌

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2018年12月28日

心安らかに生きる為に(4)

◇億劫にも遇い難きは仏法なり◇


人間界に生まれた者は、みな同じスタートラインに立っていると申しましたが、だからといって、誰もがみな一斉に極楽へスタート出来る訳ではありません。


同じスタートラインに立てても、スタート出来ない人が、実は大勢いるのです。


お釈迦様が「縁なき衆生は度し難し」と喝破しておられるように、先ず仏縁のないお方はスタート出来ません。何故なら、極楽へ帰る道が分からないからです。


極楽へ帰る為には、人間の身を与えられるだけではなく、極楽へ帰る指南書ともいうべき仏法にご縁をいただかなければならないのです。


人の身を与えられ、更に仏法という指南書に遇わせていただかなければ、自分の正体が仏の子であることも、魂の故郷が極楽であることも、人の身を与えられたことの有り難さも、極楽へ帰る上で欠かせない菩提心を起こすことの大切さも分かりません。


これが、「億劫にも遇い難きは仏法なり」と言われる所以です。


いま皆様は、億劫にも遇い難き仏法に遇われたお陰で、自分の正体が仏の子であることも、魂の故郷が極楽であることも知ることが出来ましたが、世の中には、まだその事実をご存じない方が大勢おられます。


折角、極楽へ帰れる人の身を与えられておりながら、人間に生まれた有り難さも知らずに、無常の荒波に押し流されていく人々が大勢いるのです。


それに対し、私たちは、仏法に遇わせて頂いたお陰で、いよいよ極楽目指してスタートする千載一遇の好機に巡り合えたのです。


スタートするという事は、乞食に身をやつした長者の息子が、自分の姿に目覚めるまで長者の家の雇用人として働いたように、自分が極楽に居た時の事を思い出す為の訓練(修行)に入ることを意味します。


修行ですから易しくはありませんが、難しく考える必要もありません。二つの事を心に刻んで、励んでいただきたいと思います。


◇合掌の意味◇


そのお話をする前に、修行中に結ぶ合掌印の意味についてお話したいと思います。


古歌に、
 右ほとけ 左われと合わす手の
   内にゆかしき 南無の一声
と詠われているように、合掌の右手は親様であるみ仏を、左手は仏の子である私たちを現しています。


合掌印は、み仏と私たちが、目と目を合わせて相互に拝み合っている極楽の有様を、形に現したものと言っていいでしょう。


修行中、常に合掌印を目の前で結びながら、み仏を拝むのは、合掌印を見ながら、極楽での姿を心(心眼)の奥底に強く焼き付ける為です。


残念ながら、今の私たちは、親様(光)に背を向けた状態で、六道輪廻の人生をさまよっています。これを両手で現わせば、右手の掌と左手の甲を合わせた形となり、合掌にはなりません。


つまり、もう一度、内側に向いた左手の甲を外側に向け、右手と左手の掌を合わせた合掌印に戻し、親様に目を向けなければならないのです。


これによって、極楽で暮らしていた私たちの本来の姿に戻ることが出来るのですが、その為には、これからお話しする二つの修行が欠かせません。


◇忘れてはならない菩提心◇


一つ目の修行は、菩提心の実践です。この菩提心について、お大師様は、四種の菩提心を挙げておられます。


第一は信心です。この信心は、菩薩様が、「み仏はただ信じるのではなく、信じ切らなければならない」とおっしゃっておられる信心で、どんな事があっても崩れない不動の信心(不動心)でなければなりません。


例えば、自分にとって不都合な事が起きた時、み仏を疑ったり、信仰を捨てるような信心は、不動の信心とは言えません。そのような半信半疑の信心ではなく、どんな不都合な出来事に遭遇しても、揺れ動かない信心です。


第二は大慈悲心です。これは、自分より先に他の人を極楽(彼岸)へ渡してあげようという心で、別名「行願心(ぎょうがんしん)」とも言います


道元禅師が、「菩提心を起こすというは、己れ未だ渡らざる先に、一切衆生を渡さんと発願し営むなり。たとえ在家にもあれ、たとえ出家にもあれ、或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも、楽にありというとも、早く自未得度先度佗の心を起こすべし」と説いておられる菩提心が、この大慈悲心です。


