2018年05月21日

五月の御縁日!

五月晴れの中、無事に21日の御縁日法要を厳修させていただきました。
法要の後、恒例の法話と聖歌の御奉納をさせていただきましたが、今日は、新たに二曲の聖歌が加わりましたので、その二曲をご紹介した後、みんなでご奉納させていただきました。
来月は、もう一曲、新たに聖歌が加わる予定ですので、楽しみにお待ち下さい。
今月は、ようこそお揃いでお帰り下さいました。
来月も、皆様のお帰りをお待ちしております。
合掌


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2018年05月17日

大自然から学ぶ智慧(4)

◇死を覚悟した苦行◇


天台宗に伝わる千日回峰行という修行があります。


以前、テレビでも千日回峰行の特集を放送していましたので、ご覧になったお方もおられると思いますが、比叡山の峰々を歩き続ける非常に厳しい修行です。


千日回峰行とは、十年間比叡山に籠もって毎日修行に明け暮れる籠山行の中にある苦行の一つで、七年の内の千日間、ひたすら比叡山の峰々に祀られている260箇所ものお堂を廻って、仏様を拝み続ける修行です。


30キロの道のりを、平均6時間かけて廻るそうですが、一年目から三年目までは、一年に100日間、四年目、五年目が、一年に200日間、つまり、五年で700日間の回峰行があり、それが終わると、「堂入り」と言って、九日間にわたる断食・断水・断眠・断臥の行に入ります。


食べる事も、水を飲む事も、眠る事も、横になる事も出来ない大変な苦行です。


「堂入り」が終わって六年目からは、京都までの道のりが新たに加わり、60キロの道のりを、100日間歩き続けなければなりません。


七年目は更に倍の200日となり、最初の100日間は、「京都大回り」と呼ばれる83キロの行程を、残りの100日間は、再び比叡山中の30キロの道のりを歩く行に戻ります。


こうして、七年かけて千日間の回峰行が行われるのですが、厳しい回峰行の中でも最大の苦行が、九日間に及ぶ「堂入り」です。


九日間、食べず飲まず眠らず休まず、ただひたすら八万枚の護摩木を焚いて拝み続ける訳ですから、まさに死を覚悟しなければ出来ない行と言ってもいいでしょうが、行の中で、口を漱ぐだけの水を口に含ませていただけるそうです。


勿論、飲めませんし、飲んではいけません。ただ口を漱ぐだけです。


いままで四十七人の方が、千日回峰行を成し遂げられ、酒井雄哉というお方が、二度成満しておられますが、戦前の昭和の初め、この千日回峰行を三度成満なさったお方がおられます。


奥野順玄というお方で、今や伝説上のお方と言っていいでしょうが、この奥野師にこんなエピソードが伝えられています。


◇或る千日回峰行者の講演◇


奥野師の講演会が催され、大勢の聴衆が固唾を飲んで見守っている中、講演会場にしずしずと入ってこられたそうです。


体の小さなお方なのに、その時はとても大きく見えたそうですが、正面の演壇に立たれ、暫く合掌したまま数分間祈っておられたそうです。


どんなお話をされるのだろうと、固唾を呑んで見守っている聴衆に向かい、おもむろにこうおっしゃったと言います。


「私は今、お不動様にご懺悔の気持ちで一杯です」


九日間、食べず飲まず眠らず休まず、ただひたすら八万枚の護摩木を焚いてお不動様を拝み続けたお方が、開口一番、「お不動様にご懺悔の気持ちで一杯です」と告白されたのです。


「口を漱ぐためにいただいた水の一滴が、喉を通ってしまいました」


勿論、飲もうと思って飲んだ水ではありません。口を漱ぐために含んだ水ですが、その一滴が、たまたま喉を通ってしまったと、おっしゃったのです。


「その事を私は今でも悔やんでおります。悔いております。お不動様にご懺悔しております。これから一生、お不動様にご懺悔し続けていくでしょう」


こう告白された後、続けてこうおっしゃったそうです。


「しかし、喉を通った一滴の水の味わいは、今でも忘れません。一生忘れる事はないでしょう。それではこれで私の講演を終わります。」


そう言って、講演会場を出ていかれたそうです。


この話は、平成10年に御遷化された信貴山玉蔵院の野澤密厳管長猊下の御法話の中で伺った話ですので、奥野師の講演の詳細は分かりませんが、話を聞いた時の衝撃は、今でも忘れられません。


わずか数分という講演の短さも然ることながら、極限状態を体験された奥野師の赤裸々な告白が、魂の奥底まで響き渡り、衝撃が全身を貫いていきました。


この講演を聞かれた会場の聴衆も、私と同様、強烈な衝撃を受けたのではないでしょうか。


◇奥野阿闍梨の問いかけ◇


「九日間の不眠不休で八万枚の護摩を焚いた時、たまたま口を漱ぐ為に頂いた水の一滴が喉を通ってしまいました。飲もうと思って口に入れた水ではありませんが、たまたま入ってしまいました。その事を私は、今でも悔やんでいます。お不動様にご懺悔しております。これからも一生お不動様にご懺悔し続けていくでしょう。しかし、その一滴の水の味わいは今でも忘れません。その水の味わいも一生忘れる事がないでしょう」


そう言って会場を後にされた奥野大阿闍梨がこの講演で伝えたかった事は何だったのでしょうか?


一滴の水が喉を通ってしまった事に対するお不動様への懺悔の気持ちや、喉を通った水の味わいを一生忘れる事はないという事実だけを告白する為ではないと思います。


むしろ奥野師は、「私の体験から、皆さんそれぞれに何かを悟っていただければ結構です」と、会場にいる人々に問いを投げかけられたのではないでしょうか?


百人いれば百様の受け止め方があるのは当然ですが、数分という僅かな時間で講演を閉じられたのは、講演を聞いた人々が自ら何かを悟り、人生を生きる糧としなければ意味がない事を、誰よりも分かっておられたからかも知れません。


◇水一滴の味わい◇


「飲まず食わず眠らず休まない行の真っ直中で口に含んだ水の一滴であっても、喉を通ってしまった事は悔いても悔やみきれない。お不動様に申し訳ない。しかし、その一滴の水の味わいは、今でも忘れられない」と、ありのままの心情を告白されたその言葉には、悲壮感さえ漂っていますが、「水の味わいは一生忘れられない」という言葉からは、喉を通った一滴の水が、全身に活力をみなぎらせるほどの味わいだった事が、ひしひしと伝わってきます。


以前、私も断食をした経験がありますので、「一滴の水の味わいは一生忘れられない」とおっしゃった奥野師のお気持ちが、少し分るような気がいたします。


勿論、千日回峰行を三度も成満なさったお方の行とは比べるべくもありませんが、断食を終えて最初に口にした重湯の味わいは、とても言葉では言い表せません。


今まで眠っていた細胞が、一瞬にして目覚めるとでも言いましょうか、体中にみるみる活力がみなぎってくるのが手に取るように分るのです。


この時に悟ったのは、入れる事より出す事の大切さです。


断食は、体からすべての老廃物を出し切る行ですが、断食の真の目的は、出し切る事ではなく、新鮮なものと入れ替えて、体を作りかえる事にあります。その為には、まず体内に滞っている老廃物を出し切らなければなりません。


昔から「体調が悪くなったり、食欲がなくなったりした時は、断食をするとよい」と言われるのはその為で、断食は、体内に滞っている様々な老廃物を出し切って、体を根本から作りかえてくれます。


断食をしてみれば分りますが、出し切った後は、まるで乾ききったスポンジが水を吸収していくように、たった一滴の水でさえも、口に含めば細胞内にどんどん活力がみなぎってくるのが実感出来ます。


断食をする前は、一滴の水を飲んでも何も感じませんし、一滴の水の持つ力が如何に凄いかなど想像も出来ません。


しかし、断食をした後では、僅か一滴の水でさえ、命を蘇らせる力を持っているのがよく分ります。


キリスト教に「求めよ。さらば与えられん」という言葉がありますが、断食に教えられるのは、「出し切れ。与えよ。さらば与えられん」と言う真理です。


恐らく奥野師も同じ真理を悟られたのではないかと思いますが、信仰も同じです。


よく「信仰とは何の為にするのですか?」と尋ねられる事がありますが、世間には、信仰を、自分の願いを叶えてもらう為の手段と考えているお方が大勢おられます。


何か満たされないものがあり、それを神仏の力によって叶えてもらう為にするのが、世間の人々が考える信仰なのです。


◇信仰は取引ではない◇


しかし、本当の信仰は、願いを叶える為でも、欲望を充たす為でもありません。


勿論、願いを叶えてもらう為に神仏を拝むのも自由ですが、神仏は、私たちがこれだけお願いしたから、叶えてくれたり、お願いしないから叶えてくれないというような依存的存在ではありません。


神仏は、仏の子である私たちから見れば親様であり、私たちが願おうが願うまいが、何とか幸せにしたいと、私たち一人一人に応じて、一番良い手立てを以て導いて下さっているのです。


願ったから願いを叶えてくれ、願わないから叶えてくれないというのは、謂うならば取引であって、信仰ではありません。


「これだけお布施をしますから、これだけ信仰をしますから、これだけのご利益を与えて下さい」と言って何らかの見返りを求めるのは、信仰ではなく、近所の商店へ行って野菜や果物を買うのと同じです。


信仰を取引にしては、心を汚すだけでなく、六道輪廻の廻り舞台から飛び出す事も出来ません。


よく「何年信仰しても少しもよくならない」と言われるお方がいますが、このようなお方は、神仏を信仰しているのではなく、神仏と取引をしておられるのではないでしょうか?