彼岸へ渡る時は、誰よりも早く行きたいのが人情です。しかし、全員がその心を起こせば、争いが起こり、誰も彼岸へ渡れなくなります。


狭い出口に大勢の人が先を争って殺到すれば、狭い通路はすし詰め状態となり、誰も出られなくなるのと同じように、早く彼岸へ渡りたければ、まず他の人を先に渡してあげようという心を、お互いが起こさなければなりません。この譲り合いの精神を忘れていては、極楽へは帰れません。


第三は勝義心(しょうぎしん)です。文字通り、劣った教えを捨てて、正しい教えに帰依する心で、別名「深般若心(じんはんにゃしん)」とも言います。


例えば、オウム真理教のように、殺す事がその人を救う事だと信じ込ませ、救う為には人を殺しても構わないと説く教えや、イスラム過激派組織ISIL(イスラム国)のように、神の名の下に無差別テロを正当化する教えには絶対に帰依してはならないと知る心が、勝義心です。


最後が大菩提心で、悟りを得て一日も早く極楽に戻り、一人でも多くの人を救いたいと深く念じ、実践する心です。


六度目の挑戦でようやく日本に渡航された鑑真和尚や、命がけで海を渡り、唐から真言密教を伝えられたお大師様の命がけの求道心は、まさにこの大菩提心の実践と言えましょう。


◇地獄と極楽の食事風景◇


この菩提心に関して、面白い話があります。


或る人が、地獄と極楽の食事風景を見に行ったところ、地獄では、みんな食卓を挟んで争ったり、罵り合ったりしているので、「どうしたのだろう?」と不思議に思って見ると、一メートルもある長い箸を使って、自分の目の前にあるお皿の食べ物を挟んで食べようとしていました。


しかし、箸が長すぎてうまくつかめないため、腹を立てて言い争ったり罵り合ったりしていたのです。


次に、極楽へ行ってみると、食卓の上には、地獄と同じように、美味しそうな食事と一メートルもある長い箸が置かれていました。


ところが、地獄とは違い、みんなニコニコ笑いながら、楽しそうに食事をしているのです。


よく見ると、極楽の人々は、その箸を使って、自分の前に座っている人のお皿の食べ物を挟んで、前の人の口に入れてあげていたのです。


その箸は、目の前に座っている人に食べさせてあげるのに、ちょうど良い長さのお箸だったのですが、地獄にいる人々は、菩提心を忘れて地獄へ堕ちたため、相手の為に使うことを知らなかったのです。


それに対し、極楽の人々は、相手の身になって考える菩提心を起こして極楽へ往けた人たちだったので、誰もが、長い箸は、相手の為に使うものだということを知っていたのです。


つまり、地獄と極楽を分けていたのは、同じ一メートルの箸を誰の為に使うか、何の為に使うか、菩提心を起こせるか否かという、たったそれだけの違いだったのです。


◇蜘蛛の糸◇


芥川龍之介の『蜘蛛の糸』という短編小説にも、菩提心に関する面白い話が書かれています。


或る時、極楽の蓮池のほとりを歩いておられたお釈迦様が、蓮の葉の間から地獄の有様をご覧になったところ、地獄の底でカンダタという男がもがき苦しんでいる姿が見えました。


カンダタは、様々な罪を犯して地獄へ堕ちた極悪人でしたが、お釈迦様がカンダタの生涯を見ると、一つだけ善い事をしていました。道端をはってゆく小さな蜘蛛の命を助けた事があったのです。


そこで、お釈迦様は、その功徳に免じて地獄から助けてあげようと、蜘蛛の糸をカンダタの頭上に下ろされました。


カンダタがふと上を見上げると、極楽から、銀色に輝く蜘蛛の糸がスルスルと下りてきたので、カンダタは、「有り難い。この糸を上っていけば極楽へ行ける」と思い、その糸を上り始めました。