大切な事は、最善最良の手立てを以て私たちを導き、必要なものを必要なだけ与えて下さっている神仏に対しどう応えていくか、という事です。


求める心しかないと、神仏のみ心は分からないでしょうが、神仏は、私たちが願おうが願うまいが、先々まで見通して、ありとあらゆる手立てを以て、私たちに一番良い方法を以って導いて下さっているのです。


ですから、願いが叶おうが叶うまいが、すでにありとあらゆる手立てを以て私たちを導き、守って下さっている神仏にお返しするものは、懺悔と感謝の心しかありません。


願いを叶えてもらったから、感謝の心をお返しするのではありません。願いが叶っても叶わなくても、常にお守り下さっているからこそ、感謝の心をお供えしなくてはいられないのです。


この感謝の心は、プラスを引き寄せる力を持っていますから、此方からお願いしなくても、ありとあらゆるプラスのお計らいが寄って来ます。断食は、その道理を悟るための行でもあるのです。


プラスとは、ただお金や物だけではありません。健康も、家族の平安も、様々な災難から逃れさせていただく事も、みなプラスです。


しかし、求めるばかりで、出す事を知らなければ、いつまで経ってもプラスは寄ってきません。


人間にはみなそれぞれ、目に見えない幸せを入れる徳の器というものがあり、器の大きさ以上のものは災いの原因になる為、余分なものが入っても、みな出ていくようになっています。


私たちの目には、マイナスとしか映らない為、真相を知らない人は損をしたように思うのですが、余分なものを出して、病気や事故や怪我など、様々な災いから救ってくれているのです。

(法舟菩薩)
 施しすると いうことと
   神にとられる いうことの
   道理わかれば 悟りなり
 天は二物を 与えない
   これの道理が わかるなら
   施しせずには おれませぬ

合掌


大自然から学ぶ智慧(1)
大自然から学ぶ智慧(2)
大自然から学ぶ智慧(3)
大自然から学ぶ智慧(4)
大自然から学ぶ智慧(5)


高野山法徳寺Website「救いの扉」

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2018年05月05日

諏訪、三輪両神社の春の例大祭!

毎年5月5日の子供の日は、地元の若神子諏訪神社と三輪神社で、春の例大祭が執り行われます。
親子連れが、新生児の初宮参り、就学児童の学業成就と無事生育を願ってお参りしますが、私も区長として、昨年に引き続き、地区を代表してお参りさせていただきました。


こちらは諏訪神社の模様です。


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諏訪神社に続いて、三輪神社でも、氏子の初宮参りと児童の無事生育、学業成就が御祈願されました。
若神子の中でも、私が区長をしている中町地区は、諏訪神社と三輪神社に、氏子が分かれている為、区長は、どちらの神社へもお参りしなければなりません。
宮司様も、両神社を掛け持ちしておられるので大変ですが、区長も大変です(笑)。
氏子総代と役員の皆さんも、準備や後片付けで大忙しです。
いずれの皆様も、本当にご苦労様でした。


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2018年05月04日

大自然から学ぶ智慧(3)

◇廻り舞台から飛び出せ◇


次々と生まれる苦しみとの果てしないイタチごっこから解放される為には、何としても六道輪廻の廻り舞台から飛び出し、苦しみの連鎖を断ち切らなければなりません。


六道の廻り舞台から飛び出した人を「仏(覚者)」と言い、六道の廻り舞台から飛び出せずにいる人を「凡夫」と言いますが、貴船の脇坂リヨ様が、「本当の幸せとは、凡夫から抜けなあかしませんのや。凡夫から抜けるという事は、悟るということどすさかい、悟らなあかしませんのや。悟ったら、体が光で守られますさかいなあ。乞食(こつじき)せなあかしません。乞食と言うのは、食べ物をもろうて歩くのと違いますのや。己を捨てる事が乞食どすえ。自分の事は考えんでもよろしいのどす。自分の事を考えると、間違いをおこしますのどすわ」とおっしゃっておられるように、己を捨てて、六道輪廻の廻り舞台から飛び出した所にしか本当の幸せ(救い)はありません。


では、どうすれば六道輪廻の廻り舞台から飛び出せるのでしょうか?


その為には、先ず欲望の充足と救われる事の違いを知らなければなりません。欲望の充足に幸せを求めている限り、いつまで経っても六道輪廻の廻り舞台から飛び出す事は出来ません。


「飽くなき欲望」「渇望」という言葉があるように、苦しみの連鎖の裏には、欲しいものを手に入れよう、手に入れたいという強い貪りの心(貪欲)があります。


あれも欲しい、これも欲しい、有っても欲しい、無くても欲しい、欲しい惜しいと、果てしのない貪欲の奴隷となっている限り、連鎖は止められません。


欲望の充足に救いを求めている限り、有っても無くても苦労し続けなければならないのです。


ですから、どうあっても欲望の充足と救われる事の違いを悟らなければなりません。


◇大自然が教えている真理◇


欲望の充足を求める心とすれば、救われる心は与える心と言ってもいいでしょうが、その心を教えてくれているのが、大自然です。


私たちは、太陽から、ありとあらゆる恵みをいただいています。太陽がなければ、人類は生きていけません。


いま地球上に届いている太陽の光は、約8分18秒前に太陽の表面から発せられた光ですが、表面の光は、太陽の中心で発せられた光が100万年かかって表面に到達したものです。


太陽の内部は非常に密度が高いため、太陽の中心から発せられた光であっても、太陽表面に到達するまでに100万年かかるのです。


ですから、いま地球に届いている太陽光線は、100万年前に太陽の中心で発せられ、8分18秒前に太陽表面から発せられた光という事になります。


100万年と8分18秒という気が遠くなるような時間をかけて地球上に届けられた光のお陰で、私たち人類は何不自由なく生かされているのです。


太陽から頂いている恩恵は計り知れず、どれほど感謝しても感謝し切れませんが、太陽は今までその見返りを求めた事があるでしょうか?


太陽は、ただ与えるだけです。太陽から見返りを求められた事など、一度もありません。


野に咲く草花たちはどうでしょう。太陽と同様、綺麗な晴れ姿を見せて心を癒してくれているだけで、人間にその代償を求めたりはしません。


毎年、春になると、法徳寺の境内にある四十数本のソメイヨシノが満開となり、可憐な薄紅色の花を咲かせてくれますが、桜たちも、ただ可憐な姿を見せ、心に喜びを与えてくれているだけです。


それに比べ、人間はどうでしょうか?「世話をしてあげたのに、あの人は一言の礼も言わない」と言って、必ずその代償を求めます。


尊い信仰のご縁を頂いても、「これだけお布施をしたから、ご利益を下さい。これだけお参りをしたのに、ご利益を頂けません」と言って、み仏に見返りを求めます。


もし太陽から、「これだけの光を届けてあげているのだから、その見返りが欲しい」と言われたら、人類はたちまち破産してしまいます。この地球上にある全財産をつぎ込んでも、太陽の求めに応じる事など出来ません。


勿論、太陽はそんな事を望んではいませんし、求めてもいません。ただ人間に対し、「幸せになる為には何が必要か」に気付いて欲しいだけなのです。


◇出せば入ってくる真理◇


何故人間は見返りを求めるのでしょうか?


それは、先ほどお話したように、欲望の充足と救い(幸せ)を混同し、飽くなき欲望の充足に幸せを求めているからです。


限りなき欲望に縛られ、求めることしか知らず、欲望を叶える事が幸せになる条件だと錯覚している限り、出せばその分だけマイナスになるという発想しか生まれませんから、出す事も与える事も出来ません。


しかし、大自然が教えてくれているのは、その正反対の心で、マイナスにならなければプラスを呼び込む事は出来ないという普遍的な真理です。


これは、磁石の原理とも通じます。磁石にはプラス極とマイナス極があって、プラス極とマイナス極は引き合いますが、プラス極同士、マイナス極同士は反発し合います。


自分が一生懸命プラスにしようと求めてばかりいると、寄って来るのはマイナスばかりで、プラスは寄って来ないのです。


与えるマイナスの心を持っていると、寄ってくるのは、マイナスではなく、プラスの方です。


「阿吽の呼吸」という言葉があるように、息を吐かなければ吸う事が出来ません。


求めるという事は、息を吸い続けるのと同じ事で、息を吸う為には、先ず息を吐かなければならないのです。


息を吸い込む阿(あ)と、息を吐く吽(うん)が交互に繰り返される事によって、幸せの好循環が生まれ、そこに、福の神が幸せを運んで来てくれるのです。


合掌


大自然から学ぶ智慧(1)
大自然から学ぶ智慧(2)
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高野山法徳寺Website「救いの扉」

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2018年05月02日

お目出たい紅白の牡丹!

紅と白のボタンが咲いていますが、同じ根から出ています。
珍しい現象ですが、お目出たい事が起きる前兆かも……?
う〜ん、よく分かりません(笑)


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石楠花も満開です。


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ツツジも負けじと、次々に花開いていますよ。


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posted by カンロくん at 14:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記