ところが、途中まで来たところでふと下を見ると、地獄へ堕ちた大勢の亡者たちが、カンダタの後から次々と上ってくる姿が見えました。


それを見たカンダタは、「この蜘蛛の糸は俺のものだ。誰の許しを得て上ってくるのだ。みんな早く下りろ」と叫びながら、すぐ下の男の頭を蹴飛ばしたのです。


すると、その蜘蛛の糸は、カンダタの手元からプツリと切れ、カンダタも亡者たちも、蜘蛛の糸もろとも地獄の底へ真ッ逆さまに堕ちていきました。


お釈迦様は、その一部始終をご覧になられ、自分の事しか考えないカンダタの心根を哀れに思われたのですが、カンダタの一挙手一投足を見ていると、自分を救えるのも、自分を不幸にするのも、自分しかいないことがよく分かります。


自分が不幸になるのは、親のせいだ、子供のせいだ、誰々のせいだ、社会のせいだと言って、不幸の責任を自分以外の何かに転嫁している人をよく見かけますが、自分以外に自分を不幸に出来る人など一人もいません。


自分を救える者は自分しかいないからこそ、自分を救う菩提心を、いついかなる時も忘れてはならないのです。


◇蜘蛛の糸の正体◇


この短編小説を読んで、「何故あんなに大勢の人が上っても切れなかった蜘蛛の糸が、男の頭を蹴ったくらいで切れたのだろう?」と、不思議に思われたお方もいると思いますが、蜘蛛の糸の正体が分かれば、切れた理由が分かります。


お釈迦様が垂らされた、カンダタを極楽へ導く蜘蛛の糸の正体は、蜘蛛の命を救ったカンダタの菩提心だったです。


「この蜘蛛の糸が、お前を極楽へ導く菩提心だよ。さあ、この菩提心の糸を離さずに、極楽へ上ってきなさい」


ただの細い蜘蛛の糸であれば、すぐに切れてしまいますが、カンダタが上ってきた蜘蛛の糸は、カンダタの菩提心を象徴する蜘蛛の糸ですから、カンダタが菩提心を捨てない限り、幾ら細くても絶対に切れません。


ところが、自分の後から次々と上ってくる大勢の亡者を見た途端、カンダタは、自分さえ助かればいいという浅ましい心を起こし、菩提心を捨ててしまったのです。


切れたのは、ただの蜘蛛の糸ではなく、蜘蛛の糸に象徴されているカンダタの菩提心です。


カンダタは、菩提心によって、かろうじて極楽へつながっていただけですから、その菩提心が切れれば、菩提心を象徴する蜘蛛の糸が切れて地獄へ堕ちてゆくのは当たり前です。


表面的に見れば、蜘蛛の糸がカンダタの手元で切れたように見えますが、正確に言えば、切れたのではなく、カンダタが自ら切ったのです。


菩提心を起こすも捨てるもすべて、カンダタ自身の胸三寸にかかっていますから、カンダタ以外に、カンダタの菩提心を切れる者はいません。


もしカンダタに、自分と同じように地獄へ堕ちた人たちを少しでも憐れむ心があれば、「みんなも一緒に極楽へ往こう」と言えた筈であり、そうすればカンダタも他の亡者たちもみんな救われたのです。


この蜘蛛の糸は、幾ら細くても、菩提心を失くさない限り絶対に切れませんが、同時に、菩提心を失くせば、一瞬にして切れるもろい糸でもあります。


カンダタが再び地獄へ堕ちて行ったのは、自分さえ極楽へ行けたらいいという心を起こし、菩提心である蜘蛛の糸を自ら切ってしまったからです。


自分の幸せだけを考えていては、救われないことがよく分かります。他人のことを思える菩提心が、自らを救い、その心が極楽へ通じる蜘蛛の糸となるのです。お互いが支え合い、助け合っていかなければ、誰も幸せにはなれません。


そして、その当たり前のことを教えてくれているのが、先ほどお話した極楽の食事風景です。


極楽には、長い箸を使って、お互いに食べさせ合える心の持ち主しか帰れません。


菩提心を起こし、限りある人生を、みんなで支え合い、助け合って生きて行くことの出来る人だけが極楽へ帰れるのです。


合掌



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